2022年09月02日

故柳哲雄さんとの50年

7月4日に日本海洋学会MLで、九州大学名誉教授、元 同大学応用力学研究所所長であった柳哲雄さんが、7月2日18時48分に脳出血のため急逝されたことが伝えられた。故人と管理人は、1971年4月以来の研究室同期生として、対象は異なるものの、共に海洋学研究者の道を歩んだ仲間であり、拙ブログでも何回か故人の活動に言及している。奇しくも、本年5月には2人同時に日本海洋学会総会で名誉会員就任が承認され、日本海洋学会2022年度秋季大会期間中の9月5日には、2人で壇上に並んで就任の挨拶をする予定であっただけに、万感の思いにかられ、言葉を失った。以下では、故人を偲び、故人との約50年の公私にわたる交流を振り返る。


1.学部学生時代
故人と管理人は、管理人が1971年4月に学部4回生になって早々の海洋物理学研究室で初めて出会ったと思うが、記憶は定かではない。しかし、初対面の時に、管理人は、最初、故人の雰囲気から「柳さん」と「さん」付け」で挨拶したが、故人が管理人と同じく課題研究を受講する学部学生であることが分かって、すぐに、互いに名字を呼び捨てで呼ぶ合うようになったことを、今でも鮮明に覚えている。後日、故人が、入学年が1年先で、大学紛争時には京大全学共闘会議の活動の一翼を担っていたことを人づてに知ったが、その後も二人の間の関係に変わりはなかった。故人が大学紛争での体験を話すことはなく、管理人から尋ねることもなかった。

海洋物理学研究室に活動拠点としての個人用机を得た同期は5人であった。各人は、週に1回開かれていたゼミで各人が選択した課題に関連する新旧の論文を輪番で紹介する以外は、就職活動や秋におこなわれる大学院入試のための勉強をしていた。大学院の定員は各講座2名程度であり、同期に誰もがその優秀さを認めるOYがいたので、大学院進学を希望していた管理人にとっては、極めて厳しい状況であった。このため、不安に苛まれながら、数学、第2外国語などの試験対策にかなり真面目に取り組んでいた。結局、海洋物理学研究室からは、故人、管理人、OYの3名が、工学部から受験したATとともに合格した。我ながら、よく合格できたものだと、今でも思っている。必死な思いで試験対策の勉強をしていた管理人に比べて、故人は前年から「瀬戸内海汚染総合調査団」の活動に深く係わり、4回生の夏には瀬戸内海全域の汚染調査に参加していた。そのような状況であったにもかかわらず、大学院に合格した故人は、管理人にとっては、一目も二目も置く存在であった。

2.大学院学生時代
修士課程に進学後、故人は防災研究所の樋口明生教授の下で水理模型実験による沿岸域潮流場の研究を始めた。一方、管理人は学部生時代から継続して風洞水槽実験による風波上の風速変動場の研究を続けた。当時の海洋物理学研究室は、皆で酒を飲む機会が多く、また、麻雀、花札に興じることも多かったが、週に1回開かれるゼミでの論文紹介や進捗状況報告では、学年の上下の差なく、活発に議論が取り交わされていた。その中で、故人と管理人との間で個人的で親しい特別な交わりはなかったが、さまざまな場面での故人の相手の質問・指摘に対する真摯な応答や態度に接して、管理人は故人に強い信頼を抱くこととなった。

故人から、ある時、市民運動のネットワーク作りを目指す「月刊地域闘争」という雑誌を紹介され、全共闘シンパであった管理人は、購読することにした。講読して、初めて、その表紙は、故人の繊細なペン画であることを知った。忙しい大学院学生生活の中で、毎号の表紙を描きつづけている故人の処理能力の高さとともに、几帳面さ、画才に驚いた。「月刊地域闘争」を発行していたロシナンテ社は、経営難に苦しみながら、その後、誌名を「月刊むすぶ」に替えて刊行を続けており、管理人も購読を続けている。後年、管理人が「月刊むすぶ」の講読を続けていることを故人に伝えた時には、「まだ、講読しているのか」と半ばあきれ顔で言われたが、故人が「月刊地域闘争」との係わりを絶った詳しい事情を管理人に話すことはなかった。

