7月30日付けでサイエンスポータルに掲載されているインタビュー記事「後継者育成は科学者の使命-アウトリーチ義務化(投稿者:科学新聞 中村 直樹)」を読んだ。そのリードでは、「総合科学技術会議は6月19日、3,000万円以上の公的研究資金を獲得した研究者に国民との科学・技術対話(アウトリーチ活動)を義務づけることを決定した。研究者にとっては大きな負担になる可能性がある、と関係者からは不安の声も聞こえてくる。アウトリーチ活動義務化を積極的に進めた内閣府の津村啓介・政務官に聞いた。」と記載されている。「より良き市民」を増やすために、一人でも多くの研究者が科学コミュニケーション活動を通して、科学リテラシー、特に「科学の営みについての知識」が普及することを願って、かって、「一般向けに評論活動をしている科学者の数を増やす」方策として、
イスラエルでは大学教員は年に1回以上アウトリーチ(この一方向的な表現はあまり好きではないが)を行うのが義務付けられていると聞いたことがある。また、サイエンス誌2009年3月13日号のEditorial 'Scientist Citizens'(全文閲覧は有料)では、ストックホルム大学やスタンフォード大学の環境気候科学分野、米国ウッズホール海洋研究所では大学院生にメディアとの対話訓練を行っていることが紹介されている。このような活動を 国の政策の一環として科学技術基本計画の中に組み込むことも可能かもしれない。と述べた管理人としては、あまりの急展開に驚いている。以下は、サイエンスポータルのインタビュー記事を読んだ感想など。
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1.「義務化」への反発
今年6月14日の「アウトリーチ義務化」の方針が総合科学技術会議で決定されたとの報道以来、一部研究者からアウトリーチ義務化に対する反発がTwitterなどで数多く発信された。その多くは、ブログ「大「脳」洋航海記」のブログ主であるVikingさんが、その6月14日付けの「研究者の科学コミュニケーションに必要なのは「自発的取り組み」の促進であって、「義務化」ではない」と題するエントリーで述べているように、「年間3000万円以上のグラントを受給する研究者には自分自身で科学コミュニケーションを行っている時間的余裕なんてない」という内容であった。Twitterでの発言の中には「若手への負担増」を危惧する意見や「アウトリーチの必要性を認めない」という意見さえもあった。
これに対し、津村氏はインタビュー記事の中で「当初は第一線の科学者の方々にとまどいや想定外の負担が生じる面もあると思う」と研究者の不安について、より{あいまいな表現}を用いて認めつつも、
内閣府としても科学技術振興機構や日本学術振興会などに協力してもらいながら、国民との科学・技術対話の円滑なスタートのために汗をかく。例えば、相談窓口を設けるとか、あるいは「何やればよいか分からない」という人と、「うちの高校に来てほしい」という所とのマッチングなどに努める。小さく産んで大きく育てるという思いで加わっていただきたい。さらに言えば、この取り組みが中長期間継続することで、科学者コミュニティの中においても科学コミュニケーションの重要性や意義がコモンセンスとして定着していくことを願いたい。と述べている。津村氏の言わんとするところが分からないわけではないが、これまでの科学技術振興機構、日本学術振興会、文部科学省などの関係機関の動きの鈍さから判断すると、研究者が負担を感じる状況が、当分の間、継続するのは避けられないのではないかと思ってしまう。
では、どうすれば良かったのだろうか? Vinkingさんは、総合科学技術会議が検討すべきは科学コミュニケーションの「量の増加」ではなく「質の改善」であり、「現場の研究者個々人が科学コミュニケーションについて深く理解し、その必要性を認識した上で、研究者にもできるコミュニケーションを個々人に可能な範囲で実践する」ことについて具体的な提案をされている。管理人は、公的研究資金を獲得した研究者個人ではなくて、その研究者の所属機関に「アウトリーチ活動充実のみならず、研究者の研修の実施、評価基準の見直しなどを含めた関連活動」を義務付けるとした方が良かったように思う。
2.決定過程
津村氏はインタビュー記事で、
さっそく第1回目の地方会議で科学技術コミュニケーションについての提言が一般の方から出てきた。英国の制度を参考にしたアウトリーチ義務化の提案だった。大変興味深かったので、早速、制度の勉強を進め、公的資金で研究をしている方々に義務化することを即断した。と述べている。この即断について、さらに、
