1.多中有一、一中有多
「多中有一、一中有多(多の中に一が有り、一の中に多が有る)」は、管理人が学生時代に所属していた京都大学心茶会の当時の会長であった久松真一先生から頂いた短冊に書かれていた言葉である。
本記事を書くにあたって、その出典をグーグルで検索してみた。どうも、華厳宗の教説である十玄縁起無礙法門にあるらしい。その解説が「十玄縁起無礙法門義<1> 十玄門の喩説─異体門・同体門における相即・相入と数銭の法─」にあるが、読んでも、さっぱり分からない。
浄空法師影音報恩講堂サイト(中国語)に掲載されている「十玄門」についての解説講話記録では
一多相容不同門《大疏》云:「若一室之千燈,光光相?。」蓋一中有多,多中有一,是為相容。而一多之相不失,是為不同と記載されている。
この短冊を久松先生から頂いたのは、管理人が大学院学生として京都心茶会(学生心茶会の卒業生で京都在住者の集まり)の例会のお手伝いをしていた頃だと思うが、詳しくは覚えていない。ただ、この短冊を頂くときに、先生が、穏やかな笑顔で、「これは、一つの数珠が多数の珠で成り立っており、多数の珠の一つ一つの珠が連なることで一つの数珠が成り立っているような状態を示しています」とおっしゃられたのを記憶している。先生の意図は計り知れないが、今思えば、当時(今もその傾向はあるが)の何かと異論・反論を唱えがちな私の言動や、大学院で取り組んでいた海洋物理学を含めた自然科学研究の根本についてのご助言だったのかもしれない。この言葉をお聞きして、ストンと腑に落ちる感じがしたことを今でも覚えている。
管理人の私的ウェブサイトの「モットーなど」のページにも簡単に記載してあるが、この言葉は、本来は、事物一般の本質的な理解についての記述であるが、個性のあり方や,国家・組織・団体など集団とその構成員の間の関係をも示唆しているように思う.また、「情けは人の為ならず(他人を助けることは,結局,自分が助けられること)」や,ラグビーの「One for All, All for One」と一部で通じるものがあるとも思う.
集団とその構成員のあるべき関係について記せば、集団はその構成員の個性を尊重し、構成員の各々はその個性を発揮することを通して集団に貢献する、というような渾然一体となった関係にあることを示していると思う。国家と国民の関係で言えば、まさに「民主主義」を表しているようにも感じる。
拙ブログ関連記事:
2008年04月30日 心茶会と久松先生のこと
2.イギリス流自由主義思想
玉置さんは、夏目漱石が個人主義を「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」ことと解釈していることを示し、さらに、柄谷行人が「近代の超克」で、「夏目漱石の言う個人主義をイギリス的な自由主義思想であり、個人を重んじるのかそれとも全体を重んじるのかという軸と、未来を重んじるのかそれとも現在を重んじるのかという軸でで思想を4つに分けた時に、個人を重んじかつ未来を重んじる主義だ」と述べていることを紹介している。
柄谷行人の「個人を重んじるのかそれとも全体を重んじるのか」という軸での区分は、「多に近いのか、一に近いのか」という、西洋合理主義的な捉え方であるといえよう。他方、「多中有一一中有多」という東洋的、仏教的な捉え方では、個人と全体を渾然一体と捉えることになる。
夏目漱石が「他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時はある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。」と述べているところで感じた「淋しさ」は、生きることの認識が、極言すれば、「多中無一」に留まっていることに起因しているように思う。
なお、共産主義は「多中有一一中無多」、ファシズムは「一中無多」、アナーキズムは「多中有多」といえるかもしれない。
3.「違い」に対する寛容さ
人々の間の「違い」とは、地位、収入などの社会的状況と物事の考え方や捉え方などの心情面の双方を含めた「個性の違い」と言い換えられるであろう。「個性の違い」に対する寛容さとは、各々の個性の違いに対する、「他人は他人、自分は自分」という他への無関心・放置ではない。「多中有一一中有多」の考えに立って述べれば、寛容とは、相手に対して、勝ち負けとか優劣などに拘る関心・関与ではなくて、相手をかけがえない存在と認め、求められれば手を差し伸べるような態度だと思う。
互いに尊敬の念を持っていても、共同行動の選択時などに対立することがある。このようなときに、どのように行動するのが良いのだろうか。現在では、対立を避けるために、自己の意思を主張をしないで我慢する人が多いように思う。その結果として、ストレスが蔓延し、心を病む人も多い。そうではなくて、意見を披歴しあい、議論することによって、互いの理解を深め、共通の認識を作り上げることが重要だと思う。議論・討論というと勝ち負けを想像する人が多いかもしれない。しかし、議論・討論とは勝敗を決めるものではなく、相互理解に至るための手段であるという認識が広まってほしい。
科学論争は、本来は、地位と名誉を賭けた戦いではなくて、より良き共通認識に到達するための手段である。そのために、追試、検証実験、観測の結果を根拠とした議論が行われる。優れた科学者は自説に拘らないオープンマインド(寛容)な態度を持って議論する。この意味で、相互理解を目指した議論を行うためには、並みの科学者を含めた人々が「科学的営みの方法」について十分に理解している必要があると思う。
