7月26日付け毎日新聞東京版朝刊で「査読偽装、米誌も撤回 ワイリー社、不正認定 福井大教授、受け入れ」という記事が掲載された。この記事は、6月10日に毎日新聞がスクープとして報じた「福井大教授が「査読偽装」の疑い 論文審査に自ら関与か」と題する記事の最新情報である。毎日新聞の記事で紹介されている事件のあらましは、
福井大子どものこころの発達研究センター長の友田明美教授が、査読を担った千葉大社会精神保健教育研究センター副センター長の橋本謙二教授と協力し、投稿した学術論文の査読に自ら関与して「査読偽装」をした疑いがある
というものであった。この報道に対し、管理人は、違和感を感じた。それは、上の報道内容から判断すると、今回の「査読偽装」事件の元凶は、責任著者の友田教授ではなくて、査読を担当した橋本教授であるという視点が全く示されていない点であった。
査読システムは学術論文の質を確保するために考え出されたもので、科学の健全な発展の根幹を成すものであると管理人は考えている。しかし、このシステムの現状は、査読を通して科学の発展に寄与しようとする査読者の善意に大きく依存している点で、多くの問題を抱えている。今求められているのは、公明正大な査読システムの維持あるいはその代替システムの構築である。以下では、海洋学分野の国内外の学術誌の査読と国内学会誌の編集に係わってきた者として、学術誌の編集・査読の現状とそのあり方についての考えを述べる。
査読システムは学術論文の質を確保するために考え出されたもので、科学の健全な発展の根幹を成すものであると管理人は考えている。しかし、このシステムの現状は、査読を通して科学の発展に寄与しようとする査読者の善意に大きく依存している点で、多くの問題を抱えている。今求められているのは、公明正大な査読システムの維持あるいはその代替システムの構築である。以下では、海洋学分野の国内外の学術誌の査読と国内学会誌の編集に係わってきた者として、学術誌の編集・査読の現状とそのあり方についての考えを述べる。
1.今回の「査読偽装」事件の経緯
6月10日付け他の毎日新聞記事及び多くの学術誌での投稿論文原稿の取り扱い手順から推定した事件の経緯は以下のようになる。
6月10日付け他の毎日新聞記事及び多くの学術誌での投稿論文原稿の取り扱い手順から推定した事件の経緯は以下のようになる。
- 福井大友田教授は、責任著者として、2020年7月、同じ研究室の研究員を筆頭著者とする論文の原稿を国際学術誌に投稿。その際に、査読候補者の一人に千葉大橋本教授を推薦。
- 学術誌担当編集者が、他の査読者と合わせて、橋本教授にも査読を依頼。
- 橋本教授から友田教授に、査読の依頼を受け、受諾したことを伝えるとともに、投稿論文への「コメント」を自身に送るようにメールで依頼。
橋本教授から友田教授へのメール:
「今朝、以下の論文(タイトルを記載)が回って来ました。タイトルから先生の論文と思い、引き受けました。簡単なコメントを頂けたら、参考にさせて頂きます」 - 友田教授が研究室のメンバーに「コメント」の作成を指示。
友田教授から研究室メンバーの一部へのメール:
「先生方、査読が橋本先生に行きました。それぞれの立場からコメントを作成してください」 - 友田教授の研究室のメンバーの1人が「コメント」を作成して、友田教授に提出。
- 友田教授が、研究室のメンバーの1人が作成した「コメント」を橋本教授に送付。
- 橋本教授が、友田教授から受け取った「コメント」を含む査読報告を学術誌担当編集者に送付。
- 学術誌担当編集者が橋本教授および他の査読者から受け取った「コメント」を含む査読結果を査読者を匿名として、友田教授に送り、各査読者の「コメント」に応答した改訂版の作成・提出を依頼。
- 友田教授他共著者が改訂版を作成し、学術誌担当編集者に送付。
- 学術誌担当編集者は改訂版では十分な改訂がなされていると判断し、その判断を基に、学術誌編集長が論文の受理を決定。
- 2020年10月に学術誌にオンライン掲載。
- 2022年6月に毎日新聞による「査読偽装」の報道
- 7月に当該学術誌が論文撤回を公表
公表された論文(現在は、取下げを明示):
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0306453020304492
2.誰が元凶か?
