1.海流と潮流は違う
「海流」と「潮流」は全く異なる概念である。「海流」とは、「海水流動」のなかで、一般には、世界各地の表層を水平方向に流れている流れで、特に、いつもほぼ同じ経路を通って、ほぼ同じ向きに流れている成分のことである。なお、黒潮流域での流速は20日から100日程度の周期で変動している。他方、「潮流」は1日に2回繰り返す干潮と満潮に伴って生じている「潮汐流」を意味している。
実際の海の流れ(海水流動)は、「海流」、「潮汐流」のほかに、海面の風で引き起こされる「吹走流」、河口域などでの密度の違いによって生じる「密度流」、風波や潮汐流などの種々の要因で発生する「乱流」などの各種変動成分が含まれていて、絶えず変動を繰り返している。
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2008年02月03日 表層海流調査の歴史
2.報道に見る「海流」と「潮流」
地球深部探査船「ちきゅう」のパイプ類脱落事故発生についての海洋研究開発機構の8月2日付けの「統合国際深海掘削計画(IODP)地球深部探査船「ちきゅう」による南海トラフ地震発生帯掘削計画~ケーシングパイプ等の脱落について~」と題するプレスリリースでは、「・・・海中にパイプを吊り下げていたところ、潮流(黒潮)が強まったため北へ退避している最中にケーシングパイプ、ウェルヘッドランニングツールの一部、ドリルパイプが脱落しました。」と述べている。この「潮流(黒潮)」という表現では、上で述べた「海流」と「潮汐流」の違いについての配慮が欠けている。「潮流(黒潮)」ではなくて、「流速」あるいは「黒潮の流速」と、より厳密な表現であるべきであった。
このことが原因と思われるが、2日付けプレスリリースを基にした報道各社の記事での事故発生状況の記述が以下のように異なる結果となっている。例えば、YOMIURI ONLINE 8月2日20時46分付け「1億3000万円の落とし物、地球探査船の機器海底へ」と題する記事では、「潮流が強まったため、海中の機器が破損したとみられるが、」と黒潮に言及していないのに対し、毎日新聞3日付け朝刊の「地球深部探査船:「ちきゅう」掘削部品が脱落 紀伊半島沖で作業中」と題する記事では、「黒潮の流れが予想以上に強かったため、」としている。また、asahi.comの2日20時51分の「2千メートルの深海で鋼鉄パイプ消えた 探査船から脱落」と題する記事では、「掘削現場の海流が強まったため退避する途中だったが」と、プレスリリースで示した潮流や黒潮という語句を用いずに「海流」という語句を用いている。潮流(黒潮)という表現を用いていないことは、各担当者に「潮流(黒潮)という表現はない」という見識のあったことを示唆し、評価したい。ただし、読売新聞はカッコ内の記述を省略しただけかもしれない。また、「海流」という語句を用いた朝日新聞は、強いて黒潮という語句を用いていないことから、「海の流れ」という意味で「海流」とした可能性がある。
なお、読売新聞のウェブサイト(YOMIURI ONLINE)の記事に付随する用語解説として「潮流」が挙げられていたのでクリックすると以下の表現に出会った。
潮流とは用語解説での「海流」は以下のように説明されている。
海面昇降を起こす海水粒子の水平運動のことをいう。
(柳哲雄著「沿岸海洋学−海の中でものはどう動くか」より)
1995年10月23日(月) 全国 夕刊 15頁(チルド) 01段 52文字
海流とはあまりのお粗末さに唖然とする。早急に改訂することを強く勧告する。
海面の上を吹く風が主な原動力になって生まれる。さらに海水は、場所ごとに温度と塩分濃度がばらつき、密度も違うため、密度が大きいと沈み、小さいとわき上がる上下の流れが生じる。また、ある場所の海水が移動すると、それを補う流れも発生する。
1998年7月22日(水) 全国 朝刊 18頁(朝W1) 01段 118文字
3.事故原因の報道
海洋研究開発機構の8月12日発表のプレスリリース「統合国際深海掘削計画(IODP)地球深部探査船「ちきゅう」による南海トラフ地震発生帯掘削計画~ケーシングパイプ等の脱落事故の原因と対策及びケーシングパイプ設置作業の再開について~」では、脱落事故の原因として、前文では、
