2025年12月31日

故 光易 恒 先生を偲ぶ

前回のブログ更新以降、仲間とともに12月末の完成を目指して「地区住民による津波防災対策計画立案のための手引き」制作に取り組んできた。しかし、作業は遅々として進まず、未完成のまま、年を越さねばならない状況にある。

こうした中、123日に日本海洋学会MLを通して、九州大学名誉教授・元九州大学応用力学研究所所長の光易 恒(みつやす ひさし)先生が1120日に96歳でご逝去されたことが伝えられた。先生のご専門は海洋物理学、特に海洋波であった。大学院学生時代の管理人は、研究テーマを同じくする先生の誠実で謙虚なお人柄と研究に対する厳しい態度に接し、尊敬の念を抱いていた。先生が現役引退後は疎遠になっていたが、200812月の拙ブログ記事へ先生からコメントがあり、メールを通した交流が再開した。以下に、管理人との交流の一端を紹介して、先生を偲ぶ。

1.出会い
先生が九州大学を1992年に退官されたときの退官記念講演の記録他を収録した「九州大学応用力学研究所所報. 74号(1992」に、それまでの先生のご経歴と研究業績などが詳しく記載されている。また、受賞歴やその後のご経歴は、Wikipedia「光易 恒」の項を参照されたい。これらの資料によると、管理人が卒業研究として「風洞水槽を用いた風波の上の風速変動場の実験的研究」を始めた1971年春は、先生が九州大学応用力学研究所の教授となられて4年目で、「海洋波の計測法の開発研究」プロジェクトを開始された年であった。先生と初めてお会いしたのは、1971年夏の波浪研究会(開催地:白浜?)または日本海洋学会1971年度秋季大会(開催地:函館)だったと思うが定かではない。

2.拙ブログ過去記事の中の先生
2.1 2008年12月28日付け記事
拙ブログ20081228日付け記事「私的なつながりの場」の中に、同年128日午後に港湾空港技術研究所を訪れた時の感想として、以下の記述がある。

私が学部生、大学院修士課程学生だった頃には、港湾空港技術研究所の前身である港湾技術研究所の光易恒先生が風波の発達過程に関する精緻な風洞水槽実験結果を次々と発表されており、港湾技術研究所は当時の私のあこがれの研究所の一つであった。このような研究所に、40年後に先輩を訪ねることになり、その人の縁の不思議さに感慨もひとしおであった。

この文章で、「港湾技術研究所の光易恒先生」という記述は記憶違いである(このことに本記事を書くまで気が付いていなかった)。上に述べたように、管理人が学部学生の時には、既に先生は九州大学教授であった。おそらく、先生が港湾技術研究所時代に発表された論文を読んだ時の印象が強く残っていたためだと思われる。上の記述を、以下のように訂正する。

私が学部生、大学院修士課程学生だった頃に風波の発達過程に関する精緻な風洞水槽実験結果を次々と発表されておられた九州大学応用力学研究所の光易恒先生は、九大に異動される前には、港湾空港技術研究所の前身である港湾技術研究所に勤務されていた。このため、、港湾技術研究所は当時の私のあこがれの研究所の一つであった。このような研究所に、40年後に先輩を訪ねることになり、その人の縁の不思議さに感慨もひとしおであった。

この記事に対し、2009722日に先生から、管理人の記憶の誤りを指摘することなく、以下のコメントがあった。

元港湾技術研究所ならびに昔の私の仕事について記述を懐かしく拝見しました。
港湾技術研究所は、私にとっては研究者としての出発点、一方研究所自体は急速な発展期で活力にあふれており、非常に思いで深いところです。

先生のお心の広さを再認識している。

2.2 2017年12月31日付け記事
拙ブログ20171231日付け記事「2017年を振り返る」の中に

カズオ・イシグロさんのノーベル賞受賞を知り、不思議な因縁を感じた。それは、2月末に光易恒先生(九州大学名誉教授)から

石黒鎭雄博士(カズオ・イシグロさんの父)のことを日本海洋学会ニュースレターに寄稿しようと思い、ネットで調べたら、管理人のツイートを見つけたので、とりあえず、管理人に石黒鎭雄博士のことで知っていることを伝える、

というメールを頂き、その後の光易恒先生の日本海洋学会ニュースレター寄稿原稿の下読みでお手伝いしていたである。

という記述がある。その後の経緯を含めた詳細については、12月31日付け記事をご覧ください(2月末のメールについては以下の第3.4節を参照)。

2.3 2019年02月13日付けの記事
拙ブログ20190213日付けの記事「故Walter Munkさんのこと」の中で、ムンクさんが1999年に第15回京都賞を受賞されたときに鹿児島大学で開催した懇談会の様子を紹介した箇所に、

