1.中学2年生用国語教材
記事の冒頭で著者(内田さん)は
「学ぶ力」という文章を書きました。中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものです。本が届いて、読んでみたら、なかなか「なるほど」と思うことが書いてあったので(自分で言うなよな)、ここに再録することにします。と述べている。
中学二年生になったつもりで読んでね。
この記事が掲載された教科書を見ていないので、「国語の教科書のために書き下ろしたもの」とは、授業で読解する対象の「教材」としてなのか、教科書内の読物として「コラム」なのかが不明であるものの、「コラム」であっても、理科とか社会の教科書のコラムではなくて、国語の教科書のコラムなので、授業でその内容について、それなりに議論される教材になるであろうと、管理人は考えた。また、わざわざ「中学二年生になったつもりで読んでね」という記述が加えられている点に、管理人は注目した。おそらく、その意図は、世間をまだよくは知らないものの、その不条理に感付き始め、自我に目覚め、ちょっと子供らしさを失い、人生に悩み始めた時代の、ナイーブな感性を思いだしながら読んでね、ということだと、解釈した。もしかしたら、厨二病がらみの意味を含まれているのかもしれない。
本記事の構成を簡単にまとめると以下のようになる。
・学力とは「学ぶ力」のことであるこの内容は、高校受験を控え、試験勉強に取り組んでいる生徒に「勉強」の意味、中学校における教師(『「師」とは、別に学校の先生である必要はありません』と言ってはいるが、授業を行う中学校教師は「師」の候補ではある)と生徒の関係、および師から学ぶ際の弟子の態度についての、著者の見解を示したものであると言えるだろう。これらのことを考える機会を中学2年生に与えることは、非常に重要なことだと管理人は考える。この点を『なかなか「なるほど」と思うことが書いてあった』と著者も自己評価しているのだろう。
・「学ぶ力」とは、「学ぶ」ということに集中し、夢中になる力。「昨日の自分と比べたとき」の変化のうちにおいてのみ意味をもつ指標であり、他人と比べるものではない。
・「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになる。
しかし、このような内容の教材の読解を、人生に悩み始めた生徒ととも、国語の授業で行うのは、かなり大変なことだな、という印象を管理人は受けた。なぜなら、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」と言える素直な中学生が多数いるとは思えない。また、多くの教師が膨大な日常業務に追われて、個々の生徒と接する機会が少ない状況では、「あ、この人が私の師だ」という生徒の直感の対象となりうる中学校教師は数少ないのが現実だろう。この意味で、本記事は現場教師にとっては、生徒を勉学に自らの意思で素直に向かわせる「良き説得材料」というよりは、教師と生徒の間の緊張感を一気に高める「強力な地雷」ではないかとさえ思う。このような記述が教科書に掲載されたことに驚きを感じざるを得ない。本当にこの記事が教科書に採用されているとしたら、この教科書の検定担当官は、著者の巧妙な罠に嵌ったと、管理人は思う。
2.「学力」とは「学ぶ力」のことか?
