2024年12月19日

時代とともに変わった「Publish or perish」の意味?

気が付けば128日の前回の更新から11ヶ月が過ぎようとしている。更新が滞ってしまったのは、種々の締切に追われ、私的なブログ更新作業を依頼された作業より優先することに躊躇していたためである。そんな中、管理人が会員として参加している日本科学振興協会(JAAS)で昨年に引き続き、科学教育Advent calendarを企画し、寄稿者を募集しているのを知った。昨年に比べて準備が十分でなかったため寄稿予定者が少ない状況を知り、時間的余裕があまりないのも省みず、1220日に寄稿することを121日に申し出た。テーマをあれこれ考えたが、じっくりと取り組む精神的、時間的な余裕がないため、科学と科学教育について、「Publish or perish」をキーワードとして、管理人の考えを断片的にあれこれいかに記します。

なお、本記事はJAASの教育対話促進プロジェクトが実施する「科学教育 Advent Calendar 2024」の20日目の投稿です。アドベントカレンダーとは、12月25日のクリスマスに向けて、12月1日から日替わりで様々な人が記事を投稿するものです。是非、ご覧ください。


1.「Publish or perish」の本来?の意味

現在の「Publish or perish」は、「論文業績がなければ、学術職を得られない」あるいは「成果論文がなければ、その後の研究費の得ることが出来ず、職を失う」のような意味で使われている。この言葉は、研究職ポスト獲得競争が激しい中で論文数を指標とした研究業績評価や研究組織運営管理者が所属研究者に対して発する脅しの言葉として使われ、この言葉のプレッシャーが研究者の心を蝕み、データ改竄などの研究不正を生み出す引き金となっている。

管理人が学部・大学院学生であった1970年代には、「Publish or perish」という言葉は、「自分が得た研究成果は、どんな形でも良いから、必ず、印刷公表しなさい。印刷公表しなければ、その成果は科学の発展にも寄与しない。」という「知の共有」を推進する意味であったと記憶している。この言葉の背景には、「科学の営みは、時空を超えた共同作業である。この共同作業は、各人が自分の成果を印刷公表し、後世に残すことで成り立っている」という意味があったと今では理解できる。

ただ、教員・学生の中には、完成度の高い論文の公表に執着して、公表論文数が極めて少ない者もいた。そのような教員・学生でも、優秀さを認められ、それなりのポジションに居た。管理人は、学位論文を作成する際に、内容を完結させるためには後10年あっても足りないので、完結した内容にすることは諦め、何が分かったかを明示するような論文を書くように指導された。結局、この論文に対する姿勢は、最後の論文執筆まで続いたように思う。

ともあれ、「Publish or perish」という言葉の現在の意味は、昔の「知の共有」とは逆に、行き過ぎた成果主義あるいは研究評価を代表する言葉になってしまっている。また、それと同時に、研究成果を印刷公表する意味についての認識が時代の間で大きく変わってしまったように思う。

引用されない論文は論文として価値がない、被引用係数(Impact Factor, IF)が計算されてない無名の学術雑誌に論文を投稿するのは意味がない(IFが高い雑誌での掲載しか価値を認めない)という考えが、研究組織運営管理者のみならず先端的な研究者の中にも広まっているように思う。

注1:IFとは、その雑誌に1年間に掲載された論文1編が公刊後2年間に引用された平均回数であり、その雑誌の評価にはなるが、個別の掲載論文の新規性などの指標ではない。

2:被引用数とは、その論文が公表された後、他の論文などで引用された回数であって、その論文の波及効果などの指標となる場合もあるが、論文内容・テーマなどによる偏りが大きい。

2.紀要について

紀要とは、大学等構成員の研究成果を印刷公表する場として、学部単位、学科単位あるいは研究所単位で公刊される学術論文誌の一般的総称である。多くの大学や研究所の紀要はIFの対象になっていない。

管理人が学部・大学院学生であった1970年代には、まだ1 米ドル=360円であり、外国雑誌の原稿投稿料が非常に高額であった。このため、外国雑誌に投稿できるのは豊富な研究経費を持つ一部の極めて恵まれた研究者のみだった。この状況で研究成果を印刷公表する場として、多くの大学では学部単位、学科単位、研究所単位で学術論文誌(紀要)が刊行されていた。また、国内学会は、会員の投稿料を無料とする学会誌を刊行していた。国内学会誌の掲載論文で、紀要掲載論文を引用し、その国内学会誌掲載論文を国際学術誌投稿論文で引用することで研究成果の世界へ発信が図られていた。紀要や国内学会の掲載論文の別刷りを同じ分野の国内外の研究者に郵送するのが若手研究者の就職活動であった。

紀要掲載論文の質を高め、世界の研究者が注目する雑誌とすることが大学人の務めだと語る友人もいた。また、分野は忘れたが、図書館の片隅に埋もれていた論文が、最新の論文の結果を予測していたとの報道があった記憶がある。紀要の刊行に係る経済的・人材的な負担の削減を理由に、紀要の発行を中止した学科がある。しかし、紀要が昔の「Publish or perish」の場、すなわち「知の共有」の場になっていることを思うと、紀要等の刊行が維持されることを願わずにはおれない。

3.新しい「研究の評価」:DORA

現在の「Publish or perish」における「Publish」の意味は、昔の「知の共有」から、研究活動の評価対策への大きく変わってしまった。業績リストに掲載する各公表論文には、被引用数と掲載誌のIFを付すことを求める大学、研究機関が多いとのことである。この状況に対応するためには、評価される研究者は、出来るだけ引用されやすいテーマの研究をおこない、その結果をIFの高い学術雑誌に、出来るだけ数多く投稿するようになる。このような対応を強いられてきた先進的な研究者の中には、現在の「Publish or perish」の意味、すなわち「成果を出せ、さもなくば、去れ」という考え方が当然であるという風潮が広まっているように思う。

このような状況に至った理由としては、求職者数に比べて大学等における研究職の数が圧倒的に少ない状況で、採用のためのきめ細かな調査・データ収集ができなくなったこと、大学教員などの研究者の常勤先が任期制となり再任用資格審査の機会が増えたこと、採用人事やの公正性を示すために明らかな基準として論文数を採用するようになったこと、研究成果を論文数でしか評価できない「社会」の存在が考えられる。これに対し、DORASan Francisco Declaration on Research Assessment, 研究評価に関するサンフランシスコ宣言)では、採用・昇進・助成等個別の研究者や研究内容の評価において雑誌ベースの数量的指標を用いないことを求めている。東京大学他、DORAの賛同機関が増えている。DORAが勧める研究評価を実施する機関を増やすことが必要だと思う。

関係資料:JAAS(日本科学振興協会)のDORA署名について

4.おわりに

Publish or perish」という言葉から、「科学の営み」と大学院教育・研究評価についての思いを記した。管理人が学部・大学院学生であった1970年代の思い出話を語ることで今の学部・大学院学生の人たちに何かを伝えることが出来たのであれば、幸甚である。


posted by hiroichi at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育 | 更新情報をチェックする
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