昨年の国内科学関連の話題の中で最も注目を浴びたのは、青色LEDに関するノーベル賞とSTAP細胞論文データねつ造事件(STAP騒動)であろう。STAP騒動はマスコミによる大々的な報道に始まり、データねつ造疑惑の指摘、論文取り下げを経て、理研による12月19日の「STAP現象の検証結果」の資料公表と、12月26日の「研究論文に関する調査委員会」報告でひと段落した。とはいえ、まだ理研の管理責任と不正論文投稿が進められた原因の究明、研究不正の再発防止策の策定などの課題が残っている。最近では、1月7日に文芸春秋社から出版された須田桃子著「捏造の科学者 STAP細胞事件」や日経サイエンス2015年3月号「特集1:STAPの全貌」が話題となっている。以下では、STAP騒動を科学コミュニケーションの側面で考えたことを述べる。
1.はじめに
昨年末に、47NEWS(よんななニュース)12月27日付の「【STAP問題】厳しい目、寛容さを失う社会を象徴か 騒動の背後に」と題する記事が掲載された。この記事について管理人は
昨年末に、47NEWS(よんななニュース)12月27日付の「【STAP問題】厳しい目、寛容さを失う社会を象徴か 騒動の背後に」と題する記事が掲載された。この記事について管理人は
「科学研究の場は『正解しか許されない場所』ではなくて、『皆で、時空を超えて、力を合わせて正解に近づこうとする』場であることが多くの人に理解されていないことを明示している記事」
とツイートした。管理人の他のツイートの多くに対するインプレッション(ユーザーがTwitterでツイートを見た回数)が100件以下であるのに対し、このツイートに対するインプレッションは最初の3日間でで2000件を超えた。このツイートが注目された理由は、STAP騒動をそれまで明示的に議論されていなかった「科学の営み(科学リテラシーの重要な一部)」に関連付けたためだったのではないかと思う。そこで、科学リテラシーの普及を目指す科学コミュニケーション活動と関連付けてSTAP騒動を考えてみた。
今回のSTAP狂奏曲を聴いていて一番強く感じたのは、人それぞれの受け取り方の違いが大きいということだ。
と今回の事件の総括されている。この記述はSTAP騒動の総括として的確な表現であると思う。以下では、「人によって受け取り方に大きな違いがあったこと」を科学コミュニケーションの観点から考える。
STAP騒動に対する人々の受取り方の違いの源が人々の各々を取り巻く環境や生活・慣習などの背景の多様性にあるのは明らかであろう。大隅さんは「受け取り方]が異なる人々のグループ分けとして、以下の例を示している。
・研究経験の有無(管理人加筆)によるグループ分け
研究者と非研究者
・専門的に扱う対象と作法の違いによるグループ分け
文系と理系、理系の中でも数学や物理の専門家と生命科学系、
化学系や材料系の専門家と生命科学系
・真正ではないと思われるやり方で「STAP細胞を得た」と主張した
・真正ではないと思われるやり方で「STAP細胞を得た」と主張した
人物に対する感覚の違いによるグループ分け
生命科学系でも理学系と医学系
・世代の違いよるグループ分け
今よりも研究人口が少なかった世代と大学院重点化以降の世代
生命科学系でも理学系と医学系
・世代の違いよるグループ分け
今よりも研究人口が少なかった世代と大学院重点化以降の世代
生命科学分野の専門家としてSTAP騒動を身近に見てこられた大隅さんによる専門分野を切り口とした分類は、同じ専門分野内の個々の研究者間の違いも大きいとは思うが、研究者全体の間での差が大きかったことを表すものとして適切な分類と思う。なお、上の分類で、「騒動の元となった人物に対する感覚の違い」とは、記事の中では明言されていないが、今回の事件を特殊な個人が引き起こした事件と考える人が少なからずいることを目のあたりにした管理人には、この騒動の原因がデータねつ造論文筆頭著者の特異的な個人の問題と考えるか、研究体制・大学院教育などのシステムの問題として考えるかの違いを指しているように思われる。
大隅さんは、専門分野が異なる研究者の間でSTAP騒動の受け取り方に違いが生じた理由として、専門的に扱う対象と作法の違いや、事件当事者への微妙な感覚の相違を指摘した以外には深く言及していないが、研究者集団の社会に対する責任として、STAP騒動を含めた研究不正問題への対応に以下のように言及している。
科学者は自由な発想に基づく真理の探求という研究行為を社会から負託されている存在である。その自由を守るためには自らの行動を律することが必須であり、そうでなければ社会からの信頼を得ることができない。自由な精神を守りつつ、どのような「ルール」を示していくのか、知恵を絞ることが喫緊に求められている。
管理人も、今回のSTAP騒動は非研究者の研究者への信頼を損なう行為であり、STAP騒動の受け取り方に大きな違いがあっても、研究者集団としての対応が必要と考える。しかしながら、研究の手法・環境が大きく異なる様々な専門分野の研究の全てを網羅する研究不正防止策を策定するのは事実上、不可能と思う。逆に、過剰な研究不正防止策によって、独創的な研究の進展が阻害されることを恐れる。研究不正は不可避的に犯されるものであると考え、研究不正の疑いが生じた際に粛々と調査を公正に進める手続きとその調査によって認定された不正実施者および監督責任者を厳格に処罰する手続きを明確に定める方が良いように思う。