脱落原因としては、作業海域の流速が急激に上昇したため、ケーシングパイプが水中で想定を超える潮流を受け、これにより、ウェルヘッドランニングツールに著しい応力がかかったため、破断に至ったとの結論に至りました。と述べ、本文中では、
ケーシングパイプの降下作業中に黒潮が予想外かつ急激に北上したため、作業海域の流速が急激に上昇しました。そのためケーシングパイプにかかる応力が増加し、ケーシングパイプが大きく撓(たわ)んだものと推測されます。この結果、全体重量を支えているウェルヘッドランニングツールに撓みによる応力集中が発生し、破断にいたったものと判断しました。(図2)と述べている。前文では「想定を超える潮流を受け」としているのに対し、本文では「黒潮が予想外かつ急激に北上したため、作業海域の流速が急激に上昇」としている。本文の要約を前文で示すのであれば、「想定を超える潮流」ではなくて、「想定を超える流速の急激な増加」とした方が良かったと思う。また、本文中の再発防止策の説明で「黒潮本流の北端の低潮流域(1.5ノット(0.8m/秒)以下の海域)としていました」という表現を用いている。黒潮と潮流は違うので、「黒潮本流の北端の弱流域」あるいは「黒潮強流域の北側の弱流域」という表現にすべきであった。
このプレスリリースを基にした報道記事は、事故発生時の記事と同様に、各社によって異なる。YOMIURI ONLINEの2010年8月12日20時21分の「「ちきゅう」事故、潮流の読み甘く逃げ遅れ」と題する記事では、「潮流の変化に対する想定が甘く、安全な海域に逃げ遅れたことが・・・」と、上のプレスリリースでの言及にもかかわらず、黒潮という語句を一切使っていない。対策として「潮流の上流3キロ・メートルで警戒船が監視し、潮流が強まった時は「ちきゅう」を退避させるほか」と、海流と潮流の違いを全く理解していないような内容になっている。asahi.comの2010年8月13日19時41分付けの「探査船パイプ脱落「黒潮の強い流れが原因」 海洋機構」と題する記事では、、「黒潮の急激な北上に伴う強い流れが原因」とプレスリリースの内容を正確に伝えているのみならず、宮澤泰正・同機構チームリーダーの「黒潮が不安定化し、急激に流れが変わる『急潮』が起きたとみられる。この現象は、沿岸の定置網を破壊することもあるが、詳しいメカニズムは分かっておらず、発生を事前に予測するのは難しい」という談話を伝えている。ただし、宮澤さんの研究内容(黒潮の数値予測)を伝えていないため、読者にどこまで伝わったのかは疑わしい。また、「今回の海流の変化について、」として宮澤さんの談話を伝えていることは、記者は、黒潮が海流の一種であるとは認識せずに、「海の流れ」という意味で海流という語句を用いた可能性もある。毎日jpの8月12日19時50分付けの「地球深部探査船:パイプ破断は潮流の急激変化」と題する記事では、、原因を「黒潮の潮流が急激に速くなり折れた」と報じ、流速(物理量)と潮流(流れの種類)を混同した、意味不明の表現となっている。また、「パイプの降下作業は海流が秒速0.8メートル以下の海域で行うが」と、不親切に省略した表現(厳密には、「(海流の)流速が秒速0.8メートル以下」とすべきである)が用いられている。
4.海の流れは表層と下層で違う
「ちきゅう」のように船底から延ばしたパイプの各深度の部分にかかる力の大きさは、その深度における相対流速(流速から対地船速を引いた流速=パイプの対水速度)の2乗に比例し、向きは相対流速の向き(パイプの対水速度と逆向き)である。したがって、海面から下層(今の場合、海面下900m)までの流速が同じであって、船がこの流れと同じ速度で移動している場合(対地船速が流速に等しい場合)には、パイプの対水速度はゼロとなるので、どんなに流速が早くても、パイプに力はかからない(風と共に移動する気球上では風を感じないのと同じである)。
このことを踏まえると、「作業海域の流速が急激に上昇したため、パイプにかかる力が増加し、この結果、全体重量を支えていた上端に撓みによる応力集中が発生し、破断にいたった」というプレスリリースの説明は矛盾しているように見える。どう考えたら良いのだろうか?
