2010年12月21日01時50分 拙ブログ関連記事へのリンクを追加
2011年01月10日15時40分 他ブログの記事の紹介を追記
11月20日夜に「はてなブックマーク 最近の人気エントリー」を眺めていて、J.R.ブラウン著、青木薫訳の標記の本が「みすず書房」から出版されたのを知った。「科学の合理性と客観性にあらためて信を置きつつ、論争必至の問題提起に及ぶ、刺激的な科学論入門」という説明を読んで、思わずAmazonで注文してしまった。22日に約400頁のぶ厚い本が自宅に配送されたが、急ぎの仕事を抱えていたため、なかなか読み始めることができなかった。12月に入り、寝る前に少しずつ読み始めた。いわゆる「科学論」の入門書である。重箱の隅をつっつくような議論が続く所を読み続けるのが辛かったが、科学哲学研究者と科学者の間に横たわる溝についての解説を初めとして、面白く感じる箇所も多かった。何とか、読み終えたが、十分に理解できたわけではない。以下は、そんな中で、印象に残ったことなど。
拙ブログ関連記事
2010年11月07日 科学者の科学リテラシー
2009年11月28日 社会の中の科学
2008年05月06日 科学について知っていてほしい5つの事
1.サイエンス・ウォーズ
著者は
サイエンス・ウォーズとは、科学は客観的だ -つねにとはいわないまでも多くの場合はそうだ- と主張する人たちと、科学は主観的だと主張する人たちとの論争なのである。科学は価値にとらわれていないなどといっていたのでは、まともな議論はできない。むしろ論じるべきは、それぞれの価値が置かれている状況なのだと述べている(199-200頁)。
この記述は、見せかけの客観性を標榜する世のいわゆる専門家・学識経験者の立場を危うくするものである意味で、重要であると思う。なお、訳者あとがき(368頁)では、「サイエンス・ウォーズとは、科学的な知識の性質をめぐる論争-科学的知識は、はたしてそれほど客観的、合理的、普遍的、特権的なものだろうかという問いかけをめぐる論争ーである」と述べている。
著者は「科学」という言葉を以下のように説明している(24頁)。
1)この世界を正しく記述する(あるいは少なくとも、わたしたちの経験を体系化する)ものとして、今日広く用いられている学説の総体。この意味において、科学は、実用的な目標のために世界を支配し、操作しようとするテクノロジーや応用科学とは一線を画する。科学論を進めるに際して、このように「科学」と「技術・応用科学」を分離して定義することは止むをえないのかもしれないが、管理人には、「実用的な目標のために世界を支配し、操作しようとする」という技術や応用科学への偏見とも言える捉え方に強い違和感がある。
2)科学の制度(大学、研究所、政府機関などをひっくるめた壮大な集合体)
著者は、
今回のソーカル事件に端を発したサイエンス・ウォーズの議論で、P.C.スノーの著作「二つの文化と科学革命」で引用されるのは決まって、「二つの文化(理系と文系)は、おたがいを理解していない」というスノーの嘆きばかりだが、スノーが論じたのは、生まれついての政治的右派である文系知識人ではなく、生まれついての政治的左派である科学者が、社会問題を解決する仕事に適していると述べているように、「誰が(社会を)支配するべきかという問題(社会は誰の助言を聞くべきか)」だったと、指摘している(2頁)。
本節の題は「誰が科学を支配するのか」となっているが、管理人には、この節では、政治と科学との関係を論じられており、支配の対象を社会とした方が理解できる。このため、上の文では(社会を)とした。ただし、本書の英文題名は「Who rules in Science?」である。「Who rules Science?」だったら「誰が科学を支配するのか?」という訳で十分に納得できる。「rule out ---」は、除外する、排除する、妨げる、という意味がある。「rule in ---」の意味が、「rule out ---」の逆だとすると、「誰が科学を支えるのか?」のようになるようにも、素人ながらに思う。
なお、このスノーの見方は、その後に状況が反転して、「反科学的な左派」対「親科学的な右派」の対決という見方が広まった。さらに1996年のソーカル事件を契機として、この線引きが誤りであるとの認識が広まっている。著者は、科学に対する態度がさまざまなのは、右派も左派も同じことであり、便宜的には、以下の4つに分割されると述べている(51頁)。
・正統的科学観に反対する政治的左派(社会構成主義者とポストモダニストの一部)、著者は
・正統的科学観に反対する政治的右派(宗教的保守主義者と反ダーウィン主義者)、
