前回のエントリーから4カ月が過ぎた。2月末頃までは、「地域住民による津波防災対策計画立案のためのガイドライン」第1回公開検討会の準備の他、さまざまなイベントに参加して、多忙な日々を過ごしていた。しかし、新型コロナウイルス感染症拡大で事態は一変した。感染症拡大防止対策として小規模集会まで自粛することに強い抵抗を感じたが、2月末には、3月16日開催予定だった公開検討会の延期を決定した。さらに自粛の風潮が広がり、3月には、多くのイベントは中止となった。また、緊急事態宣言の後には、各種のイベントはWeb(ZOOM)開催になった。このような状況で、わずかながら時間の余裕ができたので、数年来の懸案であった、東京心茶会(管理人が学生時代に所属していた京都大学心茶会の卒業生の中で東京地区に在住する会員の組織)創立60周年記念文集の原稿「私の中の心茶会と久松先生」を書き上げた。この一文は、管理人の大学入学以来の50年間の軌跡を振り返りながら、管理人の日常生活の中にある心茶会の理念の一端を一般の人に紹介することを試みたものである。
新型コロナウイルス感染症拡大に直面して、管理人は、死を招く未知のウイルスへの恐怖、経済的損失による将来への不安、政治家・官僚・専門家への不信・不満、自分勝手な行動や的外れな発言をする人への反発、長引く外出抑制への苛立ちなどを感じることがしばしばある。しかし、このような負の感情を出来るだけ抑えるために、感染症拡大が終息した後の新秩序に順応して穏やかな日々を過ごす自分を思い描いて、一人ですべてを抱え込まず、周りの人に助けてもらいながら、出来ないことは諦め、出来ることだけをおこない、前向きに進むことを考えて、日々を過ごしている。このような管理人の心の持ち様の源を紹介することは、緊迫の問題を抱えている読者には無用かもしれないが、その心に多少の平安をもたらすことを願って、上に述べた原稿のウェブ版を以下に掲載する。
2020年6月6日追記:私の寄稿1編を含む東京心茶会60周年記念文集PDFが心茶会HPで公開されました( http://bit.ly/tkysck60 )。
拙ブログ関連記事:
2008年04月30日 心茶会と久松先生のこと
2011年02月13日 多中有一、一中有多
2011年08月01日 日本発の「ポスト・モダン」思想
2014年10月11日 「金だけ、今だけ、自分だけ」の風潮への対処法
2008年04月30日 心茶会と久松先生のこと
2011年02月13日 多中有一、一中有多
2011年08月01日 日本発の「ポスト・モダン」思想
2014年10月11日 「金だけ、今だけ、自分だけ」の風潮への対処法
「私の中の心茶会と久松先生」
1.はじめに
先が見えない今の日本社会には、「お金だけ、今だけ、自分だけ」という風潮が蔓延している。私は、「豊かな想像力」と「広い心」を持つ人が増えて、このような社会が少しでも変わることを願って、自分に出来ることを、焦らず、楽しく、続けていきたいと思っている。私がこのような考えを抱くようになった背景の一つには、学生時代に心茶会に所属し、会長であった久松真一先生とお遇いできたことがあるように思う。
久松先生が茶道箴と茶道小箴で示されている心茶会の理念は、茶道の修得を通して自己を研鑽し、茶の十徳によって、社会をより良くすることである。本稿が、この心茶会の理念についての理解の参考となることを願って、以下に、心茶会と久松先生が私の中でどのように生き続けてきたのかについて述べる。
2.京都の思い出
2.1.出会い
理学部に入学した1968年(昭和43年)春に、色々迷った末、私は京都大学体育会ライフル射撃部に入部するとともに、京都大学心茶会(以下では、学生心茶会と呼ぶ)にも入会した。学生心茶会を選んだ動機は、母が茶道を学んでいたことがあったにせよ、あまり明確ではない。どうも、自分の日頃の行動の落ち着きのなさを自覚し、その矯正を目指していたようであった。このことは、その10年後に、当時の指導教官の一人が就職応募先へ私を紹介する際に述べた言葉で思い当たった。
