2010年08月31日

理系と文系の収入の比較の意味

8月24日に京都大学から「理系学部出身者と文系学部出身者の平均年収の比較調査の結果について」と題するプレスリリースが発表された。毎日新聞の見出し「年収:あれ?理系が100万円多い」で表わされているように、従来の「文系の方が高収入」という「認識」と逆の結果だったことから、全国各紙(京大のプレスリリース掲載情報では、朝日新聞(8月25日 30面)、京都新聞(8月25日 26面)、産経新聞(8月25日 22面)、日刊工業新聞(8月25日 3面)、日本経済新聞(8月25日 33面)、毎日新聞(8月25日 24面)および読売新聞(8月25日 29面))で報道された。ネット界でも話題を呼び、多くのTweetが流れた。理系・文系に分けて収入を比較することの是非を含めて、新聞各紙の報道内容に腑に落ちない点があったので元ネタを調べたが、その目的、調査方法や結果について、疑問が募った。それで、ネット検索でいろいろ調べてみた。以下はその結果。

1.プレスリリース
京都大学のプレスリリースの本文の最初に、
問題意識
「文系学部出身者は、理系学部出身者よりも高所得である」という通説がある。
そのため、理系学部離れが拡大している。これは本当か?
と述べている。この文章の「これは本当か?」の「これ」とは、何を示しているのだろうか?「文系学部出身者は、理系学部出身者よりも高所得である」という通説なのだろうか? それとも、「文系学部出身者は、理系学部出身者よりも高所得である」という通説が蔓延しているために、理系学部離れが拡大していることなのだろうか? 読んでいて、混乱した。

さらに読み進めると、「今回の調査目的」の記述から「通説の検証」にあることは分かったが、通説の説明も調査方法の記載もない。出身学部別平均年収、各標本数と標準偏差の表と出身学部別所得プロファイル(男女計、年齢別)の表を示し、「得られた知見のうち、特に以下の2点は非常に示唆的であった」として
第1に、難易度Aの大学出身者ほど、高い人的資本が求められる仕事に就いており、数学学習が効果的に機能していることが示された。

 第2に、理系学部出身者のほうが文系学部出身者よりも高所得であるという結果が得られた。この結果は、「理系離れ」が進む現在において重要なメッセージを投げかけると考えられる。
と述べている。しかし、これらの示唆的な知見?の根拠となる資料などはプレスリリースでは全く示されていない。プレスリリースの体をなしていないと断言せざるを得ない。なお、プレスリリースでは、示してある数表を「図」と呼んでいる。

おそらくプレスリリースの際に配布された資料または質疑応答および独自の追加取材を基にした新聞各紙の記事では、通説および調査方法について以下のように報じている。
毎日新聞
・民間リサーチ会社にインターネット調査を依頼し、1632人のデータを分析。
・過去の「文系の生涯所得が約5000万円多い」という調査結果や企業の取締役の専攻などから、一般に「文系が高収入」とされていた。

日本経済新聞
・調査はインターネットで2008年6月に実施し、大卒者2152人から回答を得た。男性が71%で平均年齢は43歳。このうち働いていた1632人を分析した。出身大学数は国公私立含め100以上になる。
・今回の調査とは別に、大阪大学の松繁寿和教授は、特定の国立大の文系・理系学部出身者を比べ、生涯収入は文系が約5千万円多いとの調査結果を報告している。

朝日新聞
・調査会社のサイトに登録している人を対象に、インターネットで回答を集めた。20~60代の1632人(平均年齢43歳)を分析
・出身学部をベネッセコーポレーションによる大学難易度別にA(偏差値60以上)、B(50~59)、C(50未満)に分けた。

読売新聞
・2008年6月、民間調査会社のモニターのうち大卒者から回答を得る方法で実施。100を超える国公私立大を卒業した20歳代~60歳代の1632人(文系988人、理系644人)の回答
・西村特任教授らによると、十数年前に1大学の卒業生を調査し、「生涯所得は文系卒が約5000万円高い」との研究結果が出されていたという。

京都新聞
・調査結果に基づくシミュレーションによると、25歳から60歳までの全年齢で理系出身者の収入が文系出身者を上回り、25歳で60万円だった年収の差は、60歳では約170万円にまで拡大した。