京都では、「海洋研究の最前線」と題するワークショップが松野太郎先生の企画・司会で開催され、鳥羽良明先生他が講演されることになっていた。このため、鹿児島大学での懇談会には、ムンクさんの研究と関係が深いものの、京都でのワークショップで講演されなかった光易恒先生と寺本俊彦先生にも鹿児島にお越し頂いて、鹿児島大学の海洋研究者とともに約2時間ほど懇談とした。

という記述がある。寺本俊彦先生は202312月にご逝去されており、鹿児島にお越し頂いたお二人ともお亡くなりになってしまった。

3.メールでの交流
3.1 美術館の話し
201527日に件名「美術館の話し」として以下のメールが、
私の思い出の美術館 写真入.pdf
美術館について 大岡.doc 
の2つのファイルとともに届いた。

(管理人) 樣

私は、美術館が好きで、暇さえあれば美術館に出かけた時期がありました。その頃、美術館について書いた文章がありますのでお届けします。

ただし、私的な回想録の一部として書いたので、家庭的な記事も多く申し訳ありません。編集し直せばよいのですが、私的な所は目をつむって下さい。

お恥ずかしいないようですが読み流して下さい。

光易 恒

「私の思い出の美術館 写真入」では、思い出の深い美術館として、神奈川県立近代美術館と、東京ブリジストン美術館を挙げ、その紹介他を9ページにわたって述べている(最終2008613日付)。「美術館について 大岡」では、大岡信氏のエッセイ「人生の黄金時間」を読んで考えたことが書かれている(2007617日付)。

「私的な回想録の一部」を管理人にお送りになられたお気持ちは不明だが、「美術館について 大岡」の最後の一文を私に伝えたかったのかもしれないと、今になって思う。

これ(管理人注:芸術家である大岡氏は、芸術作品を見る事は一種の仕事の一部であって、全神経を集中して作品を見ておられるのではないか)は、研究者の場合、他人のすぐれた論文を読むのに似ている。すぐれた論文を読む事は、様々なヒントをえたり、精神的刺激を受けて非常に楽しい反面、なぜこの亊に早く気がつかなかったのかと後悔の念に襲われたり、長時間難解な論文に集中した結果、非常に疲労を感じたりする場合もある。

3.2 レビユーについて
201674日に件名「レビユーについて」として以下のメールが先生から届いた。

日本海洋学会「海の研究」編集委員会
委員長 (管理人) 様

田口哲氏の総説 「レッドフィールド比:研究の歴史と現状,今後の展望」を、専門外ながら興味深く読みました。

研究分野が、非常に細分化された現在、他分野の研究の現状を知るのみならず、境界領域の研究、異分野間の共同研究等を行うためにも、優れたレヴィユー論文は、非常に有用だと考えて居ます。

また、専門領域に限っても優れたレヴィユー論文は、その分野の研究の発展のために(研究の発展段階にも依存するかもしれませんが、個人の研究のためにも)役立つように思います。海洋波の研究で言えば Ursell (1956)のレヴィユー論文。

ただ、単に網羅的ではなく(これも役立ちますが)優れたレヴィユー論文を書くには、時間と労力を要するので、全てにおいて慌ただしい現在、難しいかもしれませんが、編集委員会としてお考えになっては如何と考え筆を執りました。

光易 恒

管理人が日本海洋学会「海の研究」編集委員会委員長として取り組んだ課題の一つが総説(レビュー)の招待論文を増やすことだったので、先生のお言葉は、管理人を大いに力付けた。また、管路人は、Ursell (1956)の論文は当時の風波の発達機構に関する研究成果をまとめ、次の課題を明示しており、総説のモデルとすべき良論文だと思っていたので、先生も同じお考えであることを知り、嬉しかった。

3.3 中国訪問日記
2016730日に件名「中国訪問日記」として以下のメールが、
初めての中国(1986).pdf
のファイルとともに届いた。

(管理人)様

初めての中国訪問日記をまとめたものをお届けします。

自分の覚書の様なものですが、ご照覧下さい。

光易

1986年の1015日から29日に、青島にある山東海洋学院(現:中国海洋大学)での3日間の講義を主目的とした、北京、青島、(上海、杭州)を巡る旅の詳細な記録(直前の義父の葬儀の様子を含め全36ページ)である。管理人が青島で開催された国際研究集会参加のために初めて中国(青島)を訪れたのも1986年であり、懐かしく読んだ。その後に青島海洋大学を訪れた際に先生の協力で設置した風洞水槽を見学したが、この訪問記を読んで、その経緯を知ることができた。