強調したいのは、これは総合科学技術会議の一部の議員や政務三役が立案したものではないということだ。一般の方からの提言に即座に反応して、現場の科学・技術コミュニケーションの講座を持っている准教授や助教、30代を中心とした若手の科学・技術コミュニケーターの方々など、現場の声を形にするコンセプトで進めた施策だ。先月は東大のBAP(大学院生出張授業プロジェクト)という大学院生たちの集まりに参加し、20人くらいとの意見交換も行った。
と述べて、この「義務化」が津村氏の独走・暴走ではなくて、「現場の声」を形にしたものであることを強調している。だが、この記述をよく読むと、ここでいう「現場」とは科学技術研究開発の現場担当者ではなくて、科学・技術コミュニケーション関係者である。
6月7日パブコメ締切の「科学技術基本政策策定の基本方針(案)」の37ページで
研究者は、それぞれの研究について、内容や成果を分かりやすく発信する取組を進める。例えば、3千万円以上の公的研究費を得た研究者には、小中学校や市民講座でのレクチャーなどの科学・技術コミュニケーション活動への貢献を求める。という記述
3.科学コミュニケーションとアウトリーチ
インタビュー記事では、アウトリーチと科学コミュニケーションが区別されていない印象を受ける。管理人は「アウトリーチ」という言葉に抵抗を感じる。それは、この言葉が研究者・専門家から非専門家への一方方向の発信というニュアンスを強く感じるためである。これに対し、科学コミュニケーションは科学者と市民との間での双方向の情報交換だと思っている。科学コミュニケーションについては、いろいろな考え方があるが、英国では、これまでパブリック・アンダースタンディング・オブ・サイエンス(公衆の科学理解)としてきた活動を一歩進め、積極的に「関与」してもらおうというパブリック・エンゲージメントに移行している。しかし、これとても、科学技術施策への国民の支持を得るための「上から目線」の活動に留まっている印象を管理人は持っている。研究者が行う科学コミュニケーションは、世界に貢献するために行う科学技術研究開発の内容を国民とともに考えるための
さきに紹介した「科学技術基本政策策定の基本方針(案)」から判断すると、今回のアウトリーチの義務化は、以下の基本方針の一環として行われる。
国家を支え新たな強みを生む研究開発を推進し、我が国の科学・技術基礎体力を強化するため、科学・技術システムの改革を行うとともに、国民・社会とのつながりを強化するための取組を推進する。また、基本計画を実現するための投資目標を明確にする。すなわち、義務化されるアウトリーチ活動は、「国家を支え新たな強みを生む研究開発を推進し、我が国の科学・技術基礎体力を強化するため」の科学のパブリック・エンゲージメント活動という位置付けである。果たして、このような位置付けで行われる「一方的な」アウトリーチによって、最先端の科学技術施策へのゆるぎない信頼を国民一般から受けることが可能となるのか疑問である。
津村氏は、「後継者を見いだし育てていくことは科学者の大事な哲学であり、社会的使命だと思っている」と述べている。アウトリーチによって国民の理解を得て、後継者を育てていくのも社会的使命の一つであるとは思うが、それよりも、現代社会では、科学コミュニケーションによって国民との会話を進め、
拙ブログ関連記事:
2008年10月27日 安全。だから安心」となるために
参考
ブログ「Mangiare!Cantare!Pensare! 食べて歌って、そして考えて」
2006年5月29日 科学コミュニケーションとシチズンシップ―日欧の違い
4.おわりに
研究者が科学コミュニケーションを行う際の参考資料を以下に示す。2)は英国で「パブリック・エンゲージメント」活動普及のために作成されたパンフレットである(上に述べたように、管理人はパブリック・エンゲージメントに全面的に賛同はしないが、参考にはなると思う)。3)は、ちょっと古いが、アメリカ地球物理学連合がそのウェブサイトで提示している研究者がメディアと対応する際のマニュアルである。アウトリーチ活動の際の参考になれば幸いである。日本の現状に即した、これらと同様なマニュアルが早急に整備されることを願っている。
1)研究者のための科学コミュニケーションStarter's Kit
2)The Engaging Researcher:Inspiring people to engage with your research
3)You and the Media: A Researcher's guide for dealing successfully with the news media.
立ち位置の確認になりますが、管理人氏の考える科学コミュニケーションとは「科学の普及広報」を志向されているのでしょうか?それとも「方法論・枠組みとしての科学の啓蒙」を志向されているのでしょうか?