パイプへかかる力が流速の急激な増加で生じるのは、上に述べた前提が成り立たない、次の2つの場合である。
1)船の加速が流速の増加に追いつかなくて、パイプの対水速度が増加した。巨大な「ちきゅう」がその速度を変えるのには、ある程度の時間を要する。したがって、1)の状況が発生することは大いにありうることである。しかし、現実には、常に2)の状況になっていることが重要である。このため、如何に操船しようと、パイプのいたる所に力がかかり、その結果として、船底近くのパイプの上端には何らかの力が加わるのである。
2)海面から下層(今の場合、海面下900m)までの流速が同じではない。
海洋の上層は軽い海水で占められ、下層は重い海水で占められている。このように密度成層している海中を、1日に2回繰り返す干潮と満潮に伴って生じている「潮汐流」が陸棚斜面などの急峻な海底地形上を流れることによって表面潮汐と同じ周期を持つ内部潮汐が発生する。この内部潮汐は内部重力波として海中を伝播して海洋中に広がる。内部潮汐波は、密度が急変する密度躍層(例えば、黒潮などの海洋循環に関連する、日本近海では深度が約600mの主密度躍層)の上層と下層で向きが異なる内部潮汐流を伴う。大潮(表面潮汐の振幅が大きい、満月または新月の時期)には、仮に表層の潮流が弱くても、海面下の上層と下層の流れの向きが逆向きの強い流れがある。
黒潮が洋上の風によって引き起こされている。このため、黒潮流域では、表層の流速が下層より大きい。表層で毎秒3mを超える流速が観測されることがある黒潮強流域でも、その表層混合層以深の下層では深度が増すにしたがって流速は徐々に減少し、深度800m程度で毎秒0.1mから0.3m程度となる。また、表層流速が毎秒0.5m程度の弱流域でも、深度800m程度で毎秒0.1mから0.2m程度となる。このことは、黒潮流域では、表層の流速が増すにしたがって、下層と表層の流速の差が大きくなることことを意味している。このような状況においては、表層の流速が大きいほど、仮に船速が表層流速と同じになるように操船しても、船底から延びたパイプには深度が大きいほど大きな力が加わることになる。
以上、まとめると、1)船底に固定して吊り下げたパイプの上端にかかる力は、表層と下層の流速の差が大きいほど大きくなり、また、2)黒潮流域では、表層の流れが大きいほど、表層と下層の流速の差が大きくなる傾向にある。このため、3)表層の流れが大きいほど、船底に固定して吊り下げたパイプの上端にかかる力も大きくなる、と言える。プレスリリースでは2)を省略したため、一見、矛盾しているように見えたのである。
5.おわりに
今回、「ちきゅう」のパイプ脱落事故に関わる海洋研究開発機構のプレスリリースおよびその後の報道記事に見られた「潮流」と「海流」を混同、あるいは「海の流れ」についての知識に混乱について、調べてみた。その結果明らかになったのは、海洋研究機構のプレスリリースの内容に不十分、不正確な記述に対し、各報道機関担当者は、プレスリリースの記述についての一般読者の理解を深めるための厳しい態度を持っていなかったことと、「潮流」、「海流」、「流速」の定義と用法が十分に理解していないこと、という現実であった。
ものの見事に、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞の各々の記事の語句の用法が異なっていたことについて、担当記者たちはどう考えたのであろうか? 互いの記事を比較することもしなかったのだろうか? それほどまでに、多忙なのだろうか? 各社の記事の相違を気にしなかったのだろうか? 各社のチェック体制はどうなっているのだろうか?