最後の京都新聞の記事によると、プレスリリースに示された「出身学部別所得プロファイル(男女計、年齢別)の表」は、「調査結果」ではなくて、「調査結果に基づくシミュレーション」結果とのことである。

京都大学ではプレスリリースの内容のチェックをどのようにしているのだろうか? お粗末としか、言いようがない。

2.今回の調査で通説は覆ったのか
日本経済新聞の記事では、通説の説明(再掲)で以下のように述べている。
今回の調査とは別に、大阪大学の松繁寿和教授は、特定の国立大の文系・理系学部出身者を比べ、生涯収入は文系が約5千万円多いとの調査結果を報告している。西村教授は「大学を特定せず全体で見れば理系の年収が多い」と指摘。両教授とも「2つの結果は矛盾しない」と話している。
先行した松繁寿和教授が、ことの正否は別としても、「自分の結果は、西村教授の新たな結果と矛盾するものではない」というのは、自説を変更しないという意思表示として認められるが、「理系学部出身者のほうが文系学部出身者よりも高所得であるという結果が得られた」と明言している後発の西村教授が「2つの結果は矛盾しない」と話すのは信じがたい。一方が「特定の国立大の文系・理系学部出身者を比べ」た結果であって、他方が「100を超える国公私立大」出身者で比べた結果だから、双方で結果が異なっても矛盾ではない、というのであるのならば、プレスリリースでの表現をこのように限定したものにすべきである。

松繁寿和教授の調査結果をネットで調べると、日経ビジネスレポート:「文系理系の生涯賃金格差は5000万円」~さらば工学部(6)大阪大学大学院国際公共政策研究科・松繁寿和教授に聞くと題する記事中の以下の記述にぶつかった。
理系学科の卒業生と、文系学科の卒業生との間の生涯賃金の格差はおよそ5000万円――。これは私が1998年に行った調査のデータに基づいて、毎日新聞の記者の方が試算したものでした。ある国立大学の卒業生を対象として、名簿に基づくアンケートを行ったのです。回答者は理系約2200人、文系約1200人となり、かなり大規模な調査でした。
松繁寿和教授は「賃金格差を試算するための原データをまとめた」だけのようである。なお、「毎日新聞の記者の方が試算した」結果は『理系白書』p14-16に掲載されている(引用先はここ)。毎日新聞が、通説が自社発行の「理系白書」の内容であるのに、通説の内容に全く言及していないのは、何か理由があったのだろうか?

ブログ「Tarumi's Blog 2」の8月24日付け記事「理系と文系の収入」で紹介されているが、いわゆる「文系と理系の収入格差」についての調査は、今回の京都大学グループ以外でも、いくつか行われている。

「All About マネー」の2007年06月25日付けの記事「理系vs文系 本当に得なのはどっち?」では、
2006年8月に人事院が発表した「民間給与実態調査の概要」から事務職と技術職の各々、および製造業と非製造業の各々について役職別の平均年齢と年収を比較している。それによると、
・スタート時は理系が多い。収入も昇進年齢も、課長職では文系が逆転。
・全体的に非製造業のほうが給与が多い。
となっている。

「リクナビNEXT Tech総研」の2004年10月6日付け記事「理系出身vs文系出身 ホントの給与格差」では、
エンジニア1126人の現在年収を出身学部の理系・文系別で比較し、徹底分析した結果を紹介している。調査対象は、年齢が25~44歳の大卒・院卒者1126人(うち7割が理系学部、3割が文系学部の出身者)である。職種は、ソフト・通信、機械・電気・電子、素材系などの技術職に就いている人を文系・理系出身に区別して比較している。それによると、
・同じ技術職種だと、理系出身が文系出身を上回る
・ソフト・ネットワークでは高年収層に理系出身が多く分布
・文理の年収格差も職種でばらつきが見られる。ほとんどの職種で理系出身者が優位を占めている。ただ、中には「コンサルタント、アナリスト、プリセールス」「システム開発(Web・オープン系)」「技術系(ソフトウェア、ネットワーク)」など、その差が僅差かまたは逆転している職種もある。
となっている。