前者は「判りやすさ」を追求すればするほど科学の厳密さが失われたり、ビジネス的に成功するために意図的に変更される可能性があります(似非科学など)。後者は追及すればするほど「科学の小難しさ」だけがクローズアップされてしまう(実験計画法や条件設定、統計学的要素などは素養がないと何を言っているのかすら判らないでしょう)ので拒絶反応がより強くなります。
その上で「同じ目線での対話」を求めておられるのだと拝察いたしますが、上記の相反に気が付くような人間は自分で調べて質問するでしょうし、そうでない人間は「狭い専門性に基づいた薀蓄」として受け付けません。科学者も市民ではありますが、「専門家」である以上、全く同じ立ち位置であるというわけには行きません。
科学コミュニケーションが必要なのは実は研究者の側ではないかと思っています。
コメントをありがとうございました。が、頂いたコメントでHMSさんは何を言いたいのか、私には良く理解できません。
>科学者も市民ではありますが、「専門家」である以上、全く同じ立ち位置であるというわけには行きません。
科学者といえども、専門外のことについては、「専門家」ではないことを科学者は強く認識している必要があると思います。以下のお言葉は、このことを言われているのでしょうか?
>科学コミュニケーションが必要なのは実は研究者の側ではないかと思っています。
それとも、HMSさんがここで用いられた「科学コミュニケーション」には別の意味が込められているのでしょうか?
ともあれ、種々の「科学コミュニケーション」について紹介・議論している以下のエントリー(本文中で紹介)に即して、再度ご説明して頂けると幸いです。
ブログ「Mangiare!Cantare!Pensare! 食べて歌って、そして考えて」の2006年5月29日付けエントリー「科学コミュニケーションとシチズンシップ―日欧の違い」
http://hideyukihirakawa.com/blog/archives/200605/291907.php
若干別の意味になると思います。研究者にとっての科学コミュニケーションとは何を指すのかによってまず異なります。これを「社会的貢献」とするか「単なる説明責任」とするかでコミュニケーションの内容および質に著しい差が出ます。
このまま現場の研究者が自ら専業の科学コミュニケーター並みのスキルとリテラシーを備えて、必要に応じて自らの責任のもとで、科学コミュニケーションを行わなくてはなりませんし、その量と質は自らの責任で決めることが可能なのでしょうか?私は少なくとも科学コミュニケーションに関する教育・研修を研究者に対して行い、そのリテラシーやクオリティを担保しないと意味がないと思います。
その上でご紹介いただいたブログを読むと科学政策研の渡辺氏と阪大の平川氏の主張が管理人氏に投げかけた立ち位置の確認にそのままつながります。そうでないと科学コミュニケーションは「なぜ必要で、どのような人間を相手に、どうすればより良く伝わるか」が目的が設定されないまま、個々人のコミュニケーションスキルのみに依存することになります。
科学コミュニケーションが個人の職業倫理意識の高低と職人芸に頼っているようでは「政策決定における専門家集団の役割を強化する」ことにつながりません。「言いっ放し」の人間に出て来られても先方が困惑するだけでしょうし、いみじくも少し範囲を広げただけで「居酒屋談義」になってしまいます。
オーストラリアの大陸棚申請時のように法律家に海洋科学を学ばせ、海洋(地質)学者に政策の意思決定過程を学ばさせるくらいの荒療治が必要でしょう。
早々に再度のご説明をありがとうございました。
「政策決定における専門家集団の役割を強化する」ためには、科学者に専門外の分野についての知識を身に付けさせるための「科学コミュニケーション」が必要である、ということがHMSさんのお考えであったようですね。このお考えには同意します。
>「政策決定における専門家集団の役割を強化する」
いえ。それには限りません。一般市民やNGO/NPO相手であっても同様であるべきです。研究者は弁護士や医師と同様のポジションであって欲しいのです。そのためには依頼人(病人)がどういう状況であるかを知った上で、どうすれば改善されるかを現状に即して情報提供しないとやはり「自分の薀蓄だけで一方向の言いっ放し」で終わってしまいます。彼らが欲しいのは「一緒になって考えてくれる人」ですから。
HMSさんのお考えは、
政策決定、一般市民やNGO/NPOへの情報提供、他における専門家集団の役割を強化するためには、科学者に専門外の分野についての知識を身に付けさせるための「科学コミュニケーション」が必要である、
ということでしょうか? 異論はありません。