asahi.comの2日20時51分の「2千メートルの深海で鋼鉄パイプ消えた 探査船から脱落」と題する記事に対する「はてなブックマーク」でのコメントの中でnaya2chanさんは「プレスリリースのほうがよくわかる。報道読むよりtwitterフォローしていたほうがいい。」と大手新聞の取材・報道活動を否定するような発言をしている。
管理人は、マスコミを避難しているのではない。科学リテラシーの普及におけるマスコミの大きな影響力に期待しているからこそ、その活動に厳しいコメントを続けている。管理人が所属している日本海洋学会教育問題研究会では、そのウェブサイトに「報道機関への皆様へ」という欄を設け、早稲田大学サイエンス・メディア・センターとの連携して「メディアとの対話・交流」を進めること、を企画している。このような活動を通して、報道各社の科学報道関係者と研究者との間の協力関係が強まることを願っている。
数年前に韓国の白レイ島(ペンニョン島)を訪れた時に島の老人から、島のせいで潮汐流が二分されて複雑になるので、陸地(北朝鮮)との間の海は、航海の難所だというような話をききました。
このブログでも以前、韓国西岸は潮汐流が卓越していると書かれていたと思います。韓国西岸は潮位差は世界有数という話はよく目にしますが、どうして干満差が大きいのか、教えていただけないでしょうか。
ご質問をありがとうございました。
潮汐は専門ではありませんが、何とか、お答えしてみます。
地球が全て同じ深さの海で覆われている場合には、月(実際には太陽も関係しますが、ここでは単純化して月だけを考えます)によって起こされた潮汐(海面の上下)は、その場所と月との相対位置だけで決まります(このことを論じた理論を平衡潮汐論と呼びます)。しかし、現実の海では、複雑な陸岸地形と海底地形のために、潮汐は場所によって大きく異なります。それは、ある場所での水位の上昇(下降)に必要な海水の流入(流出)が周囲の陸岸地形と海底地形の制約を受けるためです。なお、影響するのは、時間的は変化しない陸岸地形と海底地形だけですから、潮汐と潮流は天体(月と太陽)の運動にしたがって非常に規則的に変動します。このために潮位と潮流は、観測結果(約15昼夜)から予報が可能となっています。
太平洋沿岸に比べて日本海沿岸の干満差が小さいのは、日本海の潮位の変化を起こす海水の流入・流出量が狭い海峡(対馬海峡、津軽海峡と宗谷海峡)で制限されているためという見方ができます。韓国西岸の潮汐・潮流については、太平洋から東中国海を、その海底地形の影響を受けながら黄海に到達する潮汐波と、東シナ海と黄海の陸岸から反射した潮汐波が複雑に関係して、韓国西岸が面する黄海に潮位変化が小さいが潮流の振幅が大きい所(無潮点と呼びます)を形成し、その結果、韓国西岸では、潮位差と潮流が大きくなるのだと思います(私の考え違いの可能性があります。友人に確認して、後日、またお答えします)。
日本海側生まれのせいか、潮汐差ということをほとんど意識したことがなかったのですが、近年、韓国の島にいく機会が多くなり、時間によって渡船の航路や着岸場所が異なるなど、潮汐の影響の大きさを目の当たりにし、興味を持つようになりました。
また、よろしくお願いします。
東中国海には、管理人さんのお話にあった「太平洋から入る潮汐波」と「反射して戻る潮汐波」が強め合う場所が何カ所かあります。その中には韓国西岸(仁川や江華島の辺り)や北朝鮮西岸(西朝鮮湾)、中国側では揚子江河口の北方などがあります。仁川周辺が特に大きいのは、湾(京畿湾)自体がさらに潮汐を強める形をしているためです。
白レイ島周辺の潮流が速いのは、潮汐波が強め合う場所のちょうど中間にある点が大きいです(専門的には、定在波の節の位置にあると言います)。強め合う場所は、隣同士では満潮、干潮が逆になる性質があるので、南の京畿湾が満潮の時、北の西朝鮮湾は干潮になります。両者の水位差がが大きいため、中間の白レイ島周辺は水位差を解消しようとする流れが強くなります。
(管理人さんも本文で触れられていましたが、水位の上下を表す潮汐と、海水の流れである潮流を区別して考えた方が良い場合があります。)
もう一つの理由は、あの辺りは突き出た半島なので、沖合を南北に移動する潮流に、京畿湾の奥から西朝鮮湾の奥へ回り込む潮流が合流するためです。朝鮮半島西南端の木浦沖の潮流が強いのも、潮流の回り込みが一部関係しています。
そういった潮流が強い場所に島があると、流れがねじ曲げられ、meiryoさんが地元の方から聴かれたように非常に複雑な流れになります。
日本でも瀬戸内海の島が多い所では潮流が複雑で、やはり海の難所と言われる場所が多いです。
韓国の離島は素朴で良い所が多いそうですね。私はあくまでも海図上でですが、どんなところなのか興味を抱きながら時々眺めています。
耳学問で聞きかじったことを元にした私の回答について、詳しい補足説明をありがとうございました。現場に即したご説明で、なるほどと納得しました。厚く御礼申し上げます。
今後とも、宜しくお願いします。
kumaさん、管理人さん、ありがとうございます。
私は、昔の漢文や崩し字を読み解く仕事をしており、近年はもっぱら海に関する史料を扱っています。韓国の島にいくきっかけの一つも、『高麗図経』という12世紀に外交使節として高麗に行った中国人の記録の「海道」という巻に、西岸の島々が登場するからでした。
彼らの船は舟山群島の普陀山島を、7月10日(グレゴリウス暦)の朝、出発。南風に乗って、14日夕方に韓国西南の小黒山島近海に達し、そこから西岸沖の島に沿って北上していきます。kumaさんが潮流が強いとおっしゃた木浦西北の荏子島沖を通過中、夜中に「潮落」(引潮?)で船が外洋に流されそうになり、船員が必死に櫓を漕いで位置を保ったというエピソードも登場します。
平安時代以降、中国へいく船は寧波を目指すことが多いので、史料には舟山群島がよく登場します。このサイトでも登場した『支那海水路誌』を参照することも多いのですが、ここも潮流が複雑で強い要注意水域と書かれています。
kumaさんは潮汐波を強め合う場所に揚子江河口北方も挙げられていますが、舟山群島の条件も白レイ島とほぼ同じと考えていいのでしょうか?
