3月17日午後に海洋学会MLを通して、元東京大学海洋研究所所長の平啓介さん(初めてお会いした時からずっと「さん」付けでお呼びしていましたので、ここでも、そうさせて頂きます)が3月10日にお亡くなりになったことを知った。全く、思いもかけない訃報に接し、個人とのご一緒した数多くの航海、国内外における様々な会議、その他での在りし日のお姿が脳裏に浮かび、深い悲しみに襲われた。以下に、故人との思い出を綴る。
1.出会い
管理人が平さんに初めてお会いしたのが何時だったのか、定かではない。おそらく管理人が学部4回生の秋に初めて参加した函館での日本海洋学会1971年度秋季大会の折に、管理人が所属していた研究室で当時助手だった今里哲久さんから、風波の研究をされている会員の方々のお一人として紹介された時と思われる。あるいは、波浪研究会などの別の機会だったかもしれない。ともかく、初めてお会いした当時、平さんは既に東京大学海洋研究所の海洋気象部門の助手であった。全くの新人である他大学の管理人に対し、非常に穏やかに接して頂いたような記憶がある。その後、管理人が大学院に進学して、風波の発達機構についての研究を進めている間に、平さんは海洋物理部門に異動され、寺本俊彦教授(当時)の下で、漂流ブイや係留流速計を使った海洋観測研究を進められた。そのため、管理人との直接的な交流はほとんど無くなった。
管理人が平さんに初めてお会いしたのが何時だったのか、定かではない。おそらく管理人が学部4回生の秋に初めて参加した函館での日本海洋学会1971年度秋季大会の折に、管理人が所属していた研究室で当時助手だった今里哲久さんから、風波の研究をされている会員の方々のお一人として紹介された時と思われる。あるいは、波浪研究会などの別の機会だったかもしれない。ともかく、初めてお会いした当時、平さんは既に東京大学海洋研究所の海洋気象部門の助手であった。全くの新人である他大学の管理人に対し、非常に穏やかに接して頂いたような記憶がある。その後、管理人が大学院に進学して、風波の発達機構についての研究を進めている間に、平さんは海洋物理部門に異動され、寺本俊彦教授(当時)の下で、漂流ブイや係留流速計を使った海洋観測研究を進められた。そのため、管理人との直接的な交流はほとんど無くなった。
2.親交の再開
管理人が1979年8月に鹿児島大学水産学部に職を得た直後の1981年度から始まった文部省科学研究費補助金による特定研究「海洋の動的構造」(代表 梶浦欣二郎)」によって、平さんと管理人のつながりが格段に深まった。
絶えず変動を繰り返している海洋における水温、塩分、その他の分布変動のカラクリを解明するためには、流れの長期連続係留流速計観測が不可欠である。特定研究「海洋の動的構造」では、平さんがそれまで鳥島東方の実験海域(水深約6000m)などでおこなってきた係留流速計観測の継続が主な実施項目の一つであった。寺本教授から管理人の上司である高橋淳雄教授(当時)に、その係留系の設置・回収を鹿児島大学水産学部附属練習船が担うことについての依頼があり、鹿児島大学水産学部と工学部の関係教員グループは、特定研究「海洋の動的構造」に参画し、鳥島東方での係留流速計の設置・回収とともに、都井岬沖の黒潮変動にかかわる係留流速計の設置・回収と海洋観測をおこなうことになった。管理人は、係留系の設置・回収をおこなう乗船実習航海の実質的な指導教官として、航海の準備・手配などを担当し、毎年秋の約10日間の敬天丸での船上生活を平さんと共にすることとなった。
それらの航海期間中あるいは研究打合せか何かの折に、平さんが管理人に「自分は、風波の研究をしていた海洋気象部門から海洋物理部門に異動した時に、この分野にはあまりにデータが少ないことに驚いた。元風波研究者として、一緒に、このギャップを埋めていこう」というようなことを言われたことがある。今から思えば、水産学部に職を得たものの、今後の研究テーマを何にするかを決められず、1980年度、1981年度と風波をテーマとした科学研究費補助金を申請していた管理人への、同じ元風波研究者としての心底からのご助言だったと思う。
平さんとは、上に述べた特定研究「海洋の動的構造」を契機に、その後の様々なプロジェクトを共にした。平さんが1993年から退官された2002年まで研究代表者を務められた文部科学省特別事業費と科研費特定領域研究による世界海洋観測システム(Global Ocean Observing System, GOOS) と北東アジア地域海洋観測システム(North-East Asian Regional Global Ocean Observing System, NEARGOOS) のための研究計画では、管理人の東シナ海に関する研究を大いに支えて頂いた。