ブログ「Tarumi's Blog 2」の8月24日付け記事「理系と文系の収入」では、
香川大学工学部広報が、国税庁が毎年公表している、業種別の給与所得者数・給与額の調査結果を用いて、以下のように述べている。
例えば平成20年度の平均給与の高い業種は上から順に「電気・ガス・熱供給・水道業」「金融・保険業」「情報通信業」「学術研究、専門・技術サービス、教育、学習支援業」「製造業」「建設業」「運輸業、郵便業」。ここまでが平均以上で、これ以外の業種は平均以下。見てわかるように工学部の主力就職先である電気・ガス・熱供給・水道業、情報通信業、製造業、建設業は平均以上です。逆に平均以下の業種には工学部の主力就職先はありません。これら平均以下の業種は文系の雇用がほとんどのはずです。この調査は理系と文系の出身者に分けた調査ではありませんが、給与水準の高い業種に理系出身者が進んでいるということは言えるのではないでしょうか。
上の結果を調査対象の区分の仕方で分類すると以下のようになる。

西村教授
  インターネットによる国公私立の100以上の出身大学の1632人について、
  理系学部出身者と文系学部出身者別に分析。
  収入:理系学部出身者>文系学部出身

理系白書(松繁教授)
  国立大学1校の卒業生(理系1学部約2200人、文系1学部約1200人)
  理系学部出身者と文系学部出身者別に分析。
  収入:文系学部出身者>理系学部出身

All About マネー
  人事院「2006年8月発表の民間給与実態調査の概要」
  事務職と技術職別、製造業と非製造業別に分析
  収入:事務職>技術職、非製造業>製造業

リクナビNEXT Tech総研
  年齢が25~44歳の大卒・院卒者1126人(技術職)
  出身学部の理系・文系別
  収入:理系学部出身>文系学部出身
    (ソフト・ネットワーク系は職種によって僅差・逆転)

香川大学工学部広報
  国税庁「平成20年度平均給与額」
  業種別
  給与水準の高い業種に理系出身者が進んでいる


これらの中で、「リクナビNEXT Tech総研」の結果は、44歳未満の技術職に限られているが信頼に足る結果であると考えられる。「All About マネー」の結果も、文系・理系という分類ではなく、職種あるいは業種による分類の結果としては信頼できよう。「理系白書」の結果は、特定の国立大学1校の理系・文系出身学部によって賃金格差が存在するということができるが、文系の賃金が理系より高いと一般化するのは早計である印象を受ける。香川大学工学部広報の結果は、「All About マネー」の分析に比べて、ちょっと乱暴なように思う。

今回の西村教授他の結果は、国公私立の100以上の出身大学と調査対象を広げたことは評価するが、インターネットを通じた調査で、その代表制は、はなはだ疑問である。通説(理系白書の結果)を検証するのであれば、松繁教授と同じような調査を複数の大学について行い、得られた資料についてより詳細に分析することによって、理系白書の分析結果の誤りを指摘するのが普通に考えられる方法である。

こうしてみると、文系と理系に分類して、その間の賃金格差を論じることが容易ではないことが分かる。賃金格差を生む要素としては、出身学部よりは、業種、職種、性別が大きいと思われる。このような賃金格差を文系・理系の出身学部の分類のみで区分するのは、よほど詳細な分析が必要と思う。

「今回の調査で通説は覆ったのか」という疑問への答えは、西村教授も認めているように、「今回の調査で通説は覆ったとは厳密には言えない」というのが、正確な表現であろう。

3.文系と理系の賃金格差調査の意味
西村教授らは「文系学部出身者は、理系学部出身者よりも高所得である」という通説が蔓延しているために、理系学部離れが拡大しているという認識のようである。そして、「理系学部出身者は、文系学部出身者よりも高所得である」という今回の「結果」が「理系学部離れの拡大」を止める役割を果たすことを期待している。しかし、理系学部離れが拡大している原因は「文系学部出身者は、理系学部出身者よりも高所得である」という通説が蔓延していることなのだろうか? もちろん、偏差値の高い受験生が、周囲(親)の勧めにしたがって、高収入な医師になるために医学部を受験するような例は多いことは認識している。しかし、特殊なのかもしれないが、宇宙の探求に憧れて、就職先が碌にないことを覚悟の上で理学部を受験した管理人には、受験生は収入の多寡のみで志望学部を選択するという捉え方は受け入れがたい。生きていく上である程度の収入は必要だが、人は高い収入を得られれば、それだけで良いというものではないと思う。