舟山群島の場合、どのような条件の重なりが、そのような潮流を生むのでしょうか?
meiryoさんへの私の8月18日の回答について、私の友人である小田巻実さんから、コメントを頂きましたので、以下にお知らせします(私の判断で、一部に改行を加えました)。奇しくも、20日のmeiryoさんのご質問へのお答えも含まれています。
小田巻さん、ありがとうございました。
これからも宜しくお願いします。
第1報:8月19日受信(一部に文字化けあり)
第2報:8月20日受信(文字化け訂正、追加)
>>>ここから>>>
ご回答は、大筋で間違いのないところと思います。
補足しますと、
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地球と月、ならびに地球と太陽の公転運動が起こす潮汐力は、外洋でも80cmぐらいの干満差(平衡潮汐)を起こす能力があります。太平洋に面した港の実際の干満差も1m以上になるところが多いです。この外洋で起きた潮汐の振動(波)が、外洋につながっている東シナ海や日本海に入って行って、その海の潮汐を起こします。
貴兄の言われた通り、日本海は、外洋に接続している対馬海峡や津軽海峡、宗谷海峡の間口が狭い割に、面積が広くしかも水深が 2000m以上にもなるため、引き起こされる潮汐も小さく、日本の日本海沿岸の干満差はせいぜい30cm-40cmにしかなりません。一方、東シナ海は、九州から沖縄、台湾に至る広い間口を乗り越えた太平洋の潮汐波が進入し、東シナ海から黄海、さらにその奥の渤海、遼東海湾に入って行って潮汐を引き起こします。しかるに、東シナ海の大半の水深は100mよりも浅く、黄海はさらに浅く、渤海・遼東海湾にいたっては10mぐらいに浅くなってゆきます。すなわち、東シナ海・黄海は、間口が広いわりには浅くて奥行きの長い海ということができ、そのため水深が5000m以上もある太平洋で1m程度の潮汐が、浅くて奥行きのある海に入って行くことにより増幅され、所によっては韓国西岸のインチョンのように8m以上にも発達するのが第一の理由です。
もう一つは、地球の自転周期に匹敵するような長い周期を持つ海の波では、海の真ん中よりも、進行方向右側(北半球)の岸近くの振幅が大きくなるという面白い性質によります。太平洋から東シナ海に進入する潮汐波は、間口が広く幅広に広がって進入してくると言っても、右側を九州陸岸に遮られるため、九州西岸の潮汐は、この性質により東シナ海中央よりも大きくなっています。有明海は、日本有数の潮汐の大きい海として有名ですが、すでに九州西岸全域で潮汐が大きくなっているのです。この性質は、潮汐波が東シナ海から黄海に入ってゆくと右側を韓国陸岸に遮られるため、さらに強調されて、このため韓国西岸の潮汐の干満差が大きくなるのです。この二つが韓国西岸で潮汐が大きくなる理由です。ちなみに韓国西岸のインチョンでは、干満差が8m以上にもなります。
同様に、東シナ海から黄海に進んだ潮汐波は、反射されて戻ってくるので、反射波の右側の中国沿岸でも大きくなって良さそうですが、反射されるときに減衰されて小さくなるので、韓国沿岸ほどには大きくなりません。とは言っても上海・杭州湾付近では3-4mぐらいとかなりの大きさとなっていて、これが杭州湾につながる銭塘江にタイダル・ボア(大海嘯とか潮津波とも言う)を起こす理由です。
もうすぐ、中秋の名月の満月ですね。この時には、東シナ海から竜が遡ってきて、大海嘯を起こすという言い伝えがあって、昼間は銭塘江の大海嘯を見物し、夜は杭州の西湖でお月見をしながら月餅を頂く、という話を聞いたことがあります。当たり前のように毎日くりかえされている潮汐ですが、たまにはお月見しながら、月と太陽そして地球の起こす潮汐の面白さに浸るのもよいのではないでしょうか。
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というところでしょうか。 説明がくどすぎるかもしれませんが、やっぱり潮汐・潮流は面白いなあと思う次第です。
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追伸
