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2008年05月06日 科学について知っていてほしい5つの事
1.八代嘉美:科学者が発言するということ
八代さんは、この記事の末尾近くで、
世界は分けても分からない、のではなく、世界を分けたからこそ知識への扉は開かれたのだ。そのようにして積み上げた知識があったからこそ、生命現象の骨格がおぼろげながらでもみえたのである。迂遠ではあるが、こうした科学の基本的な原則や思考方法を社会に向けて理解してもらうことからはじめていかなければ、科学の健全な発展は見込めない。それは科学者自らの首をしめることでもある。と述べている。管理人は、この中の「迂遠ではあるが」以下の文の記述に強く同意する。また、「世界を分けたからこそ知識への扉は開かれたのだ」という歴史的認識を共有する。しかし、現在では、少なくとも海洋学の分野では、「世界を分ける」ことの限界が認識され、学際的研究、境界領域研究が注目され、如何にに総合的に理解しようとするかが課題となっていると思う。
八代さんの記事で、違和感を感じるのは、
この文章を読んでも、「動的平衡」とは、「流れが作り出す効果」であり「動的な何か」であるということしか書いていない。非常に曖昧模糊としており、その「効果」や「何か」とは一体何なのかの定義は一切ない。詩的にみえるかもしれないが、詩的な体裁をとっただけの、空疎な文章に思えてならない。あるいは、
「脳神話」にしろ「動的平衡」にしろ(クオリア、という言葉もあったが)、非常に定義や根拠が不明瞭な、どうとでも解釈できる存在である、ということははっきりと示しておかなければならない。福岡氏のいうように、さまざまな生物現象が「動的平衡」で説明できるとすれば、それはその言葉が何も説明していない空洞であるからだ。という批判の展開にある。「空疎な文章」とか「空洞」という全的な否定的言語を用いての批判からは、新たな理解の深化は生まれないと管理人は考える。もちろん、本記事は学術論文ではないのだから、また、批判の対象が『生物と無生物のあいだ』という一般向け書籍であるのだから、その必要はないという考えもあるとは思う。しかし、本記事は、科学者として発言されていることを考慮すると、「動的平衡」の語句の用法についての指摘以外は、「批判を通して、議論の対象についての共通理解の深化を目指す」という「科学的な営み」ではないように感じる。
八代さんは、「『生物と無生物のあいだ』への違和感」と題する節の末尾で、
ある遺伝子の欠損がカバーされたとすれば、その遺伝子をカバーするために何らかの分子が動員されていることは間違いない。それを一つひとつ解明していくことも、分子生物学の大切な仕事であり、彼の「動的平衡」論はそれを放棄したことを正当化する言葉でしかないと感じたからだ。とも、述べている。「何らかの分子が動員されていることは間違いない」というのは、八代さんの考えである。この考えがが唯一の正しい解釈であるとは限らないということを想定せず、自説を絶対化している所に、管理人は強く違和感を感じた。
2.福岡伸一:研究は個人的な営み
毎日新聞東京版朝刊のコラム「時代を駆ける」に掲載された福岡さんへのインタビュー(聞き手・奥野敦史)では、福岡さんの幼少の頃からの、その時々の思いが披歴されている。管理人の経験と照らし合わせても、納得することが多い。全9回の掲載記事の副題は以下の通りである。
10月13日 1 科学の出口は「言葉」
10月14日 2 世界の存在を虫に学ぶ
10月15日 3 研究者という職業発見
10月16日 4 ドリトル先生にあこがれ
10月19日 5 「皆と一緒」は大嫌い
10月20日 6 分子生物学の道へ
10月21日 7 「生物」学者になろう
10月22日 8 異端者でもいい
10月23日 9 研究は個人的な営み
第1回で、福岡さんは
科学の出口は常に言葉だと思っています。数値とか顕微鏡の写真とかいろいろなデータがありますが、それが生命の営みの中で何を表現しているから、意味があるのか。それを普通の言葉で表現できなければ、出口に達したと言えません。と述べている。管理人は、科学の出口としての「普通の言葉」とは「共通理解」であるという意味で、この発言に基本的には同意する。ただし、福岡さんの