管理人が1979年8月に鹿児島大学水産学部に職を得た直後の1981年度から始まった文部省科学研究費補助金による特定研究「海洋の動的構造」(代表 梶浦欣二郎)」によって、平さんと管理人のつながりが格段に深まった。
絶えず変動を繰り返している海洋における水温、塩分、その他の分布変動のカラクリを解明するためには、流れの長期連続係留流速計観測が不可欠である。特定研究「海洋の動的構造」では、平さんがそれまで鳥島東方の実験海域(水深約6000m)などでおこなってきた係留流速計観測の継続が主な実施項目の一つであった。寺本教授から管理人の上司である高橋淳雄教授(当時)に、その係留系の設置・回収を鹿児島大学水産学部附属練習船が担うことについての依頼があり、鹿児島大学水産学部と工学部の関係教員グループは、特定研究「海洋の動的構造」に参画し、鳥島東方での係留流速計の設置・回収とともに、都井岬沖の黒潮変動にかかわる係留流速計の設置・回収と海洋観測をおこなうことになった。管理人は、係留系の設置・回収をおこなう乗船実習航海の実質的な指導教官として、航海の準備・手配などを担当し、毎年秋の約10日間の敬天丸での船上生活を平さんと共にすることとなった。
それらの航海期間中あるいは研究打合せか何かの折に、平さんが管理人に「自分は、風波の研究をしていた海洋気象部門から海洋物理部門に異動した時に、この分野にはあまりにデータが少ないことに驚いた。元風波研究者として、一緒に、このギャップを埋めていこう」というようなことを言われたことがある。今から思えば、水産学部に職を得たものの、今後の研究テーマを何にするかを決められず、1980年度、1981年度と風波をテーマとした科学研究費補助金を申請していた管理人への、同じ元風波研究者としての心底からのご助言だったと思う。
平さんとは、上に述べた特定研究「海洋の動的構造」を契機に、その後の様々なプロジェクトを共にした。平さんが1993年から退官された2002年まで研究代表者を務められた文部科学省特別事業費と科研費特定領域研究による世界海洋観測システム(Global Ocean Observing System, GOOS) と北東アジア地域海洋観測システム(North-East Asian Regional Global Ocean Observing System, NEARGOOS) のための研究計画では、管理人の東シナ海に関する研究を大いに支えて頂いた。
3.様々な思い出
平さんとは、敬天丸、白鳳丸、淡青丸の多くの航海でご一緒した。1991年8月13日から9月6日の東京・ブリスベーン間の白鳳丸KH91-5次航海では、平さんが主席研究員で管理人が次席研究員となって、世界海洋実験計画WOCEの一環で東経165度の北緯40度から南緯4.5度までの海底までの海洋観測と5系の深層流速計係留系設置を実施した。
一番、印象に残っているのは、何かの折に、管理人が平さんの依頼で淡青丸に乗船した際に、伊豆大島近海で2人で、前日に回収することが出来なかった機材を徹夜で追跡したことである。重要な機材亡失の危機に際し、その不安を管理人にぶつけることもなく、機材が海面に浮上して海中に発している超音波信号を、時々、受信し、その距離の変化を頼みの綱に、時折、見失いながら明け方まで一緒に追跡した。翌朝に、わずかに海面に浮上している機材を見て、平さんの運の強さ、運を引き寄せる勘所を押さえた機材設計の妙に感じ入ったものである。
1987年度から1991年度に東北大学の鳥羽良明教授(当時)を研究代表者としておこなわれた海洋混合層実験(OMLET)の一環で北緯29度、東経135度の気象庁南方定点の周囲に、東京大学(平さん)、九州大学(水野信二郎さん)、鹿児島大学(前田明夫さん)のグループの各々が開発した3系の海面係留ブイを展開したが、その中で唯一、最後まで残ったのは、平さんが設計した海面係留系であった。敬天丸でその回収に向かったが、設置した位置にはなく、根気よく丹念に超音波切離装置の反応を頼りに探索を続けた結果、原点から遠く離れた点に移動していた(漁船に引きずられた痕跡があった)のを見つけ出し、回収したこともあった。
多くの人は、平さんを、その体格も相まって、細かいことを気にしない、豪胆な人だったと評していたかもしれない。しかし、管理人には、地位に拘らず、人々に対し細やかに配慮し、職務に誠実の対処する人という印象が強い。そう言えば、管理人は、平さんが強い怒りを発しているのをほとんど目撃したことがなかった。白鳳丸での麻雀は平さんが大負けすることが多かったが、これも、基本的に、勝ち負けよりも、麻雀を皆と楽しむのが主目的だったためかもしれない。