昨日は、来週の8月25日の満月が中秋の名月と思っていたのですが、来月の9月22日が旧暦8月15日でした。
おかげさまで、黄海沿岸の潮汐や潮流について理解が深まり、興味がうんと増しました。仁川空港からソウルに向かう時に横切る広大な干潟(時間によっては水面)も、次回は格別の感慨をもって眺められそうです。
管理人さん、小田巻さん、kumaさん、ありがとうございました。
管理人さん、ありがとうございます。
先週末から職場の大掃除があり、ようやくパソコンに触れるようになりました。お返事が遅くなりました。
舟山群島の潮流に関しては、meiryoさんがおっしゃられた通り、杭州湾を出入りする潮流が関係していると思います。
揚子江河口で潮汐波の強め合いが、と言うのは、言葉足らずでした。正確に言うと、meiryoさんが言及されていた『高麗図経』で黄水洋(黄海西部)と呼ばれている海域の南方部分で、杭州湾より少し北にあたります。
でも拝読していて、非常に不思議な思いがしました。meiryoさんは、漢文の解読がご専門なのですね!
実は、つい1週間前に「遣唐使の目的地は、なぜ寧波(明州)や揚州ばかりで、上海が出てこないのか」について、地元の歴史研究会の会報に投稿したところでした。そのこともあって、お話をとても興味深く読ませて頂きました。
私自身は先史時代の大陸棚の環境変動を海洋物理学の側面から調べています。歴史に関しては門外漢ですが、中国の環境変動研究では、過去の史料が引用されることが多く、最近興味を持ち始めています。
長江河口の海岸線の位置などは、古代の史料なしでは現在わかっているほど詳細な情報を得られなかったと思います。
>7月10日(グレゴリウス暦)の朝、出発。南風に乗って、14日夕方に韓国西南の小黒山島近海に達し
当時の記録の正確さには驚きます。
600-800kmを60時間でというのは帆船なら標準的な速さだと思います。風も夏は南風が一般的ですし、海流も(管理人さんのご専門ですが)台湾暖流の夏の流れ方と矛盾しないので、寧波から小黒山島への経路は不自然ではないと思います。
>「潮落」(引潮?)
現象を見るとご推察の通り引潮だと思います。(落潮という言葉は今でも使われていますし)
日時がわかれば、歴史時代の潮流は理論的には復元が可能です。私もいつか取り組んでみたいと思っているのですが…。
実は『高麗図経』にある1節が気にかかっています。
(私自身は『高麗図経』の原文、訳文に直に触れたことはなく、「黄水洋」をキーワードに中国のホームページにて断片的に接しているに過ぎない点をどうかご容赦下さい。meiryoさんが挙げられていた普陀山島から荏子島へかけての記述も初めて知りました。)
「抵達黄水洋的黄河入海口一帯、由于近岸多沙洲」
『高麗図経』は1123年の航海記録とのことで、私のような海洋学の人間からすると絶妙な時期の記載に思えます。黄河の河口が渤海から黄海へ移る(1128年)直前だからです。この河口の移動が黄海沿岸の海洋環境に与えた影響は非常に大きく、近年話題になった三峡ダム建設の影響など、比べものになりません。
ここに現れる「沙洲」は、私の見立てでは現在の江蘇省沿岸に広がる巨大砂州群の事で、その形成時期や材料である砂の出所(黄河か長江か)は中国の地質学者の間で関心を呼んでいます。『高麗図経』の記載に従えば、砂州は黄河口南遷前にある程度発達していたことになり、有用な情報です。
個人的に気になっているのは、「黄河」の記載です。1123年ではまだ黄河の河口は無かったはずで、「長江」との書き間違いなのか(当時の「長江」河口の形態ならつじつまは合います)、著者の徐競が後に回想しての記述なのか、写本が造られる段階で書き加えられたのか、この頃も黄河の流れの一部は南へ流れていたのか、など、色々な見方が出来るように思います。
この辺の解釈はmeiryoさんのような専門家が時間をかけて検証する事柄でしょうが、この文献の背景について1つ質問があります。
台北故宮博物院のホームページをみると、『高麗図経』は徐競"撰"と書かれているのですが、これは何人かの人が書いた文章をまとめたと言う意味でしょうか、それとも徐競が執筆した渡航メモの中で、記録として残すものを選んだという意味でしょうか?