管理人は、上に述べたような『「勉強」の意味』などを中学生に問うという著者の隠された意図に賛同する。しかし、その意図を達成するための論理展開にはかなり乱暴なことろが多いと思う(これも著者の意図しているところかもしれないが)。
著者は。「学力低下」を枕に、
そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは「試験の点数」のことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。と述べ、さらに、「消化力」とか「睡眠力」を例に挙げて、「学ぶ力」はそれらの能力と同じように、他人と比較するものではないことを説明している。しかし、記事の最後では、「学力がある人」と「学力がない人」の違いを説明をし、『「学力低下」という事態の本質』にまで言及している。すなわち、この記事で示されている著者の論理は首尾一貫していないと言わざるを得ない。
試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみるうえでは参考になります。でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。「学力」という言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。わたしはそう思います。
上に述べた著者の混乱は、「数値として示すこと」と「他人と比較したり、順位をつけたりすること」を混同していることに起因していると思う。計算能力や暗記能力は数値化・定量化が容易である。他方、芸術性や感受性のような能力は定量的に評価するのは難しいが、定性的に評価することは可能である。フィギュアスケート競技の採点は、定量的・絶対的な技術点と定性的・相対的な芸術点(もともと点数化が難しいので、かなり工夫している)の合計で争われ、陸上距離競技は定量的な時間や距離・高さなどで争われる。すなわち、定量化できれば、比較や順位付けは容易であるが、定量化できなくても定性的な比較や順位付けは可能である。この意味で、「学ぶ力」は「他人と比較したり、順位をつけたりすることはできるが、記憶力や計算能力のように数値として示すことはできない」とすべきであったと思う。ただし、「学ぶ力」を他人と競う意味があるか否かは、別の問題である。
著者は、『「学力」は「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきである』としている。ただし、何故、そう捉えるべきなのかの理由を明確に述べてはいない。単に、「学力」を訓読みすると「学ぶ力」となることを指摘し、「そう思います」と、主張し、その後は、著者の考える「学ぶ力」を説明しているだけである。まあ、そう思うのは著者の勝手だが、日夜、学力試験勉強をしている生徒には、「そうとらえるべき」理由が伝わらない展開となっている。また、著者は「学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません」と述べた後で、「(学ぶ力)は数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない」とも述べている。このことは、「学力」と「学ぶ力」とは異なることを示しており、『わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています』という文と矛盾する。
管理人ならば、読者の理解を得るために、
学力試験は学校で学習した事柄の理解度、記憶度を確認するのを目的として行われている。しかし、人生に必要なのは、学習した事柄を「理解すること」や「暗記すること」ばかりではない。それよりりも、何をどのように学習するのかを選択し、その方法を身に付けることがもっと重要である。このような「何をどのように学ぶのかを選択し、その方法を身に付ける」能力を含めた力を以下では「学ぶ力」と呼びます。
というような一文を挟む。
3.「学ぶ力」とは
著者は「学ぶ力」について、
「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。昨日よりも消化がいいかどうか、一週間前よりも寝つきがよいかどうか、一年前よりも傷の治りが早いかどうか。その時間的変化を点検したときにはじめて、自分の身に「何か」が起きていることがわかります。もし「力」が伸びているなら、それは今の生き方が正しいということですし、「力」が落ちていれば、それは今の生き方のどこかに問題があるということです。と説明している。管理人は、この説明を読んで混乱した。
人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、わたしたちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。
まず、「他人と比べるものではない」と「個人的なもの」とは、「他人と比べるものではなく、個人的なものだ」という形で並列で論じることはできないと管理人は考える。「個人的なもの」という表現で著者が言いたかったのは「何をどう学ぶかの選択は各自の個性の一部である」ということだと思う。他方、「他人と比べるものではない」という表現には、「何をどう学ぶかの選択に優劣はない」ということのように思う。したがって、双方を合わせた『「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います』という表現は、『「学ぶ力」は個人的なものであり、したがって、他人と比べるものではないと思います』という表現の方が管理人には分かり易い。ただし、この表現は、「個性に優劣はない(ナンバーワンよりオンリーワン)」という筆者の価値観を暗黙のうちに含むものである。したがって、「学ぶ力」の説明の冒頭の文章としては不適切であり、『「学ぶ力」とは個性の一部です。』と述べるだけで良いように思う。
