1.第7回関東支部勉強会
本勉強会の趣旨は、そのウェブサイトによると
東日本大震災を受けて、さまざまな科学コミュニケーション活動が活発化しています。多くの場面で科学コミュニケータの活躍が期待され、それに応えた活動が行われています。その一方で、まだまだ手が足りていない分野も少なくありません。震災発生から1ヶ月あまりを経た今、科学コミュニケーション分野全体の動向とそれを取り巻く社会状況を俯瞰し、コミュニティとしてどのような貢献ができるのか、議論したいと思います。ということであった。
3月27日に管理人が担当して開催した「第7回海のサイエンスカフェ-東北関東大震災にかかわる海洋の科学を考える-」の案内およびその開催報告速報を科学コミュニケーション研究会MLに流したこと、そのことが契機となってMLメンバーのお一人から情報提供の依頼を受けたこと、「第7回海のサイエンスカフェ」には科学コミュニケーション研究会ML読者3名が参加されたことなどの経緯があり、本務先を早退して参加した。「第7回海のサイエンスカフェ-東北関東大震災にかかわる海洋の科学を考える-」の開催について勉強会で報告できればよいと思っていたが、結局、機会がなかった。
関連ウェブサイト:
「第7回海のサイエンスカフェ-東北関東大震災にかかわる海洋の科学を考える-」開催報告
2.田中幹人氏の話題提供
会場に到着したのは開始15分後の18時45分頃であった。すでに会場はほぼ満室であった。途中からお聞きしたサイエンス・メディア・センター(SMC)/早稲田大学の田中さんの話題提供の中では、科学の啓蒙・理解増進・親和を目指す平時の科学コミュニケーションは、今回の事故発生直前のリスクコミュニケーション(安心・安全)、事故発生時のクライシスコミュニケーション(緊急避難)には役に立たない、という認識を田中さんが抱いていることが印象に残った。また、田中さんはSMCのリスクコミュニケーション活動について、情報提供の際に複数の専門家の意見を提示するという原則が、準備不足のため維持できなかったこと、あるいは、「専門家ではない」ことによる苦心を語っていた。
管理人にとって、科学コミュニケーションの活動内容として、今だに「啓蒙」という言葉が使われていることと、田中さんのみならず、他の参加者の多くも「自分は専門家ではない」ということに「引け目」あるいは「限界」を感じているらしいことに、ある種の驚きを抱いた。管理人は、科学コミュニケーションは双方向の対話であり、科学者が非科学者を一方的に啓蒙するのではなく、科学者と非科学者が互いに学び合う場だと思っている。また、専門家といえども己の専門外のことについては基本的に非専門家である、あるいは専門家といえども知らないことは多い、ということを強く認識して、科学的基礎知識が乏しい一般の人々とともに、ある事象についての理解を深めるのが科学コミュニケション活動だと思っている。科学コミュニケーションはリスクコミュニケーションおよびクライシスコミュニケーションの土台であり、我が国におけるリスクコミュニケーションおよびクライシスコミュニケーションの困難な現状は、科学コミュニケーションが十分に達成されていないために生じた事態であり、リスクコミュニケーションおよびクライシスコミュニケーションを円滑に行うためにも、今後の科学コミュニケーション活動が必要だと思っている。
拙ブログ関連記事:
2008年08月24日「科学技術専門家の権威」
2008年10月27日「安全。だから安心」となるために
3.大木聖子氏の話題提供
19時過ぎからは東京大学地震研究所で広報を担当されている大木聖子氏が、若き地震研究者としての大震災前の出前講義や震災発生後のメディアや国民からの質問への対応などについて、詳細な紹介があった。大木さんのお話の一部は、その実況Twitter(ハッシュタグ:#scstdy)の中で以下のように紹介されている。
@avi_kyokan 2011.04.28 19:28:53