・正統的科学観を支持するする政治的左派(ソーカル、チョムスキー、グールド、ルウォンティン、ウィーン学団)、
・正統的科学観を支持する政治的右派(一部の社会生物学者、人種研究者、IQ研究者ら)、
本書の目的のひとつは、社会構成主義者が間違いだとしている正統的科学観は、ほんとうに間違っているのだろうか、という問いにたいして妥当な答えを与えることだと述べている(24頁)。この答えは、「訳者あとがき」で、以下のようにまとめられている(371頁)。
著者が本書で主張していることの核心を標語的に言うなら、「科学的知識は、価値を背負いながらも客観的でありうる」ということになるだろう。
2.多様性の確保
「価値を背負いながらも客観的である」ためには、科学はどのようにあらねばならないのか、が本書の主題である、と思う。このことについて、著者は、第8章「科学の民主化」の中で、以下のように述べている(322-324頁)。
人は誰しも、背景知識の中に正しいという保証のない仮定をたくさん置いているし、多かれ少なかれ自覚のないままに、さまざまな偏りを抱えている。これは学問的に誠実かどうかという問題ではない。わたしたちは正真正銘自分の偏りに気付いていないので、手際よくそれをとり除くわけにはいかないのだ。そこで、次善の策は、理論つくるときは、多様な偏見が含まれるように知識の探求を組織することである。そうしておいて、競合理論のなかから最善のものを選べばよい。競合理論の多様性をできるだけ大きくするためには、理論家の多様性を大きくすればよい。まさに、ブレーク・スルー研究の推進策そのものであると管理人は思う。なお、「訳者あとがき」では、「科学をより良いものにするため」の方法について、以下のように述べられている(373頁)。
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知識をより良いかたちで増大させるためには、 アファーマティブ・アクションが必要なのだ。認識論の立場から、多元主義が求められている。
異なる価値を背負った研究者が生まれやすくなるように、多様な価値観が尊重総ん長される多元的社会が必要である。それはたんに、そうすることが社会的にフェアだからではなく、客観性の強度を試し、科学の手続きを鍛え、より良い理論をつくるためには、そうするしかないかもしれないからなのだ。
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科学の前進は、異説や反論や別の視点が出てきてこそ可能になり、そういうものが出てくるために、多元的な社会(多様な価値観が尊重される社会)が必要とされるケースがあるのはたしかなのだ。
3.科学者にできること、科学哲学者にできること
この本の中核となるテーマをひとことで表現すれば、「優れた科学と社会正義は結びついている」ということになるだろう、と著者は述べている(4頁)。
このテーマに関して、本書の結論とも言える記述(354ー355頁)の抜粋を以下に示す。
科学は、抑圧された人々の友でなければならない。
科学者もそうだが、とくに科学哲学者は、社会の不平等を正当化するようなニセ科学を論駁できるという、社会貢献という観点から特別の位置にいる。
科学者と科学哲学者は、ほかの誰にもまして、悪い科学、とくに社会にとって有害な目的に奉仕する科学を暴露するために必要な力をもっているのである。
ニセ科学といわれているものについては、それがたしかにニセ科学であることを示さなければならない。しかし、証明して終わりになるわけではない。証明して明らかになったことを、広く世間に知らせなければならない。
大手の一般誌に掲載された一本の記事は、一人の研究者が一生のあいだに学術誌に発表する論文すべてをあわせたよりも多くの読者を幅広い層に得るだろう。
誰が支配すべきなのだろうか? もちろん大衆が支配すべきだ。ただし、大衆は情報に通じた声を聞く必要がある。もしもソーカル事件が、分析的思考力をもち、科学に共感する人たちを触発して、社会にとって建設的な行動をとらせるのであれば、それこそ彼の真の遺産となるだろう。
「優れた科学と社会正義は結びついている」という言葉には強引な印象を受けるが、上に示した言葉によって、「科学リテラシーの普及」を通して社会を変えたいと願っている管理人が勇気付けられたのも、確かである。
4.知識の営利化
357頁からの最終章で、著者は、「科学は絶対に正しいという教条主義に陥ることへの懸念」、「宗教と科学の問題」、「環境保護主義の問題」について簡単に触れた後、知識の営利化」について激しく批判している。大学が民営化されたりビジネスモデルが持ち込まれたりしたした時に発生する公共の福祉に関わる問題点、利益追求を目的とする私企業から資金提供を受ける場合の守秘義務契約の問題、その他について強い懸念を示した後、