また、著者は、『「学ぶ力」は他人と比べるものではない』と述べた直後の文で、『その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか』と、個性の一部である「学ぶ力」を比べる(評価する)ことが可能であるかのような表現をしている。ここまで来ると、もはや「他人と比べるものではない」という記述は削除する方が、論旨が通ることになる。
「個性の確立」において「他人との関係としての優劣、勝敗」の呪縛から逃れることが重要であることに、管理人は強く同意する。しかし、このことを「学ぶ力」の説明に含めることによって、あらぬ混乱を招いているように思う。
著者は続いて、消化力や睡眠力を例に挙げて、『それは(学ぶ力)は、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います」と述べている。例として挙げた「消化力」や「睡眠力」の分かりにくい説明もあって、この表現は、学ぶ力(学力)=「昨日の自分と比べたとき」の変化(学ぶ力の変化量)という、物理で言うと、速度=加速度と言っているような誤解を招いている。著者の表現では、「学ぶ」ことによって、知識が増えたか否かを著者は問題にしているのか、「学ぶ意欲」が増えたか否かを問題にしているのか、が明確ではない。前者の認識が一般的に思うが、『「学ぶ力」もそのような時間の中での変化のうちにおいてのみ意味をもつ指標だと私は思います。その上で「学ぶ力」とはどういう条件で「伸びる」ものなのか、それを具体的にみてみましょう』という、上の示した文に続く記述を読むと、どうも後者のような気がするが、そうだとすると、これは「学ぶ力」の説明ではなくて、「学ぶ力」の育成・強化の方法のように思う。すなわち、原文では、『学ぶ力』の説明と『「学ぶ力」の強化方法』が混在しているといえよう。
このような混乱を引き起こしているのは、「学力」を学力試験成績のような数値化された「成果」ではなくて、『「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、の強度や深度』としての「プロセス」に主眼を置いて論じ、成果主義への批判を内包しようとする下心が著者にあったためのように思う。
著者は、『「昨日の自分と比べたとき」の変化の重要性』の説明で、
人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、わたしたちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。と述べている。管理人は、この文章で言っていることに同意する。また、文部科学省で提唱している「生きる力」に言及しているところが、巧妙であるとも思う。しかし、「学ぶ力」と『人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」』との関係を明言していないため、本記事の主題である「学ぶ力」あるいは、『「学ぶ力」が必要な理由」の説明になっていない印象を読者に与える。
4.「学ぶ力」が「伸びる」条件
著者は、「学ぶ力」が「伸びる」条件について、以下のようにまとめている。
1)「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。第一の条件については強く同意する。強いて付言するならば、『何故に人は無知ではいけないのか、何故に人は知を求めなければならないのか』という根源的な問いについての一節があれば、種々の要因で学習意欲を失いがちな生徒たちにとっては良かったように思う。逆に言えば、「根源的な問いについての一節」がないため、「学ぶ意欲」と「無知の自覚」との関係が明確でなくなっているといえよう。
2)「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
3)その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになる。
第二の条件については、同意するものの、違和感がある。それは、独学あるいは自立的学習について言及がまったくないことである。著者のいう第一の条件には、「自分は学ばなければならない」という自覚を持つところに留まらず、独学あるいは自立的学習を始めるところまでもが含まれているのかもしれない、あるいは『日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です』という記述に、独学と自立的学習のことが含まれているのかもしれないが、そう読むのは難しい。
第三の条件については、誤解と反発を招く表現を、多分、意識的にしていると思う。原文では、一見、『先生に教えてもらうためには、先生に、「先生の教えをそのまま受け入れます」という態度を示さなければならない」』と、上から目線で、生徒の態度を教え諭しているように見える。このような記述は、管理教育の推進者には望ましい態度であるが、ようやく「自我に目覚め」はじめた中学2年生には、到底、受け入れがたいものではないかと思う(読者にそう感じさせるのが、著者の狙いと思わないでもないが)。しかし、唐突に「開放性」という言葉が使われているところに注目すると、著者が伝えたいことは、このような表面的なものではないと思う。著者が言いたかったのは、『何を学ぶにしても、それを「学ぶ」際には、優劣、勝敗、自尊心などの何事にもこだわらない、オープン・マインドな態度で学ぶことが必要である』ということであると管理人は考える。
