4月9日18時から東京大学本郷キャンパスで科学コミュニケーション研究会第30回関東支部勉強会が開催される。『現代の事例から学ぶサイエンスコミュニケーション 科学技術と社会とのかかわり, その課題とジレンマ(4月6日刊)』の監訳者のお一人である加納圭さんが本書の解説をされるという。この本の第10章「サイエンスコミュニケーションにおける学びを助ける」を翻訳されている都築章子さんには、海洋学会教育問題研究会主催の「COSIA(海洋科学コミュニケーション実践講座)体験ワークショップ」でお世話になっていることもあり、是非とも参加したいと思っている。
そのつもりであれこれ考えてみると、退職後の名刺をまだ作っていないことに気付いた。この10年間の名刺は勤務先が定めていた既成のデザインのものを使っていたため、久々に自分で名刺原稿の制作から初めた。当初は、氏名、住所、メルアドだけで良いと考えたが、今後の科学コミュニケーション活動を考えると、学位、専門、個人ウェブサイト、本ブログ、その他の情報も記す方が良いと考えた。
その中で、学位の名称をどうするか迷った。迷った理由は、最近、ある人から「(管理人から)初めて受け取った名刺には京大理博と書かれていたが、どうして理博だけではなく、大学名を付けていたのか?」との質問を受けたことによる。結局、新しい名刺では、正式名称の「理学博士(京都大学)」を使うことにした。以下はその理由など。
1.昔、京大理博としていた理由
昔の名刺で京大理博としていた理由は、いつだったか記憶は定かでないが、多分、学位を取得して間もない就職浪人中に、「学位の審査基準は新制と旧制では違うのだから、新制の学位取得者は名刺の学位には学位授与大学名を明記しなければならない」と、学会の大先輩から強い口調で言われたことによると思う。新制と旧制を厳格に区別する必要があるのか疑問ではあったが、確かに、学位記には「理学博士(京都大学)を授与する」と書いてあった。また、管理人の指導教官であった国司先生にも「旧制の学位は優れた研究業績に与えられるものだったが、新制の学位は研究能力があることが認められれば与えられることになっている」というようなことをおっしゃられたことが頭の片隅に残っていたこともある。このため、旧制博士を示す「理学博士」ではなくて、新制博士として授与された正式名である「理学博士(京都大学)」の略称として「京大理博」を名刺に記載し続けていた。「理学博士」を使っている同年代の研究仲間もいたが、何も言わないでいた。それは、自分は新制学位を使っているが、旧制・新制に拘って人に推奨することでもない、と思っていたことによる。
京大理博を以前に使っていたことに、最近、異論をぶつけられたが、約20年前にも同じことが一度だけあった。鹿児島湾姶良海岸整備事業検討委員会環境調査部会委員を務めていた際に京大理博と委員名簿にも記載されていたことに対し、環境保護運動を進めていた鹿児島大学理学部教官のSさんから「京都大学の権威を振りかざしている」と避難された。これに対し、管理人は権威を否定する考えの持ち主であって、権威を振りかざす意図は全くなく、新制博士を名乗る際のルールに従っているだけと答えたように記憶している。その後、双方をよく知るK先生からSさんに管理人の普段の言動を説明していただき、誤解は解けたとは思うが、ある意味で、悲しい思い出ではある。
2.「学位の名称」の使われ方
前職場の規定のデザインの名刺では「理学博士」が使われていた。職場から支給される名刺であり、鹿児島大学での経験もあって、大学名を付記することを強く主張しはしなかった。しかし、自分の名刺に「理学博士」が使われていることに、違和感を持ち続けていた。このため、自前で作る名刺では、自分の気持ちに従って、「京大理博」または「理学博士(京都大学)」を使いたいと思った。とはいえ、理学博士に大学名を付すことに違和感を感じる人がいる以上、自分の気持ちを最優先することに迷いもあった。そこで、「学位の名称」の使われ方について、ネットで調べた。
似たような悩みをJT生命誌研究「ラボ日記」2005年8月12日付け記事「学位について」で橋本主税さんが述べているのを見つけた。その中の、
歴史的に見ると、私の先生のさらに先生達の年代の方々は単に「○○学博士」です。私の研究分野は大きく「理学」に属しますので、私の先生の先生は「理学博士」です。次の世代、すなわち私の先生の年代になると、学位を取得した大学の名前が入って「京都大学理学博士」となりました。実は、この制度が変わる時の学生達は必死になって早く学位を取ろうと努力したようです。すなわち、それまではいわば日本国としての学位だったのが、一大学が保証する学位に「格下げ」されると考えて「価値の高い方の学位でなければ・・・」といった強迫観念があったらしいのです。