科学者は大衆にたいして責任を負っているのである。科学者は、知識をすべての人にたいして無料で提供する責任を、大衆にたいして負うているのだと述べている。
この発言が、本書の初版が刊行された2001年に行われていることを考えると、10年後のわが国の悲惨な現状がやりきれない。
5.おわりに
上で紹介しなかったが、各種の科学の発展についての具体的な説明は非常に面白かった。ただし、著者の主張には同意する所が多いが、その論旨にはかなり強引と思われるところが多いようにも感じた。特に、良い科学、悪い科学、優れた科学、正統的科学観というような、主観的な評価を含むような表現が気になった。とは言え、科学論の入門書として、種々の科学論を系統的に解説した良書と思う。1960年代終わりの大学教養部時代以来、久々に科学論にまじめに接し、知的刺激を受けた、この数週間であった。
不勉強な管理人は認識していなかったが、本書を読んで、思想サイドの人たちは、科学は権力であり、抑圧の代名詞である、との認識をもっていることを初めて知った。子供の頃から理科に違和感を持っていなかった管理人には思いもよらないことだった。これが、文系と理系の間の根源的な対立あるいは住み分けの要因なのかもしれない。「科学は権力であり、抑圧の代名詞である」ことを体現する科学者が数多い現状では、「科学リテラシー」の普及には多くの困難が待ち受けていると改めて感じた。
2011年1月10日追記
ブログ「読書の記録」さんが1月4日付けの以下の記事で、本書についての言及されている。管理人にとって同意するところが多い。合わせて読まれたい。
http://satoshi8812.at.webry.info/201101/article_1.html
ソーカル事件は、哲学者が科学用語を濫用することを批判した事件です。
科学は仮説を提示して、検証するという手続きを踏みますが、哲学では必要条件ではありません。
科学は統計による実証を重視しますが、哲学は違います。
哲学は思考実験であり、概念の発明や整理だったりします。
科学者にも哲学は必要ですが、哲学は科学ではありません。
ただ哲学と科学の境界線が曖昧で、哲学者が科学者になったり、科学者が哲学者になったりするので、その時に科学の必要条件が無視されてしまう場合が多いのです。
★
科学と技術は目的が違います。
技術は、自然現象の謎を解き明かすことは目的ではありません。
技術と科学は、両方とも文明の発展に必要不可欠で、科学と技術は相互に大きな影響を与えながら発展しましたが、別物です。
★
>思想サイドの人たちは、科学は権力であり、抑圧の代名詞である、との認識をもっていることを初めて知った。
これはフランスのミッシェル・フーコーの研究が代表的ですが、科学が権力であり抑圧であっても、科学的な真偽とは無縁です。
★
科学には善悪はありません。
戦争と科学は深い関係にありますが、善悪の判断は科学の内部からでは無理です。
でも人は、科学者である前に人間です。
だから科学者は、「科学の外」の価値判断が必要になるのです。
大事なのは、善悪の判断は「科学の外」の判断だということを認識することなのです。
>科学と技術は相互に大きな影響を与えながら発展しましたが、別物です。
同意できません。経済の「投資」と「利益」のように科学と技術は一体不可分のものです。PKO部隊の機関銃携行論」の再現のような下記の定義の切り分けに何の意味があるのがご説明願いたい。
http://www.asahi.com/science/update/1214/TKY201012140441.html
貴方の論旨では理工学部の存在すら「理学部」と「工学部」に分けて別の講義を行うべきだと主張しているように聞こえます。定義の切り分けをしているような余裕があるのなら、その労力は社会への信頼回復に注がれるべきです。
>経済の「投資」と「利益」のように科学と技術は一体不可分のものです。
「投資」と「利益」は一体不可分であっても、別概念です。
違う概念として使うことに意味があるのです。
簿記でも貸方と借り方は一体不可分ですが、分けることに意味があります。
>「投資」と「利益」は一体不可分であっても、別概念です。
>違う概念として使うことに意味があるのです。
それでは投資利益率の計算はできないことになります。企業の収益力や事業における投下資本の運用効率を示せなくて誰から資金提供を受けるのでしょうか?