心茶会に入会するのには面接があった。誰に何を聞かれたのかは忘れたが、それまで思っていた仲良しクラブ的な団体ではないことだけは自覚した。本部近くの清風荘(西園寺公望が控邸として使用した、京都大学内専用施設)で開かれた新入生歓迎茶会で、正坐の痛さに閉口したものの、初めて体験したお茶会の厳しい雰囲気の中にも洗練された趣に深く感銘したことを覚えている。
私が久松先生に初めてお会いしたのは、新入会員として室町の久松先生のご自宅にご挨拶にお伺いしたときであった。ともかく、穏やかで気品溢れる好々爺という感じであった。その後、茶会の度ごとに、茶碗、菓子、かけ軸などの道具立てのご相談のためにお宅にお伺いした。その度に、眼前の先生の厳しさを内に秘めた穏やかなお姿の全体から、人のあるべき姿を学んでいたように思う。
先が見えない今の日本社会には、「お金だけ、今だけ、自分だけ」という風潮が蔓延している。私は、「豊かな想像力」と「広い心」を持つ人が増えて、このような社会が少しでも変わることを願って、自分に出来ることを、焦らず、楽しく、続けていきたいと思っている。私がこのような考えを抱くようになった背景の一つには、学生時代に心茶会に所属し、会長であった久松真一先生とお遇いできたことがあるように思う。
久松先生が茶道箴と茶道小箴で示されている心茶会の理念は、茶道の修得を通して自己を研鑽し、茶の十徳によって、社会をより良くすることである。本稿が、この心茶会の理念についての理解の参考となることを願って、以下に、心茶会と久松先生が私の中でどのように生き続けてきたのかについて述べる。
2.京都の思い出
2.1.出会い
理学部に入学した1968年(昭和43年)春に、色々迷った末、私は京都大学体育会ライフル射撃部に入部するとともに、京都大学心茶会(以下では、学生心茶会と呼ぶ)にも入会した。学生心茶会を選んだ動機は、母が茶道を学んでいたことがあったにせよ、あまり明確ではない。どうも、自分の日頃の行動の落ち着きのなさを自覚し、その矯正を目指していたようであった。このことは、その10年後に、当時の指導教官の一人が就職応募先へ私を紹介する際に述べた言葉で思い当たった。
心茶会に入会するのには面接があった。誰に何を聞かれたのかは忘れたが、それまで思っていた仲良しクラブ的な団体ではないことだけは自覚した。本部近くの清風荘(西園寺公望が控邸として使用した、京都大学内専用施設)で開かれた新入生歓迎茶会で、正坐の痛さに閉口したものの、初めて体験したお茶会の厳しい雰囲気の中にも洗練された趣に深く感銘したことを覚えている。
私が久松先生に初めてお会いしたのは、新入会員として室町の久松先生のご自宅にご挨拶にお伺いしたときであった。ともかく、穏やかで気品溢れる好々爺という感じであった。その後、茶会の度ごとに、茶碗、菓子、かけ軸などの道具立てのご相談のためにお宅にお伺いした。その度に、眼前の先生の厳しさを内に秘めた穏やかなお姿の全体から、人のあるべき姿を学んでいたように思う。
2.2.学生心茶会
学生心茶会の日常活動は、裏千家今日庵と道路を挟んだ向いにあった茶道会館と吉田山麓の換骨堂でおこなわれた週2回の接心会(坐禅と点前稽古)と楽友会館でおこなわれた月1回の論究(「南方録」の輪読)であった。接心会は、初めに、正坐して「茶道箴」を唱え、約四十分間の端坐(正坐)で沈思黙考した後、交替で点前稽古をし、最後に茶道小箴を唱えて終えるものだった。約40分間の端坐は私にとって苦痛であったが、毎回、何とか乗り切った。当番は6時の接心会開始前に稽古に使う道具、花、風炉などの準備をする。五徳、炭、灰を整え、花器を選び、自己流で季節に合わせた花を活けたことは今から思えば貴重な体験であった。点前稽古は運び薄茶平点前のみであった。その動作の一つ一つの意味を考え、決められた形の中に自分を表現する工夫を重ねることに喜びを感じた(工夫をしなくても当日の精神状態が自ら顕わになってしまい、仲間に指摘されたことも嬉しかった)。
夏休み中の栂ノ尾高山寺での3泊4日の特別接心会(坐禅・作務・点前稽古の合宿)では、諸先輩の指導の下、未明から夜更けまで本格的な坐禅、境内の掃除、点前稽古をおこなった。最終日にはお寺のご厚意で茶事を体験させていただいた。金堂での早朝の坐禅中に受けた先輩の警策や夜更けに虫の音を聞きながらの一人坐禅は思い出深い。