「オープン・マインドな態度」は人生に不可欠な態度であると管理人は考える。「オープン・マインドな態度」の育成は偏見・差別を否定する教育という形で、現在の国家管理統制下における義務教育体制では表向きは推奨されている。しかし、実はあまり望まれてはいない風潮が我が国に蔓延しているという印象を持っている。このような態度を推奨する文章が国語教科書に掲載されるために、著者は、二重にも、三重にも、罠を張り巡らしたことになる。
2011年9月18日03時 挿入
5.おわりに
内田さんの記事を読んで、これまでの主張の流れに比べて、どうにも腑に落ちない記述が多いため、いろいろ「深読み」してみた。この深読みが当たっていたら、「内田樹という男はすごい」ということになる。しかし、正直なところ、上に述べたことは、過剰な「深読み」と「我田引水」であるという懸念が管理人にはある。
どうしてこんな人が人気があるのか私には理解できません。
>「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。
・・という内田樹さんの主張があって、もっとらしい理屈をつけてますが、私には説得力を全く感じないどころか、詐欺師の言い草だと思いました。
例えば・・・
>でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。
これはその通りですが、「学力を数値だけではとらえることができない」=「学力は試験の点数ではない」は、飛躍です。
学力を評価する基準として、点数があるのです。
また点数も一つだけでなく、測定方法が変われば点数も変わります。
また「他人と比べるもの」と「個人的なもの」は両立します。
もし両立しないなら、その条件を述べるべきです。
学力を,学ぶ力などと言い換えるのは、偽善そのものです。世の中、343という原理があります。
それは,正規分布の原理です。人の能力には差がある。それを,適材適所と言い換えます。
学習とは、習熟です。その習熟の到達度が,学力の違いです。簡単ですね。
人には,優劣があるという厳然たる事実を教えることが、教育の原理と考えます。
コメントをありがとうございました。
内田さんの魅力は、ちょっと世間とは異なった視点からの指摘の面白さではないかと、私は思っています。読者を説得するために「詭弁を弄する」というよりは、読者に理解を求める努力をあまりせず、気の向くままに「書き散らしている」というのが私の印象です。
かも 様
コメントをありがとうございました。
>人の能力には差がある。それを,適材適所と言い換えます。
>学習とは、習熟です。その習熟の到達度が,学力の違いです。
一般に受け入れられている認識として、同意します。
>人には,優劣があるという厳然たる事実を教えることが、教育の原理と考えます。
「優劣」という言葉の使用に違和感があります。また、「厳然たる事実を教える」だけが教育ではないとも思います。
人は,それぞれ異なるという厳然たる事実を教え、その中で適所を見出だして生きる力を育むことが、教育の原理と考えます。
そうでしょうか。例えば受験という優勝劣敗に子供達は曝されて生きています。人生すべからく、優勝劣敗なのです。
毎日、優れているものが勝ち、劣るものが負けるという現実を突きつけられているのに、何故違和感なのでしょうか。
そういう偽善が子供達を傷つけます。
断固たる優越を教えることが、教育の根本原理だと考えます。それを誤魔化しているから子供達は絶望して、希望を失います。
だってそうでしょう。子供達は、誰だって勝ちたいし負けたくはないのです。それでも、勝ち負けを認めなければならないことを否応なしに認めさせられれているのですよ。
>人は,それぞれ異なるという厳然たる事実を教え、その中で適所を見出だして生きる力を育むこと
つまりそれは、劣ることをせせら笑って、どうせお前はこれまでだという屈辱をしか与えません。
子供達は、誰だって、心の内では、[どうか教えて下さい]と叫んでいるのです。その悲しみが解らないから、打ち捨てられた子供達が絶望しているのです。
例えば、テストの結果を、あっけらかんとして壁に張り出すことで、子供達は、救われるのです。
公平に序列を与え、何にでも順位を付けて公開することで、子供達は納得します。そうやって子供達は、自分の位置を知り自分の適性を自覚するのです。
優劣を付けることを恐れる必要は全くありません。
つまりそれが、「人には優劣があるという厳然たる事実を教える」教育だと考えます。
優劣がなければ、入試など止めるべきです。
優劣はテストの結果です。
テスト基準を変えれば、優劣も変わります。
例えば、今までは背の高い順に優劣が決まっていたとします。
でもある日から、逆の背の低い順に優劣が決まると変更したとします。
そうすると、「テストの基準は、どうあるべきか?」という疑問が生まれると思います。
http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/10383197.html
思いません。「基準」を決める前に「仕様」がありますから。仕様がないのに基準を設定できません。