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2008年02月03日 表層海流調査の歴史
1.海面漂流ブイの追跡による表層海洋循環の測定
海洋学における流速は、水粒子の位置座標(海洋では、緯度、経度、深度)の単位時間当たりの変化量(距離)で定義される。このように定義される流速の測定には2つの方法がある。一つはラグランジェの方法と呼ばれる、水とともに移動する粒子の位置を時々刻々と測定し、その時間変化率として求める方法である。この方法で得られる流速をラグランジェ流速と呼ぶことがある。第2の方法は、オイラーの方法と呼ばれる、固定点で、次々と通過する水量をプロペラやローターの回転数で測定したり、超音波ドップラー効果を用いて水中の微小粒子の移動速度そのものを測定したり、端子間の双方向の音速差から流速を測定する方法である。この方法で得られる流速をオイラー流速と呼ぶことがある。このように流速測定方法にラグランジェとオイラーという名称が付されているのは、各々の定義の下での流速について研究を進めた高名な二人の数学者(ジョゼフ=ルイ・ラグランジュとレオンハルト・オイラー)の名前に由来する。流速が空間的に同じ場合(このような状況を一様という)には、ラグランジェ流速とオイラー流速は互いに等しい。移動する水粒子とともに現象を考えるラグランジェの方法は、海水の移動や拡散と本質的に結びついた有用な手法であるが、固定点で現象を考えるオイラーの方法に比べて詳細な取り扱いが非常に複雑になるため、現在では、多くの場合に、オイラーの方法が用いられている。
Niilerさんが展開したのは、1日数回の人工衛星飛来時に得られる海面漂流ブイの位置の変化から海面の流速を測定するシステムであり、この方法で得られる流速はラグランジェ流速である。海面漂流ブイは電波を発信しながら海上を漂流する。海面を漂流するブイ上に飛来した人工衛星が受信する電波の周波数は、ドップラー効果のために、ブイに近づいた時と、ブイから遠ざかる時とで異なる。この周波数の違いと、受信時刻および人工衛星の位置から、漂流しているブイの位置が1日数回求められる。この位置決定システムはARGOSと呼ばれ、このシステムを用いる海面漂流ブイはARGOSブイと呼ばれる。当初は海面漂流ブイ追跡に用いられたが、その後、発信機の小型軽量化により種々の野生動物の追跡にも使われるようになった。現在では、このARGOSに替わって、より高精度なGPSを使うシステムも開発されている。
Niilerさんは、ブイの移動が風の影響を受けないように海面上で風を受ける面積を水中の抵抗体の面積に比べて十分に少なくし、また、海面直下の流れとともに忠実に移動するように「穴あき靴下」型の水中抵抗物(吹き流し)を開発した。その開発に際しては、流速計をブイの下に取り付けた観測も行っている(ブイが海水とともに移動している場合には、ブイの対水速度はゼロとなるので、ブイの下に取り付けた流速計で測定した流速は限りなく小さくなる)。Niilerさんの尽力で、安価となった海面漂流ブイを世界各国が放流し、その結果、海洋表層循環の実像が把握された。管理人も東中国海で韓国の研究仲間とともに鹿児島大学水産学部の練習船から海面漂流ブイを放流した経験がある。
海水の動きを示す個々のブイの軌跡は示唆に富んでいる。中規模渦に囚われて、ほぼ同じ所に留まっているかと思うと、ある日、突然、移動を始める。人工衛星海面高度計データにより、海面高度分布に対応した表層の地衡流(コリオリ力と海面高度勾配に伴う圧力傾度力が釣り合った流れ)分布が捉えられるようにはなったが、現実の流れには風の影響を受けた非地衡流成分が含まれている。この非地衡流成分が生物生態や水塊混合に大きな役割を果たしている可能性が考えられている。また、海面漂流ブイに気圧、水温、塩分、波浪、その他のセンサーを搭載することで、人工衛星リモートセンシングデータの検証に必要な海面境界観測データの収集が可能である。この意味で、表層漂流ブイ観測の重要性は失われていない(2009年1月に開催されたワークショップ「2025年の海洋学」でのNiilerさんの発言Ageostrophic Circulation in the Ocean参照)。
2.Niilerさんの想い出
管理人がNiilerさんと親しくお話しできたのは、1989年9月半ばの1日のみであった。前年12月からのウッズホール海洋研究所での在外研究を終え、帰途にスクリプス海洋研究所に2週間滞在した、その初日であった。スクリプス海洋研究所に滞在中の手配を、1987年6月のシアトルでのWOCEに関する日米合同研究集会で知り合ったLynne Tallyさんにずうずうしくお願いしたところ、管理人が研究所に到着する翌日から長期出張で不在となるNiilerさんの部屋を管理人が使うこと、管理人の到着する日にはTalleyさんが不在なので、Niilerさんが滞在中のホテルなどの手配を支援するとの連絡を受取った。かなり気難しい人と言うウワサもあったが、先輩のISさんが1年間、ポスドク?として、その下で勤めていたこともあり、これ幸いと、彼の研究室を訪れた。予想に反して、非常に気さくに、管理人のウッズホールでの研究成果や管理人が立案中であった黒潮流量観測計画などについて助言を頂いた。Tallyさんとは、昨年9月のOceanObs09を含め、その後、何度もお会いする機会があったが、Niilerさんとは、1989年の9月のみとなってしまった。
管理人が使わせて頂いた故人の部屋は整理整頓されて、居心地が良かった。特に数値モデル研究をしている若い研究者は反発を感じると思うが、壁にはウワサの「modeler is a modeler, not a scientist!」と書かれた自筆の額がかかっていた。まあ、こんなことを20年前に言っていたから、一部の研究者からは煙たがられていたのだろう。Niilerさんを紹介するNASAのウェブサイトの記事を読むと、不十分な能力の電子計算機を用いた数値モデル開発研究が盛んであった当時、故人は基本に帰って高い精度で観測することの重要性を主張していたことがが分かる。その後、この額がどうなったのかは知らない。上述のワークショップ「2025年の海洋学」での発言を読むと、その立場は変わっていなかったようではあるが・・・
3.おわりに
先週は、16日にはNiilerさんの逝去の他、15日には、風浪の発生・発達機構の研究で優れた業績を挙げ、また海洋上層の海洋物理についての優れた教科書「The Dynamics of the Upper Ocean (Cambridge Monographs on Mechanics)」の著者であるO. M. Phillipさんが亡くなられたことが伝えられた。この教科書のコピー(白黒の乾式コピーではなくて、青色の湿式コピー)を修士時代に繰り返し読んだことを思い出しながら、時の移ろいを痛感した先週末であった。
お二人のご冥福をお祈りします。