秋には、諸先輩、日頃お世話になっている方々、他大学茶道部他の関係者をお招きして、自分たちの修行の場とする練成茶会、年度末には卒業生を送る送別茶会、春には新入生を迎える歓迎茶会が市内の名立たる寺院のお茶室をお借りしておこなった。練成茶会では相国寺僧堂から修行中の方や心茶会の大先輩が参席された時の爽やかな席が印象に残っている。毎回の茶会では、茶会の会場の交渉、道具の手配、人員配置、案内状の印刷・発送、会場の準備(庭掃除、障子張替え)などを皆と分担しておこなった。このような催しの運営に大学の4年間に繰り返し携わった経験が、後年の様々な海洋調査観測航海の準備・実施に大いに役立った。また、亭主・半東を務めたことで、大学院進学後の学会などでのプレゼンテーションで多少の失敗をしても慌てない度胸だけはついたように思う。
私と同時に学生心茶会に入会したのは、一回生と二回生を合わせて8名程度であったと記憶している。しかし、上に述べた多忙な日常活動や、心茶会の活動内容に疑問を感じた仲間は、次々と退会した。その中には、後に鳥取県で文筆業と医業で活躍される某氏や、1996年5月にアメリカのサンディゴ近郊の自宅で凶弾に倒れた故斎藤綱男カリフォルニア大学サンディエゴ校教授がいた。女性の入会が認められてあまり年数が経過しておらず、先輩の女性の数は多くはなかった。教養部時代の友人の一人に言わせると、私はクラスの友人たちと一緒に行動することが少なく、学生心茶会とライフル射撃部の活動ばかりしていたようである。
真面目に茶道を学ぶ会員が多い学生心茶会の中で、私はどちらかというと反抗的であった。とはいうものの、私を含めた会員の間には、互いに接心会に共に参加して養われた強い信頼感があったと思う。学園紛争の荒波の影響も受けず、日々の活動が淡々と続いた。男3人で東山の山腹で野点を楽しんだことを懐かしく思い出す。
1970年(昭和45年)4月の学部進級に際し、学業に主力を注ぐためにライフル射撃部と学生心茶会のどちらかを退くことを決意した。ライフル射撃部も所属していて楽しい集団であったが、学生心茶会の魅力が勝っていた。三回生の時には、総務として学生心茶会の運営に深く係わり、久松先生のお宅へお伺いしてお話する機会が多かったように思うが、お話の内容についての記憶はあまりない。
学生心茶会の日常活動は、裏千家今日庵と道路を挟んだ向いにあった茶道会館と吉田山麓の換骨堂でおこなわれた週2回の接心会(坐禅と点前稽古)と楽友会館でおこなわれた月1回の論究(「南方録」の輪読)であった。接心会は、初めに、正坐して「茶道箴」を唱え、約四十分間の端坐(正坐)で沈思黙考した後、交替で点前稽古をし、最後に茶道小箴を唱えて終えるものだった。約40分間の端坐は私にとって苦痛であったが、毎回、何とか乗り切った。当番は6時の接心会開始前に稽古に使う道具、花、風炉などの準備をする。五徳、炭、灰を整え、花器を選び、自己流で季節に合わせた花を活けたことは今から思えば貴重な体験であった。点前稽古は運び薄茶平点前のみであった。その動作の一つ一つの意味を考え、決められた形の中に自分を表現する工夫を重ねることに喜びを感じた(工夫をしなくても当日の精神状態が自ら顕わになってしまい、仲間に指摘されたことも嬉しかった)。
夏休み中の栂ノ尾高山寺での3泊4日の特別接心会(坐禅・作務・点前稽古の合宿)では、諸先輩の指導の下、未明から夜更けまで本格的な坐禅、境内の掃除、点前稽古をおこなった。最終日にはお寺のご厚意で茶事を体験させていただいた。金堂での早朝の坐禅中に受けた先輩の警策や夜更けに虫の音を聞きながらの一人坐禅は思い出深い。