という記述を読んで、旧制と新制の博士の学位の違いに拘りを示した先生方の気持ちが察せられた。
国内外の学位について詳細な説明がウィキペディアの項目「学位」でされているのが見つかった。「学位の名称」について考える際には、その中の「3.6.3 学位の表記方法」が参考になる。そこでは、専攻分野の名称の付記方法については、以下のように述べている。
日本の学位の表記方法は下記の3種類に大別される。1991年(平成3年)以降授与される学位に関しては、学位規則上は「大学及び独立行政法人大学評価・学位授与機構は、学位を授与するに当たつては、適切な専攻分野の名称を付記するものとする。」と規定されている。このように、授与機関側で授与の際に専攻分野を付記するものとされていることから、付記の仕方については、各大学の学則・大学院学則・学位規程(学位規則)上、明文を以て定められている。
「○学博士」(1991年(平成3年)以前に授与された学位等。修士・学士の場合も同様。)
「博士(○学)」(専門職学位を除く学位。修士・学士・短期大学士の場合も同様。)
「○○修士(専門職)」(専門職学位。法務博士(専門職)以外の場合も同様。)
また、大学等の付記方法については、
学位の名称を用いるときには、授与機関の名称を付記しなければならない。この大学名等の付記の仕方は学位規則では明記されておらず、単に「学位を授与された者は、学位の名称を用いるときは、当該学位を授与した大学又は独立行政法人大学評価・学位授与機構の名称を付記するものとする。 」と規定されている。
実際の運用では、専攻分野についてはおしなべて括弧書きで付記されているのに対して、大学名等の付記については統一的な付記方法が確立されているわけではない。ただし、一部の大学の学位規程には付記方法が規定されており、具体的には次のようなものがある。
として、6つの例を示している。
なお、ウィキペディアの項目「学位」では明言していないが、大学等の名称を付記するという規定は、昭和28年4月1日に学位規則が公布された時に初めて定められたものであり、それ以前は、大学等の名称を付記することは求められていなかった。したがって、「専攻分野の名称の付記方法」と「大学等の付記方法」を合わせると、日本の博士の学位の表記方法は、橋本主税さんが述べているように、歴史的には下記の3種類になる。
「〇学博士」 (1953年以前に授与された学位)
「〇学博士(〇大学)」 (1953年以降、1991年以前に授与された学位)
「博士(〇学) 〇大学」(1991年以降に授与された学位。大学名の付記の仕方には規定なし)
ただし、実際には、1953年の制度変更への移行措置として、例えば、京都大学では大学名を付記する博士の学位の授与について「昭和37年3月31日(医学博士については昭和35年3月31日)までは、なお従前の例による」としていた。
京都大学蔵書検索で移行措置終了前後の1960年から1964年までの間に理学博士の学位を授与された人の数を検索すると、1960年83名、1961年187名、1962年240名、1963年33名、1964年52名となっており、1961年と1962年が突出していた。このことは、橋本主税さん述べているように、従前の規程による大学名が付記されない学位が授与される期限の昭和37年3月31日までに学位を取得することに多くの先輩が苦労されていたことが分かる。
参考:
学位規則(昭和二十八年四月一日文部省令第九号、最終改正:平成二五年三月一一日文部科学省令第五号)
第十条 大学及び独立行政法人大学評価・学位授与機構は、学位を授与するに当たつては、適切な専攻分野の名称を付記するものとする。
第十一条 学位を授与された者は、学位の名称を用いるときは、当該学位を授与した大学又は独立行政法人大学評価・学位授与機構の名称を付記するものとする。
京都大学学位規程(昭和33年1月28日 達示第1号制定)
附 則
1 この規程は、昭和33年1月28日から施行する。
2 大正10年3月26日達示第11号制定の京都大学学位規程は、廃止する。ただし、従前の規程による学位の授与は、この規程にかかわらず、昭和37年3月31日(医学博士については昭和35年3月31日)までは、なお従前の例による。
3.おわりに
結局、名刺には学位記に記されていた「理学博士(京都大学)」を記載することにした。これは、学位規則の規定を順守するという順法精神というよりは、むしろ旧制の博士の学位に拘って苦労された諸先輩(その多くは、管理人が研究者の道を歩み始めたころにお世話になった先生方である)の思いを心に留めて置きたいからである。
それにしても、何故、1953年公布の学位規則で学位授与大学等の名称を付記することとなったのか? ウィキペディアの項目「学位」では明言されていないないが、課程博士制度の導入が要因と思われるが、それだけではないようにも思われる。