観測航海以外では、管理人の初めての海外渡航であった1985年8月にホノルルで開催された国際会議に国内関係者とともに参加した際に、その期間中の休日に、故永田豊さんの発案で、平さんがレンタカーを運転して、3人でオアフ島を一周したことが思い出される。また、沖縄で開催された国際会議の際には、平さんから依頼されて管理人が手配した那覇市内の沖縄料理のレストランで韓国のH.-J. Lieさんご夫妻と4人で夕食を共にして歓談したり、東京での何かの会議の後、平さんと後に海洋研究所所長になられたお2人の4人で深夜遅くまで、あれこれと語り合ったこともあった。
今年からユネスコ政府間海洋学委員会(IOC)の主導で「国連海洋科学の10年」が始まる。これに関連して、1998年に同じくIOCの主導で実施された国際海洋年(International year of the Ocean, IYO)事業のことを思い出した。当時、ユネスコ国内委員会委員であった平さんからの依頼を受けて、各国の海洋観測船がIYO旗を引継ながら交代して世界を一周するIYO世界一周観測訓練航海の一端を鹿児島大学水産学部練附属習船かごしま丸が担うことになり、バリ島からフリーマントルまでの国際実習観測を企画した。このイベントを含む長期航海に出港する「かごしま丸」の出航式には、平さんが出席され、IOCから預かったIYO共通旗を船長に手渡されたことを懐かしく思い出す。
平さんが2004年に琉球大学監事に就任されてからは、あまりお会いする機会が無くなった。最後にお会いしたのは、2015年にPAMS国際研究集会が那覇で開催された時だった。発表会場でお見かけし、その後の懇親会でゆっくりお話できるものと思って、互いに軽く近況報告をしあって別れた。しかし、懇親会には平さんのお姿はなく、それが最期になってしまった。
4.おわりに
平さんとの共著論文は2編しかないが、管理人にとって平さんは海洋観測研究を共に進める良き仲間であり、頼りになる先輩であった。1980年代から2000年代初頭まで、平さんと時代を共有し、海洋観測研究に取り組むことができたことは、管理人の研究人生にとってかけがえのない幸運であった。こうして平さんのことを思い出していると、1980年代に敬天丸でご一緒した皆さんの中で既に鬼籍に入られた、辺見富雄船長(当時)、湯脇泰隆一等航海士(当時)、桜井仁人さん(鹿児島大学工学部助手、当時)のことがしきりと思い出される。右肩上がりの世間の風潮の中だったとは言え、あの頃の未来志向の大らかな研究環境を何とか取り戻したいと切に願っている。
現状を見ると、数値モデル計算や資料解析に比べて格段に経費と時間を要するため、海洋観測研究を推進することが以前に比べて非常に難しくなっている。大規模な海洋観測研究は、運が良くても、構想3年、実施3年、成果公表に2年はかかる。実施には、多くの関係者との調整協議も必要である。このような海洋観測研究に、短期間に成果を挙げる必要に迫られているポスドクや任期付の職に就いている若手研究者が取り組むのは難しいと思う。しかし、既存の観測データや再解析数値計算結果を解析していて浮かび上がる疑問を解決するためには、新たな観測をデザインし、実行するしかない場合がある。現場観測は自然をより深く理解するための突破口であり、今後、研究環境が改善され、多くの若手が、さまざまな観測に挑戦できるようになることを願っている。このことは、平さんの願いでもあったと思っている。
平さんとの共著論文は2編しかないが、管理人にとって平さんは海洋観測研究を共に進める良き仲間であり、頼りになる先輩であった。1980年代から2000年代初頭まで、平さんと時代を共有し、海洋観測研究に取り組むことができたことは、管理人の研究人生にとってかけがえのない幸運であった。こうして平さんのことを思い出していると、1980年代に敬天丸でご一緒した皆さんの中で既に鬼籍に入られた、辺見富雄船長(当時)、湯脇泰隆一等航海士(当時)、桜井仁人さん(鹿児島大学工学部助手、当時)のことがしきりと思い出される。右肩上がりの世間の風潮の中だったとは言え、あの頃の未来志向の大らかな研究環境を何とか取り戻したいと切に願っている。
現状を見ると、数値モデル計算や資料解析に比べて格段に経費と時間を要するため、海洋観測研究を推進することが以前に比べて非常に難しくなっている。大規模な海洋観測研究は、運が良くても、構想3年、実施3年、成果公表に2年はかかる。実施には、多くの関係者との調整協議も必要である。このような海洋観測研究に、短期間に成果を挙げる必要に迫られているポスドクや任期付の職に就いている若手研究者が取り組むのは難しいと思う。しかし、既存の観測データや再解析数値計算結果を解析していて浮かび上がる疑問を解決するためには、新たな観測をデザインし、実行するしかない場合がある。現場観測は自然をより深く理解するための突破口であり、今後、研究環境が改善され、多くの若手が、さまざまな観測に挑戦できるようになることを願っている。このことは、平さんの願いでもあったと思っている。
ご冥福をお祈りします。合掌