査読者は、著者の権威に配慮せずに自由独立な立場で、自説に拘らず、投稿論文原稿の内容が該当学術誌での公表に値するか否かについての意見を述べ、必要に応じて、より良い内容とするための助言・提案をおこなうことが求められている。このような査読の公正性を確保することは、科学の健全な発展の根幹を成すものであると考えられている。そのため、編集担当者および査読者は著者と利益相反がないことが求められ、査読者には、著者と直接交流することのないことおよび査読対象論文原稿を他者に示さないことが求められている。
このような査読システムにおいて、上に述べた事件のあらましの中の、1、2、8、9、10、11のプロセスが、多くの学術雑誌で採用されている(詳細は次章で述べる)。一方、今回、査読者が、査読者になったことを著者に伝え、論文についてコメントを求めた3の行為および責任著者との交渉を担当編集者に伝えずに査読結果を提出した7の行為は、上に述べた査読者倫理に反する背任行為である。特に、編集担当者を欺いておこなった7)の行為は決して許されるものではない。責任著者、共著者がルールに反する査読者の依頼を拒絶しないで、4、5、6の対応をしたことは、決して許されることではない。しかし、今回の「査読偽装」事件は、査読者の犯した背任行為を発端として発生したものであり、査読者である橋本教授の責任は、責任著者である友田教授に比べて極めて大きいと管理人は考える。
査読者は、著者の権威に配慮せずに自由独立な立場で、自説に拘らず、投稿論文原稿の内容が該当学術誌での公表に値するか否かについての意見を述べ、必要に応じて、より良い内容とするための助言・提案をおこなうことが求められている。このような査読の公正性を確保することは、科学の健全な発展の根幹を成すものであると考えられている。そのため、編集担当者および査読者は著者と利益相反がないことが求められ、査読者には、著者と直接交流することのないことおよび査読対象論文原稿を他者に示さないことが求められている。
このような査読システムにおいて、上に述べた事件のあらましの中の、1、2、8、9、10、11のプロセスが、多くの学術雑誌で採用されている(詳細は次章で述べる)。一方、今回、査読者が、査読者になったことを著者に伝え、論文についてコメントを求めた3の行為および責任著者との交渉を担当編集者に伝えずに査読結果を提出した7の行為は、上に述べた査読者倫理に反する背任行為である。特に、編集担当者を欺いておこなった7)の行為は決して許されるものではない。責任著者、共著者がルールに反する査読者の依頼を拒絶しないで、4、5、6の対応をしたことは、決して許されることではない。しかし、今回の「査読偽装」事件は、査読者の犯した背任行為を発端として発生したものであり、査読者である橋本教授の責任は、責任著者である友田教授に比べて極めて大きいと管理人は考える。
3.学術論文刊行までの手順
3.1 査読者の権限
3.1 査読者の権限
6月10日付け毎日新聞記事には、「査読」を以下のように説明している。
査読は、著者以外の複数の研究者が第三者の立場で論文の妥当性をチェックし、掲載の可否を判断する。科学の客観性や正当性を担保する極めて重要な手続き
この説明の中の「掲載の可否を判断する」という記述は、不十分かつ不正確である。「掲載の可否を判断する」のは、査読者ではなく、担当編集者であり、最終的には編集長が決定する。査読者は「掲載の可否を判断する」際の参考意見を編集担当者に伝えるだけである。
査読者から投稿原稿のままで掲載可との意見があっても、編集担当者が投稿原稿には不備があると判断して、著者に改訂を求めることがある。逆に、査読者から大幅な修正が必要であり却下すべきとの意見があっても、編集担当者が一部を修正すれば掲載可とする場合もある。このように投稿論文の採否には、査読者よりも編集担当者が大きな権限を持っている。
査読者から投稿原稿のままで掲載可との意見があっても、編集担当者が投稿原稿には不備があると判断して、著者に改訂を求めることがある。逆に、査読者から大幅な修正が必要であり却下すべきとの意見があっても、編集担当者が一部を修正すれば掲載可とする場合もある。このように投稿論文の採否には、査読者よりも編集担当者が大きな権限を持っている。
3.2 編集担当者の役割
