YOMIURI ONLINE(読売新聞)に科学部デスクである保坂直紀さんによる「知の結集阻む理学部と工学部の壁」と題する記事が8月26日付けで掲載されている。7月14日に開催された日本学術会議公開シンポジウム「シミュレーション・予測と情報公開に求められること-これまで・今・これから-」を紹介した拙ブログ記事に対して「理学部と工学部は違う」ことについて詳しく言及されたコメントがあったこともあり、保坂さんの記事を興味深く読んだ。主題は『「原子力ムラ」の閉鎖性』に端を発して、「さまざまな側面からの専門知識を結集する仕組み」の必要性を説くことにあるらしいと理解した。しかし、この記事を読むのは、管理人にとっては、どうにも頭が痛くなるような作業であった。以下は、この作業で管理人が考えたことなどの詳細。
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1.想定外
保坂さんは、冒頭で
東日本大震災にともなう東京電力福島第一原子力発電所の事故で、なんども「想定外」という言葉を聞いた。という形で問題点を指摘している。しかし、管理人には、「最善を尽くしたうえでの想定外」とは、何のことなのか全く理解できなかった。
これほどの巨大地震が起きることは想定外で、高さが15メートルにもなった津波も想定外。原子炉の最低限の安全を確保するための非常用電源がすべて使用不能になってしまったのも想定外だった。
人間は、過去から学ぶ。過去に経験しなかったこと、あるいは、過去の経験や知識から類推できないことを想定するのは、たしかに難しい。問題は、今回の「想定外」が、最善を尽くしたうえでの想定外だったのかという点だ。
「これほどの巨大地震が起きること」は確かに想定外だったかもしれないが、「高さが15メートルにもなる津波」や「非常用電源がすべて使用不能になる」ことは、一部研究者・技術者が指摘していたことであり、「想定外」ではないと考える。むしろ、指摘されたこれらの可能性をリスク対策の対象から外したという選択に誤りがあったのだと思う。保坂さんの言う「想定外」とは、リスク対策の対象から外した事象の総称なのだろうか? だとすると、「人間は、過去から学ぶ。過去に経験しなかったこと、あるいは、過去の経験や知識から類推できないことを想定するのは、たしかに難しい。」という文章は何を示しているのだろうか? 一部研究者・技術者から指摘していたのは、正に「過去の経験や知識から類推されたこと」である。
2.原子力ムラ
次いで、保坂さんは、多分、「最善を尽くしたうえでの想定外」について説明するつもりからだと思うが、以下のように「原子力ムラ」の閉鎖性に言及する。
今回の原発事故を契機に、原子力開発関係者の閉鎖性が、「原子力ムラ」という言い方でしばしば指摘されてきた。顔見知りの村人なら信頼するが、それ以外のよそ者は、いい人か悪い人かを確認する以前に拒絶してしまう。自分と違う価値観を持った人たちを受けつけず、狭い自分たちの知識と慣習だけで事を進める伝統的なムラ社会の負の側面が、現在の原子力開発でも見られるという指摘だ。しかし、この記述には「最善を尽くしたうえでの想定外」との関連が明示されていないため、唐突な印象を受ける。「閉鎖的ではない観点から種々の可能性を検討する」ことが「最善を尽くす」ことなのだと言いたかったのではないかと想像するが、確証はない。
なお、「原子力ムラ」という表現に対し、現実に村で生活している方の「村に実際に居住している者の感情を逆なでするもので、腹立たしい」という主旨のツィートを見たことがある。他の多くの記事では、原子力発電を推進する関係者・組織の閉鎖性の象徴する言葉として「原子力ムラ」という呼称のあるこが紹介されている。これに対し、保坂さんの説明は「伝統的なムラ社会の負の側面」を強調しており、偏見に満ちた言わずもがなの説明のように思える。
3.価値観を隔てる壁
「自分と違う価値観を持った人たちを受けつけず、狭い自分たちの知識と慣習だけで事を進める」という閉鎖性の説明に続いて、保坂さんは、
価値観の違う人たちが理性的に討議を重ね、ベストの結論に達する。そうあるべきなのだろうが、現実には価値観を隔てる壁は高く、容易には越せない。と、閉鎖性を形成・維持している価値観の壁を打ち破ることの難しさを指摘している。「価値観の多様性を認める社会」が望ましいと考えている管理人には、上の記述を見て、「では、どうするのか」という議論に進むことを期待したが、そうではなかった。理学部と工学部の壁の高さを例示した後、種々の問題提起に終わってしまっている印象を受けた。