今後の地震学の広報アウトリーチ(大木さんの私見):大規模地震災害発生時における情報発信……最大リスクあるいは我々の過失を可能な限り早い段階でオープンにする。正しい情報を出し続ける。→どのような誤解が存在しているのかの情報収集&正しい情報の拡散
@avi_kyokan 2011.04.28 19:32:30
今後の(地震研の)広報アウトリーチ方針(大木さんの私見)「地震予知に対する過剰な期待と誤解を解消する」(変更なし)。今まで:地球科学の側面(予知ではない側面)を強調してきた/これから:予知は不可能であることを強調していく。/分かっていないことをこそ伝える。
@avi_kyokan 2011.04.28 19:34:47
科学コミュニケーションについて(大木さんの私見):あふれる情報を処理する力(判断力・決断力)を養う。→何かを取捨するということ。自分の責任で決断をするということ。
@su319 2011.04.28 19:36:36
今回の地震でマグニチュードが8.4?8.4?9.0と変わったせいで、気象庁陰謀説があった。大きな地震において気象庁の初期観測では地震計がサチレーションするため、後から修正するのは当たり前。変な噂、心配を無くすためにもそこを伝えるのが科学コミュニケーションなのでは
@su319 2011.04.28 19:50:18
人間は将来に対する不安を抱くもの。だから未来を少しでも予見出来うる科学に期待を抱く。しかし地震の予測は無理なのにその事に対する理解がされていない。地震予知できるかのようにいう研究者・メディアにも原因がある。大木さんの目標は「地震予知に対する過度な期待をなくす」こと
大木さんのこれらの発言は、管理人がこれまで本ブログで表明していた科学あるいは科学コミュニケーションについての考えと、多くの点で一致しており、強く同意する。従来の大学人にある権威主義的な雰囲気へ果敢に立ち向かう、大木さんのような若手研究者の存在に深い安堵感を感じた。
拙ブログ関連記事:
2008年05月06日 科学について知っていてほしい5つの事
4.質疑応答
約1時間の大木さんの話題提供と、それへの質疑・応答の後、20時頃から、一般的な質疑応答が始まった。その冒頭で、管理人は、福島原発事故発生にかかわる専門家の発言などに対し、「御用学者」という批判が多く見られるようになっているのは、科学への国民の信頼が将に失われつつある状況であることを示しており、国民と科学者との間に立つ科学コミュニケーションの立場からの対応の必要性を述べた。管理人の発言に対し、主催者のお一人である横山広美さんから「専門性を持っている人は社会から信用を得ている。それを失わないために、どうするのかが重要な課題」という応答があった。このことについては、それ以上の直接的な議論の深まりはなかった。しかし、その後の意見交換のキーワードの一つは「信頼」であったように思う。この意味で、管理人の発言もそれなりに理解して頂いたかもしれないが、議論は拡散気味であった。
関連実況Tweet:
管理人の発言、横山さんの発言
その中で、東北大学の長神さんの「震災は進行中であり、このような状況下で、科学コミュニケーション活動として出来ることは、まだ沢山ある」という主旨の発言が注目された(管理人が会場に遅れて到着する前に、長神さんから、参加者にカンパの要請と現地情勢について報告があった)。また、科学コミュニケーションの担い手として学校教員の活動が期待されるが、「科学を楽しむ」という科学コミュニケーションの方向が、「科学の知識を系統的に学ばせる」という理科教育を阻害すると考える教員もいるということを、驚きを持って聞いた。勉強会の締めくくりとして、田中さんが「この場の参加者のように科学の重要性を認める人々の他に、科学を受け付けない人々がおり、この二つのグループが全く乖離して存在している」と述べた。重要な現状認識だと思う。
5.おわりに