拙ブログ関連記事:
2010年11月07日 科学者の科学リテラシー
4.義務教育
玉置さんは、義務教育について以下のように述べている。
義務教育の効用とはなんだろうか?この記述に対し、義務教育では、多様な価値観の存在を認める考え方、共通認識を築きあげていく議論の方法、眼前の事象に囚われない想像力と、それらに必要な基礎知識を身に付けるてほしいと思っている管理人には、ちょっと違和感を感じた。多分、「価値」、「気付き」、「勉強」に含まれる意味が、玉置さんと管理人とで微妙に異なるためなのだろう。
それは、「自分では気づいていない価値への気付き」である。
すでに、自分が知っているモノに対して人は自分で勉強をしていくことができる。でも、自分が知らないモノに対して人は勉強をすることは不可能である。後者の気づきを与えるのものこそが義務教育であろう。
この観点に照らすに、今のツイッターというメディアは義務教育に匹敵する効用を持ち出していると私は考えている。
子供たちの教育におけるツイッターを含めたインターネットの効用としては、ブログ「Chikirinの日記」の1月26日付けの「ネットに超クールな“職業データベース”が出来つつある」と題する記事が示唆に富んでいると思う。「子供がキャリア形成の参考にできる情報」をネットを通じて得ることで、多様な生き方があることを知る。このことを通して、自分自身の価値観を持ち、そして他人の価値観を尊重できる人に育つと思う。
それにしても、玉置さんに「みなさん大学に入ったら夏目漱石の私の個人主義を読んでみて下さい。」と語った予備校の現代文担当講師の発言が、このような形で広がることが、教育の素晴らしさだと思う。
5.おわりに
上では触れなかったが、海洋学研究は物理学、化学、生物学、地質・地球物理学を基礎とした総合科学であるという意味で、まさに「多中有一、一中有多」で表わされる世界である。科学研究というものも、真理の探究を目指して、個々の研究者が創造力を発揮してきたという意味で、「多中有一、一中有多」で表わされる世界である。ブレーク・スルー研究を含めた科学研究の発展には、異なる価値観を持った研究者の加入が必要であるということも、「多中有一、一中有多」で示されていると考えられる。
「多中有一、一中有多」という言葉には、深遠な意味があるが、その説明は管理人の能力を超えているので、ここでは、あえて、自分なりの勝手な解釈を述べた。もしも、読者の中に、詳細をご存じの方がおられましたら、ご教示をお願いします。
ショーペンハウエルやニーチェが、仏教に非西洋的な思想を発見したことは重要だと思いますが、日本人から見れば、チャイナやインドの思想は違和感があると思うのです。
「多中有一、一中有多」については、フランスのジル・ドゥルーズという人の考えを連想しました。
柄谷行人さんはデカルト論でハイエクのデカルト批判を紹介してましたが、ファシズム思想の典型としてデカルトの思想を批判しています。
ハイエクの思想も「多中有一、一中有多」に近い気がします。
森敦という数学好きな作家が、「多中有一、一中有多」をテーマにしていたことを思い出しました。
コメントをありがとうございました。
>西洋と東洋という二分割は荒っぽいと思います。
そうですね。ご指摘をありがとうございました。言いすぎでした。レッテル貼り、十把一絡はいけないと、日頃、自分に言い聞かせていたのに、筆が滑ってしまいました。
頂いた情報を元に、「多中有一、一中有多」について、もう少し、自分なりに考えてみたいと思います。
私はインド語はまったくできないのですが、宮元啓一さんのインド哲学研究が面白いと思いました。
檜垣立哉さんの『 西田幾多郎の生命哲学』(講談社学術文庫) という本にドゥルーズの哲学の紹介があって、「多と一」の話が書いてありました。
西田幾多郎は久松先生の師です。
松岡正剛が西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集』を論じている中で、以下のように述べているのを見つけました。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1086.html
晩年の西田が最初に自分の構築しつつあった哲学の特徴を「一即多」とか「多即一」というふうに見なしていたということを付け加えたい。西田は個物と一般者の関係を、まるで鈴木大拙が晩年に華厳に耽ったように、融通無礙に動かすようになったのだ。 そしてその直後、そのような「一即多」とか「多即一」を成立させている世界の見方は「絶対矛盾的自己同一なんだ」とふいに断じた。ついに西田は哲学の禅僧になりきった。最近は、杉浦康平が「一即多」「多即一」をグラフィックに解いている。
この一節を読み、久松先生に頂いた短冊の言葉の重みを改めて感じています。
なお、tetsudaブログ 「日々ほぼ好日」の2009年09月08日付けの「「奈良を大いに学ぶ」講義録(4)南都仏教PARTⅡ.」と題する記事で、奈良大学名誉教授・市川良哉氏が講義での華厳宗の簡潔な解説の一節で、以下のように述べていることを紹介しています。
西田幾多郎の哲学の根本には華厳経がある。華厳の教えは世界性を持っている。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/048088be2e8c8f6af04e63c656e64036