理系学部離れを阻止する対策として、西村教授らが考えているらしい「理系学部出身者は、文系学部出身者よりも高所得であることを示すこと」が有効なのだろうか? サイエンス・ポータルに掲載された西村教授へのインタビュー記事「基礎学力低下防ぐために」の最後で、西村教授は「とにかく物理の履修率を上げる政策をとらないと、日本の将来はないと思います」と述べているが、「まず小学1、2年生の生活科を何とかしないといけません。生活科というのがある以上は、1、2年生のときに理科を学ばないのですから、理科のカリキュラムを良くしようとしても限界があります」とか「まず学力低下を止めないことには、モラルの低下は止まりません」など、管理人には理解しがたい持論が展開されている。

管理人は、理系が苦手なために不本意ながら文系を選ばざるを得ない生徒を減らし、理系学部(理科)離れを阻止するためには、現在の子供たちが理科への興味を急速に失う小学校高学年から中学校における理科・算数教育を暗記優先から、「科学的な思考方法」を生徒が身に付ける手助けをする探求型科学教育に重点を置くことと、社会の中の科学のあり方について見直すこと、が必要だと考えている。

拙ブログ関連記事:
2008年11月23日 サイエンスアゴラ2008
2009年11月28日 社会の中の科学

4.おわりに
今回の京都大学のプレスリリース自体のお粗末さも理由の一つかもしれないが、このプレスリリースに応じた各紙の記事もまた、お粗末と言わざるを得ない。

西村教授らの調査内容、分析方法、結論について、それらを紹介するだけで、それらの専門家のコメントを求めていなかったのは、致命的な誤りであろう。京都大学の権威に押されたのか、はたまた、「通説」を反証したという「いつわり」の結果の面白さに目を奪われたのかしらないが、残念である。
posted by hiroichi at 03:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この手の文系理系論議に辟易としている「理文系」です。それにしても、理系と文系の年収比較って意外に多いんですね。知らなかった(汗

と言うのか、この類の比較だと何かステレオタイプってのか、ワンパターンなのに終止しているって気がするんですよね。それこそ、口先だけで世渡りの巧い高収入の文系Vs.真面目で孤独で低収入の理系とか、高給で休みも取れる文系Vs.サービス残業で薄給の理系とか・・・・・兎に角理系を大事にしろ!って言うために文系を不当に貶めているとしか思えません。

正直なところ、いわゆる「理系離れ」を大騒ぎするのって何か富国強兵的なものを感じてしまうのですよ。そういうもののために(文系理系問わず)学問とか教育がダシにされるのは不幸なのですが。
Posted by 杉山真大 at 2010年10月26日 00:09
杉山 様

コメントをありがとうございました。

>正直なところ、いわゆる「理系離れ」を大騒ぎするのって何か富国強兵的なものを感じてしまうのですよ。

「理系離れ」対策を騒ぐ人々の中には、科学技術立国による我が国の繁栄を目指すという題目のもと、良質な被雇用者を確保することを目的としている人の多いことを私も感じています。

本文では言葉足らずでしたが、私も、人を文系・理系に分けるのは不適切であると思っています。大学受験対策のために高校で文系・理系に分かれて、文系または理系に偏った知識しか教育されない現状には、大きな問題があると考えています。

私が危惧しているのは、いわゆる文系・理系に関係なく人生に必要だと私が考えている「科学リテラシー」、特に、証拠に基づいた論理的な議論を通して共通理解を深化させること、固定観念に囚われず多様な価値観を容認すること、懐疑的な態度を涵養すること、などの「科学の営み」についての知識、あるいは科学的思考方法」の修得が、「文系の私には理系の知識・技能は不要である」という「理系離れ」によって阻害されることです。この「科学の営み」についての教育は、理数系の教育カリキュラムでも十分とは言えないのですが、多くの文系の教育カリキュラムでは、ほとんど顧みられていないのではないかと思っています。
Posted by hiroichi at 2010年10月27日 02:25
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