「月刊むすぶ」は、管理人によっては、市民運動の現場を担っている人々の肉声を知る良い媒体の1つとなっていた。その掲載記事のいくつかを拙ブログ記事でも言及している。この意味で、故人が「月刊地域闘争」を管理人に紹介してくれたことが、現在の管理人のあり方の形成に大きな影響を及ぼしたことは確かであり、感謝している。

二人は共に1974年3月に修士課程を修了した。その後、管理人は博士課程に進学したが、故人は修士論文の指導教官であった樋口先生が創設に深く係わっていた愛媛大学工学部海洋工学科の新設に合わせて、同学科の助手になった。当時は、博士の学位を持たなくても大学教官に採用されることが珍しくない時代であったが、故人はそのことを気にしていたのかどうかは、知らない。ともかく、故人は愛媛大学に赴任後も、しばしば海洋物理学研究室のゼミに参加し、当時、進めていた潮汐残差流についての水理模型実験データの解析結果他を逐次紹介し、それらをまとめて博士論文を完成させ、1978年3月に「潮汐残差流の発生・維持機構に関する研究」で博士の学位を取得した。それは、博士課程に進学した管理人が「風波のスペクトルの発達機構に関する研究」で学位を取得した4か月前であった。

3.大学教官あるいは海洋学研究者として
管理人が大学院学生であった期間、故人の研究対象が潮汐流であったのに対し、管理人の研究対象が風波であったため、二人の間の研究上の交流はほとんどなかった。しかし、管理人が1979年8月に鹿児島大学水産学部助手の職を得て、東シナ海、九州周辺海域や鹿児島湾の物理環境に関する調査研究に係わるようになって、状況は大きく変わった。とはいえ、故人は、海洋工学科に所属しながら、瀬戸内海や東京湾を対象に、沿岸域の物理のみならず生物、化学過程が複雑に関係する海洋汚染問題や水産海洋学研究に精力的に取り組んで、「里海」を提唱するまでに至ったのに対し、管理人は水産学部に所属しながら、生物、化学過程を含めた水産海洋学研究に本格的に踏み出すことができないまま、黒潮変動および大気海洋相互作用という海洋物理学的課題を追い求める道を歩んだ。その結果、故人と管理人が共著の論文は、1984年におこなった「日向灘の黒潮フロント」の観測結果を1986年に海洋気象学会誌「海と空」で報告した1編のみであった。このように共同して研究することはほとんどなかったが、故人を共通の友人として、管理人は生物分野および化学分野の多くの人々と親しくお付き合いすることができた。このことが、管理人の海に対する視点を、物理のみではなく、生物、化学、地質分野にも向ける大きな手助けになったと思っている。

遅筆、寡作な管理人に比べて、故人は多くの論文を執筆し、教科書をはじめとする様々な著書を出版している。しかし、故人が多くの論文を公表したのは、研究業績作りのためではなかった。論文は、自分が得た研究成果を整理し、記録するために、教科書は自分が担当する授業を受講する学生のために書いていると故人から聞いたことがある。好奇心に駆られ、次々と新たな観測計画に取り組み、その解析結果の公表や講義資料の準備が遅れがちであったな管理人には真似のできない大学教員の姿がそこにあった。

1987年頃、管理人が文部省在外研究を申請に際し、主な滞在先をどこにするか迷っていることを故人に何気なく話した時に、米国ウッズホール海洋研究所のRobert C. Beardsleyさんの所へ行くことを勧めてくれたのが故人であった。故人と管理人が一緒に参加していた日本海・東シナ海研究集会(JECSS)でのBeardsleyさんの人柄を見抜いての助言だったと思うが、管理人にとっては米国ウッズホール海洋研究所は世界最先端の研究所であり、憧れの的ではあっても、そこに長期滞在することなど思いもよらないことだった。結局、故人に背中を押され、Beardsleyさんに受け入れを依頼した。その結果、米国ウッズホール海洋研究所に滞在することとなり、このことが、管理人のその後の研究の方向を定めたのだった。