秋には、諸先輩、日頃お世話になっている方々、他大学茶道部他の関係者をお招きして、自分たちの修行の場とする練成茶会、年度末には卒業生を送る送別茶会、春には新入生を迎える歓迎茶会が市内の名立たる寺院のお茶室をお借りしておこなった。練成茶会では相国寺僧堂から修行中の方や心茶会の大先輩が参席された時の爽やかな席が印象に残っている。毎回の茶会では、茶会の会場の交渉、道具の手配、人員配置、案内状の印刷・発送、会場の準備(庭掃除、障子張替え)などを皆と分担しておこなった。このような催しの運営に大学の4年間に繰り返し携わった経験が、後年の様々な海洋調査観測航海の準備・実施に大いに役立った。また、亭主・半東を務めたことで、大学院進学後の学会などでのプレゼンテーションで多少の失敗をしても慌てない度胸だけはついたように思う。
私と同時に学生心茶会に入会したのは、一回生と二回生を合わせて8名程度であったと記憶している。しかし、上に述べた多忙な日常活動や、心茶会の活動内容に疑問を感じた仲間は、次々と退会した。その中には、後に鳥取県で文筆業と医業で活躍される某氏や、1996年5月にアメリカのサンディゴ近郊の自宅で凶弾に倒れた故斎藤綱男カリフォルニア大学サンディエゴ校教授がいた。女性の入会が認められてあまり年数が経過しておらず、先輩の女性の数は多くはなかった。教養部時代の友人の一人に言わせると、私はクラスの友人たちと一緒に行動することが少なく、学生心茶会とライフル射撃部の活動ばかりしていたようである。
真面目に茶道を学ぶ会員が多い学生心茶会の中で、私はどちらかというと反抗的であった。とはいうものの、私を含めた会員の間には、互いに接心会に共に参加して養われた強い信頼感があったと思う。学園紛争の荒波の影響も受けず、日々の活動が淡々と続いた。男3人で東山の山腹で野点を楽しんだことを懐かしく思い出す。
1970年(昭和45年)4月の学部進級に際し、学業に主力を注ぐためにライフル射撃部と学生心茶会のどちらかを退くことを決意した。ライフル射撃部も所属していて楽しい集団であったが、学生心茶会の魅力が勝っていた。三回生の時には、総務として学生心茶会の運営に深く係わり、久松先生のお宅へお伺いしてお話する機会が多かったように思うが、お話の内容についての記憶はあまりない。
2.3.京都心茶会
大学院修士課程に進学して、京都に留まったため、京都心茶会に所属し、隔月(だったと思うが定かではない)に銀閣寺前町のロマン・ローラン研究所で開催された例会に参加した。若手会員であったことから、世話役として、案内状発送などをおこなった。この例会で、医学、工学、法学、文学系の研究者のみならず、開業医、勤務医、地方公務員、化学系や製鉄関係の民間企業社員などの多くの先輩からさまざまなお話をお伺いした。このことが、大学院学生として学術研究の世界に閉じこもることなく、実社会と接する貴重な機会の一つになっていた。
2.4.三枚の短冊
1972年(昭和47年)3月の学部卒業をもって、心茶会の正会員(会員番号152番)となった。この時、久松先生からお祝いとして短冊を頂いた。それには、
死為万象主(死を万象の主と為す)
大学院修士課程に進学して、京都に留まったため、京都心茶会に所属し、隔月(だったと思うが定かではない)に銀閣寺前町のロマン・ローラン研究所で開催された例会に参加した。若手会員であったことから、世話役として、案内状発送などをおこなった。この例会で、医学、工学、法学、文学系の研究者のみならず、開業医、勤務医、地方公務員、化学系や製鉄関係の民間企業社員などの多くの先輩からさまざまなお話をお伺いした。このことが、大学院学生として学術研究の世界に閉じこもることなく、実社会と接する貴重な機会の一つになっていた。
2.4.三枚の短冊
1972年(昭和47年)3月の学部卒業をもって、心茶会の正会員(会員番号152番)となった。この時、久松先生からお祝いとして短冊を頂いた。それには、
死為万象主(死を万象の主と為す)
と書かれていた。この言葉の原典が不明なため、正しい読み方は未だに分からないが、この短冊を拝見した時、「死」と「万象主」という強い言葉に少なからず衝撃を受けた。その後、私が理学部の学生であることから、生(感情、直観)に対する死(理性、論理)の重要性を諭されたものであったのではないかと思うようになった。あるいは、当時から何かと理屈を捏ねる物言いの反面、私情に流され易い私の振る舞いへの戒めだったかもしれないと、その後の人生を振り返って思う。