(台北へ持ち出したくらいですから、やはり貴重な文献なのですね)
機会がありましたら、ご教示いただければ有り難いです。
今週は島根出張で、今日はこれから石見銀山から積出港の一つ温泉津への輸送ルートの調査です。
まず、簡単なほうから。この場合の撰者は著者と同じいみです。文学や史学の世界では古い著作の著者を撰者といいます。日本の場合は近世(江戸時代)くらいが境界です。ただし、古い文献は、何の断りも無く、先人の叙述を引用するので、ひとつひとつ記事内容の吟味(史料批判)が常に必要です。
『高麗図経』は徐競自身の見聞によるオリジナルな叙述が比較的多い(半分くらい)貴重なものです。「黄大洋」の記事のご指摘の部分は「舟人」からの伝聞ですね。この使節団の船は浙江・福建の商船をチャーターしたものなので、「舟人」はその水域の出身と考えられます。使節と話ができるのですから船長か航海長クラスの幹部船員で、高麗への航海も何度か経験してるかもしれません。ただし、彼らの船(尖底ジャンク船)の航路(明州道:明州=寧波~高麗)は、黄海東部を通るので、浅くて砂堆の多い黄海西部の水域のことは直接は知らないはずです。宋の高麗の外交使節は百年前の11世紀前半に一時山東半島経由で黄海西部に着岸、淮水から大運河に入る「登州道」を使用したことがあります。「黄河入海」の部分は、このときの航海に参加した「舟人」の先輩から伝わった伝承の可能性もあるし海の色を有名な「黄河」と付会させた彼自身の創作の可能性もあります。
出発の時間になったので、本日はここで終わりです。今日も炎天下の調査になりそうです。
お話を伺っていて、内容を一つ一つ吟味すること、そして文章の背景を知ることの大切さを痛感しました。限られた史料の文面から本当に多くのことがわかるのですね。とても勉強になりました。
「舟人」からの伝聞が具体的にどのようなものかがわかり、「黄水洋」のほか、突然鴨緑江に関する記載が出てくる理由が理解出来たように思います。また、「明州道」は黄海西部は通らない点もわかって良かったです。
「登州道」のルートは、砂州が多く、波も強いので、航行には難儀したでしょうね(尖底船は無理だったかもしれません)。今では地元自治体がコスト度外視の浚渫を行って一部航路を維持しています)。
最近では大運河や塩城市周辺の昔の海岸線に並行する形で立派な高速道路が走っています。現代の登州道と言えるかもしれません。
「明州道」の韓国部分に関して、先日のお話にあった荏子島(朝鮮半島西南)を海図で見てみました。潮流は速い所で下げ潮時に南西向き3.5ノットと書かれています。局所的にはもっと強かった可能性もあり、帆船だと確かに流されないようにするだけでも大変だったかもしれません。
もう少し北の鞍馬群島から古群山群島のあたりは、潮流はやや弱めですが(通常よりは強い)、冬の波が強いです。全羅北道(本土)の海岸は夏の泥干潟が、冬になると泥が流されて、砂地の海岸になります。(翌夏、泥は再び沖から運ばれてきます)。
仁川空港周辺に泥干潟が広がっている理由の一つは、白レイ島周辺の半島が北からの波を防いでくれる点もあると私は見ています。
遣唐使船だと役所の暦に合わせて航海をしたような話を目にしたことがありますが、「舟人」たちは海上の季節変化を身をもって知っていたようですね。活動範囲の広さにも驚きます。
フィールドワーク、暑い中大変かとは思いますが、どうかお気をつけて。実りある調査となることを祈念します。