多くの読者にとって、上の説明だけでは、学術誌に投稿された論文原稿が公表されるまでの手続き、特に編集担当者の役割を理解するのは容易ではないと思うので、以下にその概略を述べる(細かい点は、学術誌によって異なる)。
多くの読者にとって、上の説明だけでは、学術誌に投稿された論文原稿が公表されるまでの手続き、特に編集担当者の役割を理解するのは容易ではないと思うので、以下にその概略を述べる(細かい点は、学術誌によって異なる)。
- 当該学術誌に投稿された論文原稿の公表は、編集委員会による学術的な検討によって決定される。編集委員会は編集長と複数の編集委員で構成される。編集長および編集委員は、十分な研究実績を持つ研究者の中から選任される。
- 論文原稿が当該学術誌に投稿されると、編集長が編集委員の中から適任と考える編集担当者を選んで担当を依頼する。
- 編集担当者は、論文原稿の内容が当該学術誌での公表を査読を経て検討するのに値するか否かを吟味し、検討するのに値すると判断した場合には、複数の適任と思われる査読者に査読を依頼する。依頼を受ける査読者は、論文原稿で引用されている論文の著者や同じ分野で実績のある研究者の中から選ばれることが多いが、著者が推薦する研究者から選ばれることもある。
- 査読者は、論文原稿について、先行研究について適切な引用がおこなわれているか、論文の全体構成は適切か、結論に至る根拠が明示されているか、公表に値する内容なのか、修正を要する箇所はないか、などを調べ、その結果を編集担当者に報告する。
- 編集担当者は複数の査読者からの査読報告を参考に、論文原稿の採否を判定し、必要な場合には、査読者のコメントを付して、著者に改訂を提案する。
- 著者は編集担当者からの提案に従って論文原稿を改訂し、編集担当者に提出する。
- 編集担当者は、論文原稿改訂版の内容を吟味し、採否を判定する。必要な場合には、論文原稿改訂版を論文原稿初版の査読者に再送し、再査読を依頼する。
- 論文原稿が公表に値する内容となるまで、4)から7)の作業を繰り返し、論文原稿が受理に相応しい内容に改訂されたと編集担当者が判定した時点で、その旨を編集長に報告する。
- 編集長は編集担当者の報告を参考に、論文受理を判定し、決定する。
このように、編集担当者が当該学術誌に投稿された論文原稿の採否に重要な役割を担っており、その支援・助言者としての査読者の役割も大きい。
3.3 学術論文刊行の課題
近年の過剰な成果主義の下で、多くの研究者は公表論文の数の多寡が問われるようになり、投稿論文総数が飛躍的に増加している。また、研究分野の細分化もあって学術誌の総数も増えている。この結果、上に述べた論文原稿が公表されるまでの手続きにさまざまな齟齬が生じている。この中でも、特に、データねつ造などの不正な論文原稿が投稿される機会が増える中、自分の成果公表を優先して、顕わな研究実績とならない編集委員や査読者となることを辞退する研究者が増えていることに加えて、各学術誌が論文の投稿数を確保するための対策として選択した投稿から採否決定までの時間の短縮によって、査読者および編集担当者の負担が増え、その結果、学術論文の相対的な質の低下が危惧されていることが大きな問題であると管理人は考えている。
管理人の経験では、査読報告が適切であれば、編集担当者の負担はかなり軽減される。しかし、査読報告が不十分な場合の編集担当者の負担は極めて大きい。そうならないように出来るだけ有能な査読者に査読を依頼したいのだが、そのような査読者への査読依頼が集中し、依頼しても他の論文原稿を査読中で承諾を得られないことが多い。
編集担当者の重要な役割の一つに、著者に示す査読者のコメントが適切か否かをチェックし、場合によっては、コメントの一部修正を査読者に依頼することががある。近年では、この編集担当者の役割についての共有が十分に行われず、その結果、査読者の不適切なコメントがそのまま著者に示されて、酷く傷つけられた経験を持つ研究者も多いように思う。研究者育成のための大学院教育においては、論文作成技法とともに、査読報告作成技法の修得も必要である。