私は何か難しいことを分かりやすく伝えるために本を書いているんじゃないんです。じゃなぜかというと、私がこれまで取り組んできた研究は一体何なのか、私に何を教えてくれたのか、を普通の言葉でまとめるため、自分自身を整理し直すためなんですね。という発言を読むと、ちょっと管理人の考えとは異なるという印象を受ける。
第5回の末尾では
科学的成果を評価する時も、自分の生き方を決める時も、私は「美しいもの」を選びたいと思います。
と述べている。自分の生き方については「美しいもの」を選びたいと考えるのは個人の自由である。しかし、科学的成果を評価する時も「美しいもの」を選びたいと思うことは、管理人には同意しがたい。福岡さんのいう「美しいもの」とは単なる美醜ではなく、相対的な価値観であろうと察せられる。しかし、科学的成果を評価するのは、相対的な価値観ではなくて、実証実験データである。
第8回の末尾では
分子生物学を含め、近代科学の基本は対象を部品に分け、因果関係を調べることです。でもその思考に陥ると動的平衡は見えにくい。より長い時間軸で考えないと、動的平衡が何をもたらし、失われると何が起こるかは見えません。それは多くの人間が苦手とする手法なんです。だから動的平衡は現代科学の主流の思想にはならないと思います。でも私は少数派、異端者でいいんですよ。信じるところを語り、何人かが「面白いね」と言ってくれれば、それで。と述べている。このような発言こそが八代さんの批判の大きな源であろう。福岡さんが「対象を部品に分け、因果関係を調べる」という近代科学のこれまでの進め方の限界を見ているところについて、管理人は大いに同意する。しかし、「私は少数派、異端者でいいんですよ。信じるところを語り、何人かが「面白いね」と言ってくれれば、それで。」という発言には、同意できない。「科学の営み」とは、「信じるところを語る」のではなくて、根拠に基いた議論・論争を通して、対象についての共通の理解を深めるための、時間を超えた共同作業である。
最終回の中段では
研究って極めて個人的で、ある意味好き勝手な営みです。
と述べている。確かに、自律的な科学研究には、「好き勝手な営み」という側面が強い。しかし、現代社会においては、社会との結び付きを重視することが科学者には求められていることを認識すべきである。「個人的営みを昇華させた先達として、08年のノーベル化学賞受賞者、下村脩さんを敬う」の節で、
論文は誰にも読まれず、図書館の奥底に沈んでいても、その堆積(たいせき)の厚さが文化の厚み、基礎研究の重みなんです。この厚みがないと役に立つものは出てこない。と基礎研究の重要性に言及している。しかし、この記述は説得性に欠けると思う。個々の「科学の営み」の結果は、誰にも読まれず、図書館の奥底に沈むような論文であってはならない。種々の努力の結果は、成功・失敗を問わず、広く共有されなければならない。人類の共有財産である科学的知見が発展するためにこそ、多くの人が理解できる「普通の言葉」で結果は表現される必要がある。
3.科学と社会
現在社会は科学技術と密接に関連している。このため、「科学の営み」において、社会とのかかわりを意識せざるを得ない状況である。
海洋学会の和文誌「海の研究」第19巻5号(2010年9月発行)掲載の「海洋学と社会ー沿岸海域における水質基準の決め方ー」と題する寄稿の中で、柳哲雄さんは、
松田裕之・西川伸吾(日本ベントス学会誌、62巻、93-97、2007)は協議会に参加する科学者に対して,助言者に徹し,裁判官・検事・弁護士などの立場を同時に兼ねるような振る舞いを行わないこと,基本的には利害関係に中立な立場を堅持し,科学的情報の提供に徹することを提案していることを紹介している。また、最後に、
変質しつつある海洋学をより社会に貢献するものとし,有益なものにするためには,本文で述べたような新たな海洋学のあり方(社会の要請と直結した研究テーマ,素人と共に行う環境モニタリング継続活動,水質パラメータが利害関係者に与える意味の考察,など),海洋学者の行動規範(水質決定協議会での発言スタンスなど)を考えることも意味のないことではないだろう。と述べている。