今回が「科学コミュニケーション研究会」勉強会への初めての参加であったが、勉強会のウェブサイトに記載されている趣旨が、
科学コミュニケーション研究会では、科学コミュニケーションに関する活動・研究を行っている人々が広く集い、定期的にお互いが顔を合わせて議論する場の創出を目指して、活動しています。この活動の一環として、科学コミュニケーショ ンに関連する勉強会を開催しています。ということであって、結局、科学とは何か、科学コミュニケーションとは何か、ということについて、深く議論しないという配慮が共有されているような印象を受けた。多分、これまでの勉強会でも、いやになるほど、繰り返し議論されてきたのだろう。その結果、科学と科学コミュニケーションについての認識が参加者の間で多種多様な現状にあって、これらのことを突き詰めて議論しても話が拡散してしまうという思いが強かったのかもしれない。そうであっても、やはり、「科学コミュニケーション研究会」は、繰り返し、科学とは何か、科学コミュニケーションとは何か、ということを議論し、その内容(合意形成に向けての努力の足跡)を、逐次、社会に発信する場であってほしいと思う。
勉強会では、従来の科学コミュニケーションの枠組みを広げる可能性のある活動・研究を行っている方をお招きし、その考え方に触れることで、科学コ ミュニケーションという概念の発展可能性を探ります。最初に講演いただいた後は、参加者の皆さんとの質疑応答で進めていきたいと思います。
参加者は、圧倒的に若い人が多いことに驚いた。また、事前にMLなどで話題になってもいなかったのに、横串会や研究者ネットワーク(仮)などの科学コミュニケーション関連集会で旧知の方々が10名以上も参加されたのにも驚いた。管理人の他には、60歳台の参加者の数があまり多くないように思えた。若者たちの関心の高さを嬉しく思う反面、長年にわたって科学研究の世界を生き抜き、専門家としてマスコミなどで発言する機会の多い年輩者の参加が少ないことに不安を感じた。
付録:「御用学者」
以下に、勉強会で発言した「御用学者」について捕捉する。
かって拙ブログ記事「社会の中の科学」で管理人は
統治科学の本来の目的は政策決定を誤らないようにする科学,企業の健全経営に資する科学,あるいは社会の健全な発展に寄与する科学である.しかし,その倫理性を失うと,いわゆる御用学者の類に陥る.また,功名心,名誉欲,金銭欲に駆られてデータ捏造に走った例もある.と述べた。この意味で、原発事故に対する政府の対応などを説明する専門家に対し、御用学者という非難が多く現れている事態は、国民の科学への信頼が危機的状況になっていることを示しているのではないかと危惧している。その底流には、考えすぎかもしれないが、今回、多額の予算を費やしてきたにもかかわらず地震、津波という自然災害を防止できなかったことと、専門家たちが安全性を強調してきたにもかかわらず原発事故が発生してしまったことも、関係しているようにも思う。
御用学者とは,「政策決定を誤らないようにする」のではなくて,「誤った政策決定に権威と裏付けを与える」科学者のことをいう.海洋開発に関わる調査研究で言えば,開発推進を図る為政者あるいは開発反対派住民のために,都合の良い科学的根拠を権威者として提供する科学者である.統治科学は政策決定のための判断材料・根拠(予想されるメリット・デメリット,影響,効果など)を提供するのみで,政策を決定するのは行政・議会の役割であるはずである.それなのに,都合の良い「学者」のみで構成された審議会などの判断を根拠に,そのまま決定・主張する,すなわち「学者」の権威を利用する風潮が官民を問わず数多く見られる.このことが,為政者と住民の双方の不信を招くとともに,子供たちの理科離れや科学技術への関心の低下をも招いている.自らの偽りの権威を否定し,「どこまでは分かるが,分からないことは分からない」と明言する真摯な行動の積み重ねによって人々の信頼と尊敬を得ることが,子供たちを科学の世界へ引き込む道であろう.