久松先生が1974年(昭和49年)に岐阜に転居される際に、先生の旧居であった妙心寺春光院抱石庵の蔵の整理のお手伝いをした。多分、その時と思われるが、先生から、
多中有一一中有多(多中に一有り、一中に多有り)
久松先生が1974年(昭和49年)に岐阜に転居される際に、先生の旧居であった妙心寺春光院抱石庵の蔵の整理のお手伝いをした。多分、その時と思われるが、先生から、
多中有一一中有多(多中に一有り、一中に多有り)
と書かれた短冊を頂いた。この短冊を頂くときに、先生が、穏やかに微笑みながら「これは、一つの数珠が多数の珠で成り立っており、多数の珠の各々が連なることで一つの数珠が成り立っているような状態を示しています」とおっしゃられた。先生の意図は計り知れないが、今から思えば、当時(今もその傾向はあるが)の何かと異論・反論を唱えがちな私の言動や、大学院で取り組んでいた海洋物理学を含めた自然科学研究の根本についてのご助言だったのだろう。この言葉をお聞きして、ストンと腑に落ちる感じがしたときのことを今でも鮮明に覚えている。
久松先生が岐阜に転居されてからは、お会いする機会はあまりなくなった。手許に、
始随芳草去(始めは芳草に随(したが)って去り)
又逐落花回(また、落花を逐(お)うて回(かえ)る)
久松先生が岐阜に転居されてからは、お会いする機会はあまりなくなった。手許に、
始随芳草去(始めは芳草に随(したが)って去り)
又逐落花回(また、落花を逐(お)うて回(かえ)る)
と書かれた短冊がある。これは、碧巌録第三十六則の公案「長沙逐落花回」の中にある話で、何のこだわり、とらわれも、かたまりもない、ただの赴くままに、天真爛漫、自由自在、花と一枚、自然と一枚、無心に徹した遊戯三昧(ゆげざんまい)の消息を示している(大澤山龍雲寺公式サイト「禅に学ぶ」法話028)。この短冊は、1978年(昭和53年)10月に溝口さん他の心茶会会員とご一緒に岐阜の久松先生のお宅にお伺いした時に頂いたと思われる。先生がこの言葉を私に示された意図は不明だが、博士の学位を取得したものの就職できずに京都で研究を続けていた私に、今後の研究者としての心の持ちようを示されたように思っている。
3.鹿児島の地で
幸いにも、1979年(昭和54年)8月に鹿児島大学水産学部に職を得て赴任した。鹿児島大学では、学生指導の傍ら、国内外の様々なプロジェクトに参加し、多くの人々と3隻の水産学部附属練習船を利用して、東シナ海の黒潮などに関する多くの共同研究をおこなった。これらの活動の様々な場面で、「多中有一一中有多」の言葉を念頭に、各構成員の意見・考えを十分に採り入れながら進めた運営が功を奏した。また、度々、学生時代に苦手だった端坐に救われた。大学運営などの問題にともなうストレスが高じた時には、端坐をすることで、心が落ち着き、次に向かう気力が回復した。
鹿児島に赴任後、心茶会とのつながりはほとんどなくなった。その中で、1998年(平成9年)4月に、心茶会一般公開シンポジウム「生と死の意味と倫理」で機会を頂いて、「地球環境科学の立場から」と題する講演をおこなった。講演終了後、講演内容を心茶会機関誌「心茶」に投稿することを依頼された。今思い返せば、自分の研究の意味を考える貴重な機会であったが、当時進めていた研究プロジェクトの遂行という目前の課題に追われ、未投稿のままに歳月が過ぎてしまった。この講演を契機として、自分の研究内容を一般の人々に伝えることの重要性を認識したことが、後年、私が科学コミュニケーション活動に深く係わるようになった理由の一つなのかもしれない。
4.横須賀にて
4.1.海洋研究開発機構
2005年(平成17年)10月に、縁あって、横須賀市にある海洋研究開発機構に転職し、地球環境観測研究センター 海洋大循環観測研究プログラム 黒潮輸送・海面フラックスグループ グループリーダーとして観測研究に専念することになった。私が50歳半ばで鹿児島大学教授の職を離れたことが知人たちを驚かしたが、私の中では迷いはなかった。その根底には、久松先生から頂いた「長沙逐落花回」の短冊があったように思う。