なお、上の文章の「価値観の違う人たちが理性的に討議を重ね、ベストの結論に達する」という記述に管理人は違和感を感じた。その原因は「ベストの結論」という言葉にある。何が「ベスト」なのかは、それこそ価値観に大きく依存する。また、「理性的」という言葉も、微妙である。
管理人は、「理性」も価値観に支配されていると考えているので、何を「理性的」と考えるかによって、討議の仕方や流れが大きく異なってしまうと思う。管理人は「価値観の違う人たちが、あ互いにその価値観に敬意を払いながら、誠意を持って、相互理解を深めるための討議を重ね、合意を形成する」ことが、「価値観の多様性を認める社会」での営みだと考えている。
4.理学部と工学部の壁
保坂さんは「価値観を隔てる壁」の例として、理学部と工学部の壁を例示している。保坂さんによると「モノを作る人たちの集まり。とにかくモノができなければ満足しない。モノを作ってきたかれらの発想の根っこには、現場の経験知がある。目の前にないものを夢見て、なぜそんな便利なものが存在しないのかを問う。そして作りたいとなれば、頭脳と腕力で作ってしまう」のが工学部であり、「目の前の現象を見て、それがどのような原理で起きるのかを問う。それがわかれば満足する」のが理学部らしい。随分と乱暴なレッテル貼りだと思う。工学部所属の人の中には、「私は、私の学科は、違う」と言う人がいるだろう。理学部所属の人の中にも同じことを言う人がいると思う。今や理学と工学はその境界があいまいである分野が多い。あるいは、理学と工学は不即不離である。多くの大学では理工学部がある。このよう状況において、工学部と理学部に分けて論じて、どのような意味があるのだろうか? 分けるとすれば、科学技術研究におけるアプローチの違い、例えば、基礎と応用、実験・観測と理論、が考えられるが、それも、あまり意味がないように思う。それは、当然のことながら、例えば、同じ基礎科学の中でも、価値観(問題解決の発想、問題の基本的認識)が違うのだからである。
なお、東大工学系の教授だった班目春樹・現原子力安全委員長の「事故につながる可能性のあることをすべて考えてはモノなど設計できない、どこかで割り切ることが必要だ、という趣旨の発言」は工学部的な発想とは言えないと思う。「どこかで割り切ること」自体は工学、理学を問わず、文・理を問わず、誰もが、日常生活でしていることである。原子力安全委員会の犯した誤りは、科学的根拠ではなくて、経済効率を重視して「割り切るところ」の選択を誤ったことにあると思う。また、耐震構造での安全率の選択の問題も理学と工学の違いとは言いきれないように思う。未知の事象についての将来の発生を過去の発生事例から推定する方法には種々のアプローチがあるが、それらは工学・理学の間での違いではないと思う。
保坂さんは、「理学部出身の筆者にとって、この工学部の感覚は水と油。だが、これはおそらく、工学ムラの怠慢というよりも、むしろモノを作る人の習性なのだと思う」として、「だから問題は、この工学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある」としている。
どうして、このような展開になるのか、管理人には理解できない。工学部出身者が以下のように述べる事態が発生する可能性もある。「工学部出身の筆者にとって、この理学部の感覚は水と油。だが、これはおそらく、理学ムラの怠慢というよりも、むしろ原理を追い求める人の習性なのだと思う。だから問題は、この理学ムラの発想自体にではなく、それ以外の価値観をもつ人々の発想と知識が十分に生かされていない点にある」。
上の文章に続けて、保坂さんは
日本に原発をつくることの危険性を訴えている地震学者、おなじ原子力工学畑でも、原発への疑問を持ち続けてきた「非主流」の人たち。もし狭いムラ以外の知識がまじりあえば、そのムラにとって想定外の「3倍」「5倍」も想定に含めるべき必然性が見えてくる可能性がある。このうえで、やはりコストなどの面から「2倍」にすると社会が決めるのなら、それはそれでひとつの判断だ。と述べている。想定外の事態を招かないためには、価値観の多様性が保証された組織が必要であると考えている管理人は、この記述に同意する。ただし、今回の原発事故は、「工学ムラ」というよりは、仕様の選定、見直しに際して、科学技術(理学と工学)が政治・経済に追随し、「科学の知見」よりも国策を優先させた結果だと思う。
5.課題
保坂さんが例示した、専門知識と社会をめぐる議論での論点は以下の通り。
・科学や技術に関する知識と社会の関係はどうあるべきなのか。
・専門家のいうとおりに社会を作ればよいのか。
