1.真理の前に師弟なし
ゼミで、先生は、しばしば「真理の前に師弟なし」ということを言われた。この言葉は,「例え,教授・学生などのように身分・地位・経験が異なっても,真理を追究する研究者としての立場は同等である.指導者は自分の考えや方法を学生に押し付ける権利は無いし,学生は指導者に盲従してはならない.」という意味であったと思う.このお言葉を聞いて、管理人はゼミで随分と生意気な議論を先生としていたように思う。ある夜、木屋町の某スナックで同席した際に、ゼミでの日頃の非礼についてお詫びすると、「教師に反論しない学生は面白くない」という大らかなお応えがあった。安堵するとともに、このような考えの師に出会えたことの幸運に感謝した。
先生の講義(海洋物理学)では,海洋には未だに解明されていない現象が数多くあることが紹介された(当時は海洋物理学の教科書もなかった)。学生の研究テーマについては、特に強い指示、指導はなかった。各自が先輩などから得た種々の情報を基に選択した課題について、論文紹介、資料解析を進めた。ゼミでは、科学研究のあり方や研究室の今後の研究方針についての意見交換もおこなわれた。年度初めのゼミでは、世界の海洋物理学研究の進捗状況の中での大学院学生の各々の位置を示しながら、今後の研究の方向性を示されたこともあった。当時の学生たちの間では「國司さんのいうことの十に三つはまともだ、いや、十にゼロだ」などと語り合っていた。そんなことを言いながらも、皆、先生を慕っていたと思う。
2004年春の研究室同窓会(先生が2003年秋に瑞宝中綬章を叙勲された祝賀会だったかも?)の折に、この素晴らしいお言葉の出典を先生にお伺いしたところ,先生の造語らしいとのことだった。この言葉をどのような経緯で先生が創られたのか、あるいは思い付かれたのかを、お聞きすることはできなかった。ただ、管理人が教養部および理学部で当時受けた授業の担当教官の多くが、学生に対し、権威者、あるいは「上から目線」という態度ではなかった。多分、「反権力・反権威」という当時の京都大学全体の風潮を教育にまで適用した言葉として、心ある教官の間では共有された考えだったのではないかと思う。
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2.風浪の研究
先生は、1949年京都大学理学部地球物理学科をご卒業になり、1953年京都大学防災研究所助手、1957年理学部助手となられた後、講師、助教授を経て、1966年に教授に就任された。管理人が先生と初めてお会いしたのは、その4年後であった。先生は白浜海象観測塔の建設を進める傍ら、1962年に小型風洞水槽を用いた「風波の発生および発達に関する実験的研究」により理学博士の学位を受け、この研究により1964年に第1回日本海洋学会岡田賞を授賞された。管理人は、このような事情も知らず、当時助手であったINさんに誘われて、「風波のスペクトルの発達過程についての高速風洞水槽実験」を課題研究(卒業研究に替わる必修ではない実習)のテーマとした。管理人の大学院学生時代には、先生はその研究の主な対象を沿岸海洋学に移されていたが、学会発表前に研究室で行われる予行で、先生の、言葉は穏やかだが本質を突く鋭い質問に応えることで、私の学会発表の目的を達したような気持ちになれた。
管理人の実験結果が当時の理論と異なることについて悩んでいたときには、「理論と実験の不一致に間違いないことを確認したならば、たとえ理論と異なっていても、自分の得た実験結果を信じろ」と心強い助言を頂いた。投稿論文の校閲をお願いすると、記述の曖昧なところに記入した鉛筆書きの修正案を示し、私の意図を確認した後で、赤ペンで書き直して修正して頂いた。このような丁寧な原稿校閲をして頂き、共著者になって頂くことをお願いしたときには、「これは君の仕事だから」とおっしゃって共著者となることを固辞された。このため、学位論文研究で先生と同じ風浪の発達機構についての研究をおこなったにもかかわらず、先生との共著論文は、結局、1編のみであった。
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3.お人柄
先生のお人柄は紳士そのものであったと思う。丸顔で髪の毛の薄い頭にソフト帽が似合っていた。おしゃべりという訳ではなかったが、お話好きでもあった。管理人が大学院学生当時の、海洋物理学関係の教授の方々は、先生を含め、皆、京都の夜の世界でも、お元気だった。研究室のコンパの後などには、大抵、学生たちとともに、裏寺町のおでん屋や木屋町のスナックなどへ行った。学生たちの前でも、学生の存在を気にせずに、店の女性たちと話に興じておられた。このような方々の中で、「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」と自戒を込めて言いながら、大いに遊んで世情に通じる中で、大学と社会とのつながりを考えておられたように思う。当時、発表されたばかりのローマクラブ“人類の危機”レポート-「成長の限界」に、しばしば言及されていた。
先生が他人への怒りや侮蔑を露わにされる場面に遭遇することはほとんどなかった。管理人が3回生の春にコリオリ力が理解できないことを堂々と恥ずかしげもなく述べた際にも、見放すことなく丁寧に説明して頂いた。研究室で麻雀をしているところを先生に見つかったときにも、真夜中の研究室での酒盛りで酒がなくなり、教授室の棚から先生のウィスキーを持ち出して飲んだことが露見したときでも、目くじらを立てられることもなかった。また、多忙な先生の唯一の自由時間であった昼休みに質問にお伺いしても、いやな顔もせず、丁寧に対応してくださった。先生が主査となられて学位を授与された当日に、御礼のためご自宅にお伺いした際には、先生、奥様、先生のお母上の皆様から暖かいお祝いのお言葉を頂いた。
先生は、人を押しのけてでもご自分の主張を通されることもあまりなかったのではないかと思う。この結果、弟子の一人として駆け参じる機会を与えられず残念ではあったが、全国的なプロジェクトのリーダーとなられることもなかった。
4.おわりに
管理人が1年間の就職浪人の後に鹿児島大学に職を得ることができたのは、公募人事とは言え、一重に先生のご尽力の賜物と思っている。京都を離れて1年半後の管理人の結婚に際しては、ご媒酌人として、札幌へお越し頂いた。式前夜の、先生ご夫妻、両家の両親、新郎・新婦の8人の会食は、話が盛り上がり、本当に楽しい一時であった。その席に居た中で、管理人の両親と義父に加えて、先生までもが旅立たれてしまった。ちょど2年前の6月に研究室の同窓会参加のために上洛した際にご自宅にお伺いして、近況をご報告をしたのが、先生にお会いした最後となってしまった。先生の退官記念論文集巻頭の先生の在りし日のにこやかな笑顔を拝見しながら、ソフト帽を恰好良く被る先生のお姿を懐かしく想い出している。ご冥福をお祈り申し上げます。合掌
コメントをありがとうございました。
広島時代の先生のご様子を知り、嬉しく存じます。
師を同じくする者として、
今後とも宜しくお願い申し上げます。