他方、Twitterを通して、 齊藤誠さんがご自分のHPに10月29日付けで「国際社会における政治と科学(その1)」と題する論評を公表されているのを知った。その冒頭で、
どのような分野の政策論争であれ、政治と科学が微妙なところで共鳴する、あるいは、微妙なところで交錯するのには、2通りのパターンがあるのでないだろうか。
第1に、政治的な主張の根拠として用いられている科学的な知見が、政策的な主張と正確には対応していないパターンである。第2に、科学的に信憑性のない知見が、政治的な主張の根拠として意図的に用いられているパターンである。
と述べ、これらの2通りのパターンへの科学者の対応について、IPCC報告を例として議論した後、
「科学的な根拠は弱いが、政治的な主張を受け入れる」という決定プロセスを無条件で推奨しているわけでは決してない。そうしたプロセスを正当化するには、科学者の側と社会の側が緊張したコミュニケーションを経る必要のあることを、そして、そのコミュニケーションでは、ジャーナリズムの役割がきわめて大きいことを、本小論の最後に述べてみたい。と述べている。
10月31日付けの「国際社会における政治と科学(その2)」では、国際的な銀行規制の科学的根拠について論じた後、最後に、
科学が本来的に持っているイデオロジカルな主張に対する拮抗力や抑止力は、科学者が非科学的な知見を科学的な知見のようにみせかけ、ジャーナリストが科学的に根拠付けられていない政治的な主張を科学的な根拠があるように報じたときに、たちまち失われてしまう。と述べている。非常に重い言葉である。
それゆえにこそ、政治の期待、時には、人々の期待を踏みにじることになるようにみえても、科学者やジャーナリストは、科学の領域をあくまで尊重していかなければならないのでないだろうか。そうであればこそ、政治家も、所信を貫き通すのに相当な覚悟が必要になってくるのであろう。科学者やジャーナリストが政治的な主張(それは、左翼的な政治主張であっても同じことである)におもねるとき、政治が暴走し、社会が混乱に陥ってしまうのである。
管理人の従来の考えは、柳さんが示した松田裕之・西川伸吾(2007)の考えとほぼ同じであった。しかし、分野が異なるとはいえ、斎藤さんの上の評論を読むと、専門家には、更に踏み込んだ行動が求められているように感じている。
4.おわりに
結局、管理人も含めて、多くの科学研究者は、科学研究を生業としてきたにもかかわらず、「科学の営み」についてきちんとした知識を持たずに、個々の限られた経験や思索に基いて行動しているように思う。
福岡さんは、連載の最終回の末尾で、
分子生物学者としての私は大発見はできなかったけどいくつかの小発見をし、論文も100本ほど書きました。これからすべきことは何かと考えた時、本を書き、自分の研究の意味を社会に問うことも、研究者として必要だと気付いたわけです。と述べている。「本を書き、自分の研究の意味を社会に問うことも、研究者として必要だと気付いた」のが、福岡さんの、どのような根本的な考えに由来しているのだろうか? おそらく、ここが「科学の営み」について、我々が深く考えていく入口になるのではないかと思う。
あと何冊書けるかなと考えています。動的平衡の仕組みにもまだ謎が多い。体中の分子が絶え間なく入れ替わっているのに、なぜ私は私なのか? それを解像度の高い科学の言葉で語りたい。簡単なことじゃありませんね。人生をかけて取り組まないと。
必ずしも、科学者全員が同じ認識である必要はないと思うが、現時点で、科学者が「科学の営み」に関して共有すべき認識・理解についての私案を以下にまとめてみた。
科学者は以下のことを念頭に科学を営むこと
1)科学的議論の目的は、対象の共通理解を深めることにある。
2)科学的議論に際しては、自分の主張・研究成果に固執せず、相対化して考える。
3)研究論文は、対象の共通理解を深める材料を同時代および未来の人類に提供することにある。
4)非専門分野に関わる分野について社会に発信する際には、専門家ではなくて一市民の立場であることを明示する。
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