震災・原発事故から復興には科学技術の貢献が不可欠であろう。しかし、その前に、科学技術についての国民の支持と理解が必要である。科学技術の粋を極めたはずの原発で重大な事故が発生したことに対する対処を誤れば、国民の科学技術に対する支持を完全に失うことになる。私には、3月18日付け学術会議幹事会声明や4月27日付け「34学会(44万会員)会長声明」には、このような危機感が薄いように感じる。
拙ブログ関連記事:
2009年11月28日「社会の中の科学」
Wikipediaでは、
現代における用法を定義することは難しいが、学術的な調査を改竄ないしは解釈し、権力者や統治者、ないし依頼者に都合の良い結果を導き出す者がこう呼ばれる。と述べているが、実際には「御用学者」と「正当な学者」を区分するのは難しい。権力者や統治者、ないし依頼者の都合に合わせて、学術的な調査結果を改竄するのは明らかに科学の倫理に反する行為であり、否定的な評価としての御用学者と呼ぶのに異論はない。しかし、学術的な調査結果を「研究者としての信念」に基づいて解釈して、権力者や統治者、ないし依頼者の都合に合致した結果を得た場合に、その行為を以って御用学者と呼ばれるならば、だれも学術的な調査結果についての科学的検討の任につかなくなるだろう。自分の期待する解釈を示す学者を「正当な学者」と呼び、自分が受け入れたくない解釈を示す学者を「御用学者」と呼ぶのは間違っていると言わざるを得ない。この風潮の根底には、研究者の「科学的営み」を否定する考え方が潜在的にあるように感じる。
「科学は客観的である」というのが幻想であり、各研究者の抱いている価値観・信念によって、「学術的な調査結果の解釈」は異なるものであり、科学の営みは、価値観の異なる研究者の間での証拠に基いた議論によって、出来るだけ矛盾のない解釈・共通認識を導き出す過程である、という認識が広く国民に共有されれば、「御用学者」という蔑称も安易に使われなくなるのかもしれない。
「御用学者」と「正当な学者」を区分するのは、「研究者としての信念に基づいた解釈」を行っているのか否かではなくて、「研究者としての信念」の内容そのものであろう。「信念」とは各研究者の価値観そのものである。したがって、各々の信念に基づいた解釈は、研究者の価値観に左右されるのは避けがたい。審議会など委員に選ばれた学者が、そのことから得られる地位、名誉、権力や金銭のために依頼者におもねった解釈を示すのであれば、御用学者と呼ばれても仕方がないであろう。自分の価値観・利害関係などの背景を明示した上で、後世の人々から見て最善を尽くしたと評価される解釈を示し、歴史の判定が下った際には、潔く、その結果を受け入れる覚悟を持って発言するのが「正当な学者」のあり方だと思う。
なお、より客観的な結論を導くためには、出来るだけ多様な価値観を持つ学識研究者を集めて、「学術的な調査結果の解釈」が議論される必要がある。原発開発などのこれまでの種々の審議会などでは、依頼者と同じ価値観を持つ学識経験者のみを集め、あたかも客観的な検討を行ったと偽っていたのが大きな誤りであった。このような望ましい「科学の営み」を一般、政策立案担当者、および研究者達に伝え、広めるのも、科学コミュニケーションの重要な役割の一つだと思う。
繰り返しテストされた実験結果が、汎用化され、解釈が煮詰まってからこそ、技術化の段階に入るのです(勿論、絶対も完全もありません。すべては仮説的です)。
その意味で、原子力制御技術は、過渡的であり、未成熟であり、実は技術化以前であると思います。
>「研究者としての信念」の内容そのものであろう。
そうであるならば、下記の気象学会の理事長メッセージは最悪の方法です。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/msj/others/News/message_110318.pdf
理事長としては学会員のみにメッセージを発信したつもりでいたのが、実際には社会に不信感と不安を与えるメッセージを発信していたことになります。訂正版(4月11日付)は、朝日新聞報道(4月2日付)を受けた一般からの反応に対するメッセージ配信でしょう。しかし、第三者の批判に到底耐えられない内容で、結果的に反社会的なことをしたことになります。そして学会も、理事長のメッセージ発信を管理できていないことを明らかにしてしまいました。理事長のメッセージは、気象学会の権威を地に落としただけに終わっています。
これは先日の海洋学会の後援により行われた福島原発による海洋汚染に関してのWSの中で言及されていますし、海洋学会&気象学会の会員であるY先生からも「科学者としての各人の役割があるはずだ」、「学会は官僚主義的になってしまっている」と反論されていますが。「政策決定を誤らないようにする」ために採った方策が「(結果として)誤った政策決定に権威と裏付けを与える」ような状況を作り出したのは事実です。