海洋研究開発機構での勤務開始の直後に茶道部に入部した。本部本館の茶室で毎週おこなわれた点前稽古に参加し、表千家茶道家の才茂宗美先生のご指導を受けた。心茶会とは異なる雰囲気ではあったが、大学時代に増して日常業務に追われた慌ただしい日々の中で、才茂先生のおおらかなご指導の下に、海洋研究開発機構内の様々な部署に所属する茶道部員の方々とともに心静まる一時を過ごすことができた。
海洋研究開発機構では、鹿児島大学時代以上に、国内外、機構内外の数多くの人々と共に海洋観測研究をおこなう機会が増えた。大学と違って、海洋研究開発機構での研究では、多様な価値観を持った様々な人々との粘り強い交渉が必要であった。この経験から、自分の価値観に拘ることなく、互いにその存在を認めながら対話することを地道に続けることの重要性を痛感した。
3.鹿児島の地で
幸いにも、1979年(昭和54年)8月に鹿児島大学水産学部に職を得て赴任した。鹿児島大学では、学生指導の傍ら、国内外の様々なプロジェクトに参加し、多くの人々と3隻の水産学部附属練習船を利用して、東シナ海の黒潮などに関する多くの共同研究をおこなった。これらの活動の様々な場面で、「多中有一一中有多」の言葉を念頭に、各構成員の意見・考えを十分に採り入れながら進めた運営が功を奏した。また、度々、学生時代に苦手だった端坐に救われた。大学運営などの問題にともなうストレスが高じた時には、端坐をすることで、心が落ち着き、次に向かう気力が回復した。
鹿児島に赴任後、心茶会とのつながりはほとんどなくなった。その中で、1998年(平成9年)4月に、心茶会一般公開シンポジウム「生と死の意味と倫理」で機会を頂いて、「地球環境科学の立場から」と題する講演をおこなった。講演終了後、講演内容を心茶会機関誌「心茶」に投稿することを依頼された。今思い返せば、自分の研究の意味を考える貴重な機会であったが、当時進めていた研究プロジェクトの遂行という目前の課題に追われ、未投稿のままに歳月が過ぎてしまった。この講演を契機として、自分の研究内容を一般の人々に伝えることの重要性を認識したことが、後年、私が科学コミュニケーション活動に深く係わるようになった理由の一つなのかもしれない。
4.横須賀にて
4.1.海洋研究開発機構
2005年(平成17年)10月に、縁あって、横須賀市にある海洋研究開発機構に転職し、地球環境観測研究センター 海洋大循環観測研究プログラム 黒潮輸送・海面フラックスグループ グループリーダーとして観測研究に専念することになった。私が50歳半ばで鹿児島大学教授の職を離れたことが知人たちを驚かしたが、私の中では迷いはなかった。その根底には、久松先生から頂いた「長沙逐落花回」の短冊があったように思う。
海洋研究開発機構での勤務開始の直後に茶道部に入部した。本部本館の茶室で毎週おこなわれた点前稽古に参加し、表千家茶道家の才茂宗美先生のご指導を受けた。心茶会とは異なる雰囲気ではあったが、大学時代に増して日常業務に追われた慌ただしい日々の中で、才茂先生のおおらかなご指導の下に、海洋研究開発機構内の様々な部署に所属する茶道部員の方々とともに心静まる一時を過ごすことができた。
海洋研究開発機構では、鹿児島大学時代以上に、国内外、機構内外の数多くの人々と共に海洋観測研究をおこなう機会が増えた。大学と違って、海洋研究開発機構での研究では、多様な価値観を持った様々な人々との粘り強い交渉が必要であった。この経験から、自分の価値観に拘ることなく、互いにその存在を認めながら対話することを地道に続けることの重要性を痛感した。
4.2.東京心茶会
海洋研究開発機構に着任の翌年に新宿で開催された平成18年度心茶会年次茶会に客として参加したのを機に、東京心茶会の活動にかかわるようになった。2010年(平成22年)3月に海洋研究開発機構横浜研究所茶室曙杉亭で開催された平成21年度心茶会年次茶会には担当者の一人として参画した。茶会の主催に係わったのは、学生心茶会の時以来であったが、楽しい一時となった。