他方、大隅さんは、専門分野を横断して、今よりも研究人口が少なかった世代と大学院重点化以降の世代の間でSTAP騒動の受け取り方が大きく異なったことにも注目している。それは主として若手研究者たちの研究環境が危機的状況にあるに起因することを指摘し、
第5期科学技術基本計画の策定も視野に入って来ているが、研究環境をどのように良くしていくかは、短期的な資金の配分だけの問題ではなく、持続的な教育や人材育成の観点も重要である。
と述べている。
3.世代、専門分野が異なる研究者の間の対話の欠如
非研究者からすれば同類と思われている研究者集団であるが、世代、専門分野が異なる研究者の間でSTAP騒動の受け取り方が大きく異なっていた。このことは、研究環境や専門的に扱う対象と研究作法を含めた背景が異なっているのであるから当然と考えられるが、その一方で、深刻な問題の存在を示唆しているように思う。
いろいろな分野の研究者が、STAP騒動は発生・再生科学分野、生命科学分野にとどまらず、我が国科学界の重要事件であると考え、STAP騒動を契機として抱いた個々の思いを社会に向かって発信した。その結果、世代や専門分野が異なる研究者間でSTAP騒動の受け取り方が大きく異なることが露呈した。このことは、STAP騒動の副産物として、研究者の多様性を示す好例とはなったが、その一方で、研究者が共有している筈の「科学の営み」についての知識(科学リテラシーの重要な一部)が、研究者の間で十分に共有されていないことをも示すことになってしまったように思う。また、研究者たちの多くがコミュニケーションに不可欠な各自の背景の特殊性を強く認識しないで発信したため、STAP騒動が提示した我が国の科学技術政策や大学院教育環境ほかの問題についての共通認識は構築されず、分野・世代横断的な議論に発展しなかったようにも思う。この事態は、研究者の間の科学コミュニケーションが不足していることを示していると考えられる。
昨年12月23日に参加した「科学技術リテラシーに関する課題研究 報告会(主催:JST科学コミュニケーションセンター)」での報告を聴いても、「科学の営み」についての種々の専門分野の研究者の間での共通認識の構築は未だ十分ではないことを強く感じた。科学者が「社会からの信頼を得る」ためには、STAP騒動の教訓を生かして、研究者の間で、各自の背景の相違を容認しつつ、「科学の営み」についての共通認識の構築に向けて対話を続ける必要があると考える。
4.研究者と非研究者の間
大隅さんは、研究者と非研究者の間でSTAP騒動の受け取り方に大きな違いが生じた原因が何であったのか、あるいは、その大きな違いを解消するために何をする必要があったのか、についてはほとんど言及されていない。しかし、この問題は、科学者が「社会からの信頼を得る」ためには不可避な問題であると思う。
管理人は、研究者と非研究者の間で受け取り方に大きな違いがあった主な原因は、非研究者の人たちに「科学の営み」についての知識が十分に知られていなかったことにあると考える。
「何故、科学者たちは論文をねつ造した者に厳しく対応し、誤りには寛容なのか?」ということが非研究者には大きな疑問であったのに対し、科学者は、その理由は自明のこととして、理由を説明しないで論文ねつ造のみを強く批判する傾向が強かったように思う。
非研究者は、「結局、STAP細胞はあるのか?ないのか?」を知りたかったのに対し、科学者は、その疑問に答えず、データねつ造のみを強く批判する傾向が強かったように思う。
科学研究の場は、『皆で、時空を超えて、力を合わせて正解に近づこうとする』共同作業の場であり、仮説の誤りは「正解に近づくために不可欠な道程」であるのに対し、「データねつ造」は正解に近づく共同作業の進展を大きく阻害・遅延させる行動であり、決して許容できない行為である。また、「STAP細胞はある」という仮説の正否は「データねつ造」の有無を検討する場では、議論の対象ではない。このように科学者のコミュニティーでは考えられている。
研究者にとって基本的な科学の営みについての共通認識が非研究者と共有されていなかったことが、非研究者の一部に不信・苛立ちを抱かせる大きな要因となったと思われる。中には、学術論文の意味を含め、「科学の営み」を説明しようとしている科学者の発信もあったが、注目を浴びた研究者の発言の中で明示的に「科学の営み」に言及しているのが少なかったこともあって、マスコミを含めた非研究者の多くの理解を得るまでには至らなかったように思う。また、研究者の中にも「科学の営み」についての知識を持っていないかのような発言をする人がいたことも、非研究者の人々に混乱を招いた。
Yahoo! JAPANニュース1月18日付けの「放射能恐怖という民主政治の毒(6)科学者の一分(前編)」と題する記事で小野昌弘さんは
STAP騒動で、あるいは放射線問題で、無数の言論がなされたが、何かが欠けていた。いったい何が語られなかったのだろうか。
私の結論は、語られなかったことは科学の力と科学的精神についてであり、さらには、科学が素晴らしいものだという、科学者としての信念についてである。