近年の過剰な成果主義の下で、多くの研究者は公表論文の数の多寡が問われるようになり、投稿論文総数が飛躍的に増加している。また、研究分野の細分化もあって学術誌の総数も増えている。この結果、上に述べた論文原稿が公表されるまでの手続きにさまざまな齟齬が生じている。この中でも、特に、データねつ造などの不正な論文原稿が投稿される機会が増える中、自分の成果公表を優先して、顕わな研究実績とならない編集委員や査読者となることを辞退する研究者が増えていることに加えて、各学術誌が論文の投稿数を確保するための対策として選択した投稿から採否決定までの時間の短縮によって、査読者および編集担当者の負担が増え、その結果、学術論文の相対的な質の低下が危惧されていることが大きな問題であると管理人は考えている。
管理人の経験では、査読報告が適切であれば、編集担当者の負担はかなり軽減される。しかし、査読報告が不十分な場合の編集担当者の負担は極めて大きい。そうならないように出来るだけ有能な査読者に査読を依頼したいのだが、そのような査読者への査読依頼が集中し、依頼しても他の論文原稿を査読中で承諾を得られないことが多い。
編集担当者の重要な役割の一つに、著者に示す査読者のコメントが適切か否かをチェックし、場合によっては、コメントの一部修正を査読者に依頼することががある。近年では、この編集担当者の役割についての共有が十分に行われず、その結果、査読者の不適切なコメントがそのまま著者に示されて、酷く傷つけられた経験を持つ研究者も多いように思う。研究者育成のための大学院教育においては、論文作成技法とともに、査読報告作成技法の修得も必要である。
4.おわりに
今回の「査読偽装」事件において、査読者の犯した背任行為を発端として発生したものであり、橋本教授の責任は、友田教授に比べて極めて大きいと管理人は考える。なお、査読者の自己申告を信じるしかない編集担当者に立てば、今回、編集担当者が橋本教授の背信行為を見抜けなかったのは、仕方がなかったと言わざるを得ない。
著者の不正行為に対しては、該当論文の取下げ・削除に加えて、同一著者の投稿禁止などの制裁措置が多くの学術誌で採用されている。他方、査読者の倫理規定違反については、査読システムが査読者の善意に大きく依存しているため、査読を依頼しないという対応以外に、学術出版システムの中で明確な制裁措置を施すことは出来ないのが現状である。しかし、今回の「査読偽装」報道に対し、「このような不正は日常茶飯事に行われていると想像される。だから、科学は信頼できない」という感想・意見がSNSで述べられているの見て、科学界が今回のような査読者の倫理規定違反を放置することは、社会の科学研究全般への信頼を失うことに直結しているとの危機感を抱いた。
橋本教授が「査読者に求められる倫理」に反する行為をおこなった理由は、現時点では不明であるが、「査読者に求められる倫理」を理解していなかったとすれば、それは橋本教授個人の問題なのか、あるいは彼をとりまく研究教育の問題なのかを明らかにし、橋本教授が所属する千葉大学および学協会は、真摯に再発防止に取り組む必要がある。
今回の「査読偽装」事件において、査読者の犯した背任行為を発端として発生したものであり、橋本教授の責任は、友田教授に比べて極めて大きいと管理人は考える。なお、査読者の自己申告を信じるしかない編集担当者に立てば、今回、編集担当者が橋本教授の背信行為を見抜けなかったのは、仕方がなかったと言わざるを得ない。
著者の不正行為に対しては、該当論文の取下げ・削除に加えて、同一著者の投稿禁止などの制裁措置が多くの学術誌で採用されている。他方、査読者の倫理規定違反については、査読システムが査読者の善意に大きく依存しているため、査読を依頼しないという対応以外に、学術出版システムの中で明確な制裁措置を施すことは出来ないのが現状である。しかし、今回の「査読偽装」報道に対し、「このような不正は日常茶飯事に行われていると想像される。だから、科学は信頼できない」という感想・意見がSNSで述べられているの見て、科学界が今回のような査読者の倫理規定違反を放置することは、社会の科学研究全般への信頼を失うことに直結しているとの危機感を抱いた。
橋本教授が「査読者に求められる倫理」に反する行為をおこなった理由は、現時点では不明であるが、「査読者に求められる倫理」を理解していなかったとすれば、それは橋本教授個人の問題なのか、あるいは彼をとりまく研究教育の問題なのかを明らかにし、橋本教授が所属する千葉大学および学協会は、真摯に再発防止に取り組む必要がある。