故人とは海外で開催された多くの研究集会を共にした。管理人が初めて参加した海外で開催された国際会議は1885年にホノルルで開催された国際海洋物理学大気物理学連合大会であったが、故人も日本からの参加者の一人であった。また、管理人が初めて中国を訪れたのは、1986年に青島市で開催された国際大陸棚沿岸海洋研究集会であったが、故人もこの集会に参加していた。

JECSS(現在はPAMS:太平洋アジア縁辺海研究集会)は故人と管理人がともに係わる国際集会として思い出深い。中国、韓国、台湾と国内各地で2年毎に開催されたほとんどのJECSS集会に1985年から2007年頃まで共に参加していた。故人は、JECSS運営委員会の日本委員を長く務め、1995年に愛媛大学で開催された研究集会実行委員会委員長を務めた。一方、管理人は1999年に鹿児島大学で開催された研究集会の研究集会実行委員会事務局長を務めたのだった。

故人は、1997年に九州大学応用力学研究所に異動した。同じ年に黒潮変動予測実験プロジェクトが始まり、管理人は研究打合せのために応用力学研究所をしばしば訪れたが、故人は海外出張などで不在であり、会えないことが多かった。管理人が2005年に海洋研究開発機構に異動してからは、会う機会は、海洋学会の春季大会および秋季大会の時を除いてほとんどなくなった。

最期に故人と親しく話をしたのは、2016年6月に琵琶湖博物館で開催された海洋靴理学同窓会であった。その時、管理人の「社会の中の海洋学研究と教育」と題する講演を笑みを浮かべながら聞いていた故人の姿を思い出す。恐らく、瀬戸内海の海洋環境保全に長年にわたって取り組み、里海を提唱した故人は、管理人の青臭い議論を微笑ましく思って、優しく見守っていたのではないか思う。

PC画面を通して最期に故人を見たのは、本年3月17日に開催された沿岸環境関連学会連絡協議会・日本財団合同シンポジウム「地球温暖化に伴う我が国沿岸域の異変~忍び寄る海洋酸性化の現状~」4.パネルディスカッションおよび総合討論におけるパネリストとして発言する姿であった。当初は現地参加を申し込んでいたが、イベント参加が続いて疲れが残っていたので、オンライン参加した。以前に比べてちょっと声に張りないなあとは思ったが、その3か月半後に亡くなるとは、思いもしなかった。

このシンポジウムの録画がYoutube(https://www.youtube.com/watch?v=tVLjdz86G7I)で公開されており、その3:14:54~3:17:28と3:41:07~3:44:11で、故人の様子を今でも見ることが出来る。それを改めて視聴すると、故人は総合討論の最後で、「私がこれまでやってきたことは、漁師から問われて、一生懸命勉強して、調べて分かったことを漁師に伝え、それに対する漁師からの質問に対応することの繰り返しだった。現場の経験豊かな漁師と学問を担う研究者が深く交わることで、新しいテーマとか発見ができると信じている」と述べている。最近、科学コミュニケーションの方法の一つとして、シチズンサイエンスが注目されている。故人の発言から、課題設定の段階から市民が研究に参画する形のシチズンサイエンスとしての海洋研究を故人が実践していたことが分かり、故人と管理人とは、方法は異なるが、海洋科学コミュニケーション活動を続けてきた同志であったことを再認識した。

4.おわりに
瀬戸内海で育った幼少の頃から潮汐に関心を持ち、大学紛争のただ中で修羅場を体験しながら、初志を貫徹し、沿岸海洋学研究者となった故人は、その坊主頭とサングラスの風貌、ややぶっきらぼうな言葉使い、鋭い質問から、多くの人から怖がられていた。しかし、管理人からは、根は、心優しき、シャイな男のように見えた。

何時だったか忘れたが、松山で故人が馴染みのスナックで珍しく二人だけで酒を飲み交わしたことを懐かしく思い出す。故人から毎年届いていた年賀状が、来年からはないと思うと、寂しさが増す。故人と共に過ごした50年間の思い出を胸に、これからも海洋科学コミュニケーション活動を続けていこうと思っている。ご冥福をお祈りします。合掌

ラベル:訃報 研究
posted by hiroichi at 17:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 想い出 | 更新情報をチェックする
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