2011年(平成23年)12月からは、櫻井宗幸先生のお計らいで、裏千家東京道場での点前稽古が再開した。気心の知れた学生時代の仲間とともに一時を過ごすことと、毎回、点前について新たな学びがあることに喜びを感じている。このような機会を得ているのは、ひとえに久松先生のご遺徳であり、先生へのご恩に報いるために心茶会の理念の普及に努めたいと思い、2013年(平成25年)2月からソーシャルネットワークの一つであるフェースブックのグループ「和の交流会」に参加した。和文化に関心のある人々と茶道について語り合う機会や都内の大学茶道部主催のお茶会に参席する機会を得た。このことによって、心茶会と久松先生に出会えた自分の幸運を再認識するとともに、心茶会の理念の普及の重要性と難しさを認識した。
海洋研究開発機構に着任の翌年に新宿で開催された平成18年度心茶会年次茶会に客として参加したのを機に、東京心茶会の活動にかかわるようになった。2010年(平成22年)3月に海洋研究開発機構横浜研究所茶室曙杉亭で開催された平成21年度心茶会年次茶会には担当者の一人として参画した。茶会の主催に係わったのは、学生心茶会の時以来であったが、楽しい一時となった。
2011年(平成23年)12月からは、櫻井宗幸先生のお計らいで、裏千家東京道場での点前稽古が再開した。気心の知れた学生時代の仲間とともに一時を過ごすことと、毎回、点前について新たな学びがあることに喜びを感じている。このような機会を得ているのは、ひとえに久松先生のご遺徳であり、先生へのご恩に報いるために心茶会の理念の普及に努めたいと思い、2013年(平成25年)2月からソーシャルネットワークの一つであるフェースブックのグループ「和の交流会」に参加した。和文化に関心のある人々と茶道について語り合う機会や都内の大学茶道部主催のお茶会に参席する機会を得た。このことによって、心茶会と久松先生に出会えた自分の幸運を再認識するとともに、心茶会の理念の普及の重要性と難しさを認識した。
4.3.科学コミュニケーション活動
横須賀に転居したことにより、日本海洋学会教育問題研究会の活動に深く関与するようになり、海洋教育の普及活動が増えた。その一環として2007年(平成19年)1月には、ブログ「海洋学研究者の日常」を開設し、一般市民に向けて、海洋学の基礎知識の解説、マスコミの科学報道の誤りの指摘と補足、科学リテラシーや科学技術政策についての持論の発信などを始めた。その中で、「茶道箴」が示す「人間の基本的なあり方」が、「人間」のみならず、科学研究はどうあるべきか、科学者の社会における役割は何か、などについても、重要な指針を与えていることに思い至った。
心茶会で形成されるべき人間の基本的なあり方は、久松先生が心茶会とは別に指導された「学道道場(現FAS協会)」の理念である「人類の誓い」を要約した次の3つの項目に集約されている。
1.形なき自己にめざめる
2.全人類の立場に立つ
3.歴史を超えて歴史を創る
この3つの項目に即して言えば、目指すべき科学研究と科学者の基本的なあり方は、定説を含めたあらゆることに拘らず、自分や所属組織ではなく全人類のために、新たな歴史を切り開く創造的な発想で研究開発をおこなうことであるといえよう(市川洋、「茶道の哲学」と「科学の営み」、「心茶」第15巻第2号、2012年)。
現代日本社会で果たしている「科学」の役割は、「茶道」に比べて格段に大きい。一般市民に「茶道」より身近な「科学」の営みが、心茶会の理念とつながっていることに気付いたことにより、心茶会の理念の普及活動の難しさを感じていた私の中で、科学コミュニケーション活動の重要度がそれまで以上に増すことになった。
5.おわりに
2015年(平成27年)3月に海洋研究開発機構を退職した。その後は、科学コミュニケーション活動と裏千家東京道場での点前稽古の他に、いろいろな団体・グループの幹事・世話役などのボランティア活動と種々のイベントへの参加によって、さまざまな人と交流し、新たな知識と知恵を得ることに喜びを感じる日々を過ごしている。