昨日は、石見大森銀山の積出しルートの踏査を完了(途中、車道と重なるところは車で移動)、14時過ぎに温泉津につきました。温泉津の外港にあたる「沖泊」の岩壁には、「鼻ぐり岩」という岩を加工した係留設備が残っており、古いものは江戸時代以前に遡るといわれています。潮汐差の小さい日本海の港ですが、いつもより潮位が高く、足場となる岩が水面下に沈んでいて移動に苦労しました。
かつての「登州」にあたる山東省蓬莱市で14世紀の大型(といっても船長30mくらい)木造船が発掘されています。浙江・福建のジャンク船と同じように竜骨がありますが、船底が平べったい船で、文献史料が「沙船」呼んでいるタイプの船と考えられています。黄海西部の舟人たちは、このような船を使っていたようです。
『大元海運記』という14世紀の史料によると、揚子江河口北部の砂堆の多い水域では、風や潮の様子を見ながら、「洪」(砂堆間の溝)を探って慎重に船を進めています。同じ中国沿岸でも、舟人たちの世界は揚子江の南と北で大きく異なっていたのです。
私がこのブログに着岸したきっかけは、管理人さんの「黄海の流れ」という記事です。同じ海を研究しながら、私の棲む「歴史学」の世界は、管理人さんたちの「海洋科学」の世界とほとんど交流をもちません。航海史の論文を書く際も参照するのは、先輩たちも利用した戦前の水路誌やせいぜい『理科年表』くらいで、海洋科学の最新成果に目を向けない「蛸壺」状況です。
「私たちの世界」では、東アジアの帆船時代を著述る際に黒潮をはじめと「海流」(潮流ではない)と「季節風」を重視する「伝統」があります。しかし、文献史料の航海記述にはこれらは、ほとんど言及されていません。私は「歴史屋」は、潮汐や潮流や海上で風を吹かせる様々な気象条件といった「ミクロ」な事象に、もっと目をむけるべきではないかと思っています。
ということで、これからもよろしくお願いします。
わかりやすい、そして興味深い解説をありがとうございました。今回で最後にしたいと思います。
日本海や東シナ海の場合、冬より夏の方が水位が数十センチ高い現象が見られます(少なくとも東シナ海に関しては水温による熱膨張の季節変化の効果が最も大きいそうです)。
話題を変えて、ここのブログで最近アウトリーチについて話があり、meiryoさんの歴史の話もあったので、今夏個人的に印象に残ったことを。
夏休みに私の小学生の娘が近所の大学で歴史に関する研究室手製の学習カルタ(?)をもらってきたのですが、負けず嫌いの性格もあって大変なのめり込みようです。熱中しすぎて時々兄弟げんかを起こすのが玉に瑕ですが…。子どもの飲み込みの速さはうらやましいくらいです。物事への興味はこのような所から始まるのかなとも最近感じています。
私の専門の海洋学の方でも、公開講座とか体験学習とか行われており、それらも大切だとは思いますが、正面からだけではなく、様々な角度から関心を持ってもらうことも必要かなと思いました。
黄海の潮流についての質疑応答を楽しく拝見しました。ありがとうございました。
meiryo 様
専門を極めようとする専門家はどうしても「蛸壺」状況に陥りがちです。最近の目先の成果主義の蔓延のために、蛸壺化が進んでいる研究環境に危機感を持っています。「蛸壺」から離れた新たな視点からのアプローチが従来の難問の解決や新たな課題の発見に結びついた例が多々あります。異分野間の交流促進のためにも、これからも発信を続けたいと思っています。今後とも、宜しくお願いします。
kuma 様
種々の方法で専門家と非専門家との間の交流を進めることが必要というお考えに強く賛同します。現状では、見かけの研究成果が優先され、非専門家との交流を進めたいと思っている専門家の意思が尊重されず、その各々のささやかなアイデアを気楽に実行できる研究環境になっていないのが残念です。今後とも、拙ブログの応援を宜しくお願いします。