3.4 石黒鎭雄氏のこと
2017227日に件名「石黒鎭雄氏のこと」として、以下のメールが届いた。

(管理人) 様

2007年に石黒さんが亡くなって既に10年経過しましたが、JOSのニュースレターに記事を書こうかと、ネットを調べて居ますと、(管理人)さん増田さん、小栗さん等の記事がありましたので、とりあえず私が知っていることをお伝えします。

石黒さんはたしか九州工業大学の前身明治専門学校のご出身です。今名前を思い出せませんが、この学校からは石黒さんの他にも独創的な研究者が出ていたとの記憶があります。 私が石黒さんの名前を知ったのは長崎海洋気象台に居られる頃の研究で、確か湾振動の研究であったと思います。電気回路を用いた研究であったか、水理模型実験であったか思い出せませんが、独創的な研究だなと思って名前を記憶していました。

石黒さんに直接お目にかかったのは、私が九州大学で波の研究を始めた頃のことです。 1969年に英国のブライトンでOceanology'69が開かれたので、この学会で研究発表するため九大の田才、栖原両先生と一緒に英国に出かけたました。初めての外国での発表であるにもかかわらずスライドを忘れて出かけ、冷や汗をかいた思い出があります。

この時、どいう切っ掛けか石黒さんにお目にかかり、この頃英国に滞在中であった国司先生とご一緒に、石黒さんが運転する車で、石黒さんが所属する国立海洋研究所NIOに案内して頂きました(この研究所は、戦時中、米国のスクリップス海洋研究所と同様に、波浪予報の研究を行って居り、基礎研究でも優れた研究を行っていましたにで一度訪ねたいと思っていました)。

この頃、石黒さんは、電子回路を用いて湾振動などをシミュレートする研究を続けて居られ、当時の研究所長Deacon博士の信認が非常に厚いようでした。 この時、今は亡き、有名なDeacon所長や、中立ブイの開発で有名なスワロー博士夫妻に紹介して頂きました。 その頃、研究にお使いになって居たアナログ電子回路を背景にした石黒さんの写真がありますので添付致します。また、(管理人)さんのブログに、恩師の国司先生から石黒さんの話を聞いたとありますが、国司先生もこの時の事を記憶なさっていたのではないでしょうっか。当時、英国のホテルで撮影した国司先生の写真(国司、光易、田才)も添付します。

その後お目にかかる機会はありませんでしたが、何かで石黒さんがお亡くなりになった事知り、お悔やみの手紙を奥様に差し上げました所、ご子息と二人で元気で暮らしているとの丁重なご返事を頂きました。 これらの事はつい先ごろのことの様に思って居ましたが、お手紙を取り出して見ると2007年、既にそれから10年経過していますので、時間の経過が早い事を痛感致します。

ご子息のかずお・いしぐろ氏には、会った事が有りませんが、ご存知のように 「日の名残り」(邦訳)で有名なブッカー賞の受賞をはじめ数々の賞を受賞した英国を代表する作家で、昔日本にも来られたようですが、私は気付きませんでした。

光易 恒

ここには日本海洋学会ニュースレター寄稿記事では触れられていない、興味深い裏事情が記されている。1960年代末の研究状況を貴重な文だと思う。

4.おわりに
先生と最期のお会いしたのが何時だったのか、定かではない。2018年に先生が日本地球惑星科学連合フェローに選出されたときの授与式とその後の懇親会の席だったかもしれない。

最期に親しくお話ししたのは、20089月に広島国際大学呉キャンパスで開催された日本海洋学会2008年度秋季大会の時だったように思う。明るい日差しの下、ベンチに腰掛けて、最近の研究環境などについてお話しした記憶がかすかにある。

202225日にブックスキューブリック主催で光易恒トークイベント「波の誕生から消滅まで」が開催されるとの告知があり、オンライン参加を申し込んだが、新型コロナウイルス「オミクロン株」の感染拡大の状況を踏まえ延期となり、(そのまま中止となって?)画面を通してお会いすることができなくなった。

先生は、1929年のお生まれであり、管理人へのメールの多くは、先生が80歳以降のときにいただいた。私も先生に倣い、80歳以降になってもいろいろ発言を続けたいと思っている。

ご冥福をお祈りします。

posted by hiroichi at 03:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 想い出 | 更新情報をチェックする
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