と述べ、さらに「科学者の一分」の中編と後篇で、「科学の力」、「科学的精神」、「科学者としての信念」を詳細に熱を込めて説明をした後、
ここまで書くと、STAP騒動がなぜ起こってしまったのか、一つの避けがたい構造が見えてこよう。科学の営みの中で幻は生じ得る。それを退治しなかったのはミスであろうが、もともと完全に避けることは不可能である。その幻を膨らませて社会に放流してしまった。それに対する批判はあってもよいだろうが、科学の発展の現場がどういうものであるか知っていれば、科学の精神とは何であるかを理解していれば、この問題は大騒ぎするほどのものではない。
と述べている。小野さんの「科学の力」、「科学的精神」、「科学者としての信念」の説明の多くは、管理人が拙ブログでこれまで述べてきた「科学の営み」と相通ずるものであり、同意する。また、STAP騒動が起きた原因が人々に「科学についての知識」が理解されていないことのあるというお考えにも同意する。ただし、これらの記述で多くみられる断言的な表現に違和感を感じている(熱い想いは分かるが)。
5.科学コミュニケーターの役割
非研究者の人たちに「科学の営み」についての知識が十分に知られていなかったことがSTAP騒動が大きくなった原因の一つであることを、研究者と非研究者の間に立つ科学コミュニケーションに携わっている志水正敏さんが、科学コミュニケーターブログ12月27日付の「STAP騒動 ~科学コミュニケーターは何をすべきだったのか~」と題する記事で示唆している。
志水さんは、上の記事中で、「研究論文に関する調査委員会」調査報告書の概要を紹介した後、「騒動が一区切りついた今、未来館の科学コミュニケーターとして、科学コミュニケーションは何をすべきだったのか」を振り返った記事の中で以下の箇所を強調して示している。
科学コミュニケーションに携わる私たちに「分かりやすく事実を伝えれば十分」という思いはなかったか? その点に、思い至りました。深く考えなければならなかったのは「何を伝えるか」ということなのかもしれません。
「そのようなこと(データ捏造:管理人注)をするのが科学においてなぜいけないとされるのか」という点を指摘する研究者、メディアは少なかったように感じます。
「なぜ不正がいけないのか」「何が不正なのか」そういった自明とされがちなことをもっとお伝えすべきだったのではないでしょうか。
何をお伝えするのか、あるいは研究者にどんな情報を求めていくのか改めて考えなければいけないと思うのです。
これらの言葉が、今回のSTAP騒動が、研究者コミュニティーのみならず科学コミュニケーション活動に携わっている人々にも、「科学の営みについての知識」を非研究者の人々に伝えることの重要性を考える良い機会となったことを示している。
6.おわりに
管理人は、これまで「『科学の営み』についての知識を含めた『科学リテラシー』の普及が日本を変える」という思いを抱いて、海洋学に関連した科学コミュニケーション活動を続けてきた。したがって、管理人は、微力ながらも、STAP騒動を契機として多くの人々に「科学の営み」についての知識が詳しく伝える行動に努めるべきだったと思う。しかし、時々刻々と状況が変わる中で発信された数多くの情報を前にして、12月27日のツイートまでほとんで発信しないでいた。STAP騒動の中では研究者と非研究者の間のとらえ方の違いについての議論は深まりを見せず、大隅さんが総括されたように「人それぞれの受け取り方の違いが大きいということ」が確認されただけに留まってしまっていたことが、12月27日の管理人のツイートが関心を集めた理由だと思う。
管理人は、これまで「『科学の営み』についての知識を含めた『科学リテラシー』の普及が日本を変える」という思いを抱いて、海洋学に関連した科学コミュニケーション活動を続けてきた。したがって、管理人は、微力ながらも、STAP騒動を契機として多くの人々に「科学の営み」についての知識が詳しく伝える行動に努めるべきだったと思う。しかし、時々刻々と状況が変わる中で発信された数多くの情報を前にして、12月27日のツイートまでほとんで発信しないでいた。STAP騒動の中では研究者と非研究者の間のとらえ方の違いについての議論は深まりを見せず、大隅さんが総括されたように「人それぞれの受け取り方の違いが大きいということ」が確認されただけに留まってしまっていたことが、12月27日の管理人のツイートが関心を集めた理由だと思う。
STAP騒動の中で「科学の営み」についての議論があまりおこなわれなかった原因は、
1) 「科学の営み」の内容を科学コミュニケーション活動の中で十分に議論してこなかったこと、
2) 研究者を対象とした科学コミュニケーション活動が不十分であったこと、
にあると思われる。
今後、より多くの研究者が「科学コミュニケーション活動」に参加し、「科学の営み」について、研究者、非研究者、その両者をつなぐ科学コミュニケーターの間で「科学の営み」についての議論が進み、その共通認識が深まることを願っている。
拙ブログ関連記事:
2009年02月02日 「希望」を生み出す装置としての科学リテラシー
2009年02月02日 「希望」を生み出す装置としての科学リテラシー