今後も、何事にも囚われない豊かな想像力、自分と異なる境遇や価値観を持つ人の存在を認めて寄り添うことができる広い心(オープンマインドな態度)と、証拠と論理に基づく対話によって合意を形成しようとする科学的な態度を備えた人が一人でも多くなることを願って、科学と社会をつなぐ科学コミュニケーション活動と心茶会の理念の普及活動を続けようと思っている。
今の日本社会では、過度の新自由主義と競争原理の導入により、多くの人の心が苛まれ、「お金だけ、自分だけ、今だけ」という風潮が蔓延している。この風潮が示す人のあり方は、「お金」を「財産、地位、名誉、快楽などのあらゆる煩悩・執着の対象」に拡張すると、心茶会で形成されるべき人間の基本的なあり方と真逆である。今こそ、心茶会の理念を世に広めることが求められているように思う。
思い返せば、私のこれまでの行動の根本には、先生に頂いた三枚の短冊があり、それを通して私はいつも久松先生の慈愛に満ちた眼差しを感じていたのかもしれない。学生心茶会に入会以来のこれまでの年月を、このように過ごすことができた幸運に感謝している。
横須賀に転居したことにより、日本海洋学会教育問題研究会の活動に深く関与するようになり、海洋教育の普及活動が増えた。その一環として2007年(平成19年)1月には、ブログ「海洋学研究者の日常」を開設し、一般市民に向けて、海洋学の基礎知識の解説、マスコミの科学報道の誤りの指摘と補足、科学リテラシーや科学技術政策についての持論の発信などを始めた。その中で、「茶道箴」が示す「人間の基本的なあり方」が、「人間」のみならず、科学研究はどうあるべきか、科学者の社会における役割は何か、などについても、重要な指針を与えていることに思い至った。
心茶会で形成されるべき人間の基本的なあり方は、久松先生が心茶会とは別に指導された「学道道場(現FAS協会)」の理念である「人類の誓い」を要約した次の3つの項目に集約されている。
1.形なき自己にめざめる
2.全人類の立場に立つ
3.歴史を超えて歴史を創る
この3つの項目に即して言えば、目指すべき科学研究と科学者の基本的なあり方は、定説を含めたあらゆることに拘らず、自分や所属組織ではなく全人類のために、新たな歴史を切り開く創造的な発想で研究開発をおこなうことであるといえよう(市川洋、「茶道の哲学」と「科学の営み」、「心茶」第15巻第2号、2012年)。
現代日本社会で果たしている「科学」の役割は、「茶道」に比べて格段に大きい。一般市民に「茶道」より身近な「科学」の営みが、心茶会の理念とつながっていることに気付いたことにより、心茶会の理念の普及活動の難しさを感じていた私の中で、科学コミュニケーション活動の重要度がそれまで以上に増すことになった。
5.おわりに
2015年(平成27年)3月に海洋研究開発機構を退職した。その後は、科学コミュニケーション活動と裏千家東京道場での点前稽古の他に、いろいろな団体・グループの幹事・世話役などのボランティア活動と種々のイベントへの参加によって、さまざまな人と交流し、新たな知識と知恵を得ることに喜びを感じる日々を過ごしている。
今後も、何事にも囚われない豊かな想像力、自分と異なる境遇や価値観を持つ人の存在を認めて寄り添うことができる広い心(オープンマインドな態度)と、証拠と論理に基づく対話によって合意を形成しようとする科学的な態度を備えた人が一人でも多くなることを願って、科学と社会をつなぐ科学コミュニケーション活動と心茶会の理念の普及活動を続けようと思っている。
今の日本社会では、過度の新自由主義と競争原理の導入により、多くの人の心が苛まれ、「お金だけ、自分だけ、今だけ」という風潮が蔓延している。この風潮が示す人のあり方は、「お金」を「財産、地位、名誉、快楽などのあらゆる煩悩・執着の対象」に拡張すると、心茶会で形成されるべき人間の基本的なあり方と真逆である。今こそ、心茶会の理念を世に広めることが求められているように思う。
思い返せば、私のこれまでの行動の根本には、先生に頂いた三枚の短冊があり、それを通して私はいつも久松先生の慈愛に満ちた眼差しを感じていたのかもしれない。学生心茶会に入会以来のこれまでの年月を、このように過ごすことができた幸運に感謝している。