・専門知識を生み出すときにも市民参加が望ましいのか。
・専門知識の生産と政策決定に果たす市民の役割は、具体的にどう違うのか。
・あちこちに分散している知識を統合するには、どうすればよいのか。
これらは、既に、ある程度「社会における科学コミュニケーション」あるいは「アウトリーチ」などの問題として、色々な人によって議論されているように思う。
また、保坂さんは、「東日本大震災でおおきく揺らいだ専門知識への信頼を回復する必要もある」ことを指摘し、さらに、社会学者のアンソニー・ギデンズの『近代とはいかなる時代か?』(而立書房)で、「たとえ個々の市民が科学や技術に精通していなくても、その専門知識が社会を健全に支えていることをつねに確認できれば、市民はそれを信頼することができる。専門知識へのこのような信頼が、近代以降の社会には欠かせない。」と述べていることを紹介している。
ここで、近年の科学コミュニケーション関連の議論を反映していない1990年発表の『近代とはいかなる時代か?』を持ちだしてきた理由が管理人には理解できない。管理人は「専門知識への信頼」という表現に違和感を感じる。専門知識とは、科学的知見のことであると思われる。科学は科学的知見をより深く理解するための試行錯誤の営みであり、完全無欠な科学的知見はあり得ない。このような科学的知見への信頼とは、何なのか、管理人には、どうにも理解できない。この意味で、
科学や技術を社会に埋め込む際に、さまざまな側面からの専門知識を結集する仕組みがいまの日本にできているのか。そのためにベストな人材が広い範囲から集められているか。工学部でも理学部でもいい。文理融合などという古臭い言葉を使うまでもなく、そこには社会学や政治学の知も必須だろう。という、保坂さんの問題提起にも、疑問を感ずる。
「専門知識を結集する」という言葉には、「しっかりした一つの確定した統一見解としての知識体系を作り上げる」というような印象を受ける。「科学や技術を社会に埋め込む」という表現を考慮すると、ここでいう「結集された専門知識」とは、サイエンスポータルのオピニオン欄に6月15日付けで掲載されている科学技術振興機構 社会技術研究開発センター長有本建男さんの「政策形成への科学的助言-3.11後の政治と科学の関係の再構築」と題する記事で言及されている「unique voice」に近いもののように思われる。
拙ブログ関連記事:
2011年08月22日 coherent voice of scientists
保坂さんは最後に、
東日本大震災からまもなく半年。あちこちに昔のようなムラができる前に、多様な専門知を十分に信頼できる形で生かす新しい日本に向けて踏み出したい。と述べている。読売新聞科学部デスクとして、どうしたいのかを述べてほしかった。
なお、「あちこちに昔のようなムラができる前に」という記述には疑問を感じる。閉鎖的なグループ内での議論に留まることは厳に戒めるべきであることには同意するが、専門家が集まって議論する場合には、閉鎖的なグループ内での内容の深化は不可欠である。種々のグループの仲立ちをする役割の一翼を担うことをマスコミに期待している。
6.おわりに
結局、管理人が理解した内容からすると、保坂さんの記事の題目は「知の結集阻む理学部と工学部の壁」というよりは「多様な価値観をもつ人々の発想と知識を十分に生かそう」というような題目の方が相応しいように思う。
以上、保坂さんの記事に対する管理人なりの理解を示し、それについて論じた。しかし、これらは管理人の誤読に起因するもので、保坂さんの言いたかったことは別にあるのかもしれない。管理人と異なる読み方をされている読者のご意見を頂ければ幸いである。
2011年8月31日0時40分 追記
8月2
読売新聞「知の結集阻む理学部と工学部の壁」に対する反応
http://togetter.com/li/180286
>価値観の多様性が保証された組織が必要である
それでいて「専門家が集まって議論する場合には、閉鎖的なグループ内での内容の深化は不可欠である」というのは矛盾しています。出てきた結果に至る過程が判らなければ検証のしようがありません。
>仕様の選定、見直しに際して、科学技術(理学と工学)が政治・経済に追随し、「科学の知見」よりも国策を優先させた結果だと思う。
その時点で「私は政府方針に従います」という意思表示なのですから、職を賭して反対し続けて社会から放逐されることを選ぶべきでしょう。科学者である前に「判断する人間を国会に送り込む権利を有する日本国民」なのですから。
その意味で保坂氏の「ムラ社会」というのは正しいです。