>簿記でも貸方と借り方は一体不可分ですが、分けることに意味があります。
それこそ「会計上のルール」によるものです。バランスシートは企業の「資産」と「負債」「資本」を対照表示することによって、企業の財政状態を明らかにする報告書であって、「概念」ではありません。
よって分けることに意味はありません。
私は小学生を相手に禅問答している気持ちです。
HMSさんの負けず嫌いな性格はわかりましたが、屁理屈だとしか思えません。
例えば、HMSさんの論法は、「手足」という言葉があるから、「手と足」は一体と言っているのと同じです。
手と足は確かに一体で分離不可ですが別です。
五臓六腑とか五体満足という言葉があり、一体で分離不可あっても、概念上で分けて考えることができます。
★
「投資利益率」の場合は、投資した内の利益の割合です。
これは集合論で言えば、メンバーとクラスの違いです。
例えば、蜜柑と林檎は果物というクラスのメンバーですが、
蜜柑と林檎は果物そのものではありません。
蜜柑と林檎と果物という概念を分けて、その中で蜜柑と林檎はいくつあるか?と考えるのが集合論という考えです。
★
バランスシートは報告書であると同時に概念です。
これは「人間」が物質であると同時に概念であるのと同じです。
「科学」や「技術」も実際の活動であるのと同時に概念です。
★
理工学部にしても、目的によって分かれます。
技術を科学的に研究することを目的にするのか、科学の成果を技術として習得することを目的にするかで、別の学科になります。
もっと一般的な例で言えば、医学です。
新薬があるとします。
科学的な根拠は不明だけど、よく効く薬が開発されたとします。
「根拠は不明でも、よく効くことが大事」というのが技術です。
科学は「よく効く根拠を確かめよう」という態度が大事というか必要不可欠なのです。
コメントをありがとうございます。
おおくぼさんとHMSさんとの間の今後の議論は、HMSさんのブログで行われるのが相応しいと存じます。その際、本記事にTBしていただければ、読者の皆様にも有益と思います。宜しくお願いします。
おおくぼ様
拙記事では深く言及しなかったソーカル事件のご説明をありがとうございました。ただし、おおくぼさんのご説明は、一面的と思います。ブラウンの認識は以下のようです(25頁)。
つまり、ソーカルと、彼の標的となったポストモダン主義者たちとの争点は、「量子力学をどう考えるべきか?」ではなく、「社会をより良いものとするには、どうすればいいのか?」という問いなのだ。
結局、「ソーカル事件を超えて」と本の副題にしめしてあるように、ソーカル事件の意味を深く考えるところに本誌の立脚点があると思います。
>技術と科学は、両方とも文明の発展に必要不可欠で、科学と技術は相互に大きな影響を与えながら発展しましたが、別物です。
科学と技術とは独自に発展してきた経緯があり、別な概念であることには同意しますが、近年では不可分であるというのが私の考えです。ただし、本記事中で述べたように、「科学とは何か」というように認識論的に論じる場合には、「科学」に「技術」を含めると、論理展開が複雑になってしまうということはあると思います。
拙ブログ関連記事:
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/6853781.html
>大事なのは、善悪の判断は「科学の外」の判断だということを認識することなのです。
ブラウンの主張は、「科学的知識は、価値を背負いながらも客観的でありうる」ということです。すなわち、「科学に、(善悪の判断)=(研究者の価値観)が紛れ込んでいる」のは避けられないが「科学は、(適切な手法により)客観的でありうる」ということだと思います。
ご指摘どおりにしましたのでご意見があればどうぞ。
http://ukmto.at.webry.info/201101/article_4.html
ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。
>ただし、おおくぼさんのご説明は、一面的と思います。
同意します。
>科学と技術とは独自に発展してきた経緯があり、別な概念であることには同意しますが、近年では不可分であるというのが私の考えです。
「科学と技術の関係」を考えることは重要だと思いますし、賛成です。
また科学者にとって先端技術の習得は重要なことです。
「科学と教育」、「科学と研究費」、「科学と国家」、「科学と日本人」、「科学と環境問題」、「科学と軍事兵器」など分離不可能な関係はたくさんありますが、「AとB」という風に分けた上で関係を考察すべきだと思います。
早々に、おおくぼさんへの反論を貴ブログで提示していただき、ありがとうございました。
おおくぼ様
>ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。
迷惑とは思っておりません。拙ブログのコメント欄ではなくて、HMSさんの独立した記事での議論が相応しいと思い、先の提案をしました。拙ブログ記事が発端となって意見交換がなされることは、ブログ管理人にとって望外な喜びです。今後とも、ご遠慮なくコメントをお願い申し上げます。
「ソーカル事件」および「科学と技術」についてのおおくぼさんのコメントに対する私の回答にご賛同いただきありがとうございました。
以下の拙ブログ記事では、重要な「科学についての知識」の一つとして、おおくぼさんのお考えと同じような「科学が価値を決めることはない」ことを挙げていましたが、ブラウンの主張・提案を読んで、加筆の必要性を感じています。
2008年05月06日付け拙ブログ記事
科学について知っていてほしい5つの事
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/7129050.html
しばらく前にこのブログを見つけ、それ以来暇を見つけては記事を読むようにしております。
先日コリオリ力に関してコメントいたしましたが、今回はこの記事にコメントさせていただきます。
注目しましたのは科学と技術の間の関係です。私は基本的にはおおくぼ様のご意見に賛成です。科学と技術の間の関係についての私の見解は私のブログの記事をご参照ください: http://blog.livedoor.jp/kamokaneyoshi/archives/cat_50068881.html?p=3
コメントをありがとうございました。
貴ブログ記事「科学と技術は2卵生シャム双生児」を拝見しました。
「科学と技術は、理念上は区別できるが、個々の研究者の研究についてはこの二つを截然と分けることはできない」というお考えに同意します。