1.ジオブログ
2日目の朝1番に地質・地球物理額関連ブログ「mountain beltway」の管理人であるNorthern Virginia Community Collegeの地質学の準教授であるCallan Bentleyさんから「State of the Geoblogosphere 2010」と題する講演が質疑応答を含めて約1時間あった。その内容は以下のURLで公開されている。
http://www.nvcc.edu/home/cbentley/State_of_the_Geoblogosphere_2010_Bentley.ppt
日本、中国などの状況は反映されていないが、いわゆる欧米圏における科学ブログの状況の一端が紹介されている。教育と地球温暖化については自分のブログでは議論するけれど、他の人の同じ議論は読まない、というのは地球物理(地質)屋さんらしいのか???
2.2010年秋に特別セッション
秋の合同集会でサイエンスコミュニケーションについての連合セッションを開催することをPICで提案することになった。提案書の締切が明日ということで、大急ぎで案が作成された。
3.おわり
予想外に早く、搭乗案内が始まったので、本記事はここまでとします。帰国後に追加します。
『地球温暖化スキャンダル(2009年秋クライメートゲート事件の激震)』(日本評論社)
スティーブン・モシャー&トマス・フラー:著(渡辺正:翻訳)
翻訳は、ダイオキシンなどの本を出している渡辺正教授です。
私はIPCCを科学的に高く評価してないので、クライメートゲート事件は、そんなにスキャンダルだとは思わないのですが・・・
IPCC=科学の権威集団みたいに見える人達の格好の餌食の事件みたいです。
アメリカの911テロ事件やアポロ月着陸などに注目する懐疑派の陰謀論は、擬似科学と結びつきが強いです。
情報をありがとうございました。AGUでも地球温暖化論の紹介、懐疑論への反論に精力的に取り組んではいます。日本における「クライメートゲート事件」関連の状況は以下のサイトの記事が参考になると思います。
2010年4月30日 日本学術会議 公開シンポジウム「IPCC(気候変動に関する政府間パネル)問題の検証と今後の科学の課題」全記録
http://www.iwakamiyasumi.com/column/politics/item_371.html
まとめ:日本学術会議 公開シンポジウム 「IPCC問題の検証と今後の科学の課題」についてのつぶやき http://togetter.com/li/17799
この温暖化が世界規模どうかの判断は難しいと思います。
例えば南極の内陸部は温暖化していません。
また二酸化炭素が過去200年間で急速に増えていて、人間が原因なのも高い確率で言えると思えます。
ただ温暖化と二酸化炭素の因果関係は、統計で見ると不明瞭です。
温室効果が1980年頃から増えているのは統計的な事実ですが、二酸化炭素が原因かどうかはわかりません。
気象に関しては、わかっていないことが多いと思うのです。
そしてわかっていないからこそ、研究すべきだと思うのです。
>気象に関しては、わかっていないことが多いと思うのです。
そしてわかっていないからこそ、研究すべきだと思うのです。
後世の人々の生活に重要な影響を及ぼす気候変動について更に研究を進める必要があることには誰も異論はないと思います。
地球温暖化の発生には、自然界と種々のレベルの人間活動(個人生活、企業経営、国家運営、など)が複雑に関係しています。このことが、地球温暖化対策の実施を難しくしていると思います。
多分、持続的発展という概念を超えた新たな価値観の創出が必要だと思います。そのための教育改革が最優先課題と思います。
人類はいつか絶滅するかもしれませんが、「持続的発展」でいけると思うのです。
ただ特定団体の利益と人類全体の利益は一致しない場合が多いと思います。
ここに民主主義という制度の問題があるのかもしれません。
参考
『異議あり!生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版)
岡本裕一朗:著
私も教育を重視すべきだと思います。
教育は子供だけでなく、大人も重要だと思います。
人類はネオテニーであり、「大人になれない猿」だと思いますし、そのことが文明を作り出した原因だと思うのです。
特に理科系的な視点を重視した歴史教育が大事だと思います。
文明はある日突然出来たわけではなく、長い積み上げだという認識が重要だと思っています。
数学にしても、完璧な体系があるのではなく、発明品の積み上げであると思うのです。
懐疑派は権威を疑うけれど、事実を軽視し自分達の信念を特別視している気がします。
これは科学的な態度だとは思えません。
教師の言う事を素直に信じることが良いとは思いませんが、疑うなら事実を重視し論理的な整合性を検討する訓練をすべきだと思うのです。
発明や発見は、持続的発展という目的と関係なくてもいいと思うのです。
資本主義は、持続的発展に都合のいいものを利用しているのであって、持続的発展に都合のいいものは、別の理由でできたりします。
ちょっと一般論になって議論が拡散しがちですが、続けます。
持続的発展(持続可能な開発)という概念は多くの人に受け入れられた基本的な社会理念になっていると思います。しかし、この理念の旗の下で、科学技術開発研究を強力に進めても、エネルギー、食糧、水、レアメタル、その他の制約があるため、人口急増中の全人類が現在の日本と同じ生活レベルに達するには限界があると思います。この懸念を払拭するブレークスルーな発明があるかもしれませんが、その僥倖に期待して放埓な生活を続けるのは疑問です。例として不適切かも知れませんが、現在の我が国のマグロの大量消費を持続できるように養殖や資源管理技術を開発するのはどこかおかしいと思います。
全人類の生存のために、個人の生活の利便性や消費欲望の追求を自律的に抑制することを受け入れる新たな理念(その萌芽は既に現れていると思います)の普及・高度化が必要だと思っています。そのためには、価値観の多様性を認め、オープンマインドに議論を進める科学的合意形成手法の普及・教育が重要と思います。
http://cruel.org/economist/economistmalthus.html
鎖国時代の日本や、毛沢東統治時代の中国より、現代の日本や中国の方がいいと思うのですが・・・。
山形浩生さんの記事のご紹介をありがとうございました。山形浩生さんが紹介しているエコノミストの記事でも「低炭素経済への移行」とか「従来型の成長への制約」に言及しています。それに対し、山形浩生さんの「解説」は、合意形成の必要性に対する認識が希薄で、議論のしようがないように感じました。
>鎖国時代の日本や、毛沢東統治時代の中国より、現代の日本や中国の方がいいと思うのですが・・・。
「個人の生活の利便性や消費欲望の追求を自律的に抑制する」という説明が誤解を招いたようです。私が言いたかったのは、「鎖国時代の日本や、毛沢東統治時代の中国」の生活水準に戻れということではなく、現在の先進国の生活水準を持続させたまま、それを全世界に普及させるのは必ずしも可能ではないという認識から、将来的には、資源枯渇などの新たな環境に適応可能な何らかの新たな理念(誤解を招いた例で言えば、消費欲望などの自律的抑制)が必要になるであろうということでした。
「持続的発展」に、上に述べた環境の変化への適応も含まれているのであれば、おおくぼさんの「人類はいつか絶滅するかもしれませんが、「持続的発展」でいける」というお考えに同意します。
石油の生成には有機説と無機説がありますが、どちらにしても人間の使用スピードから見れば、石油は希少な資源です。
クジラやマグロにしても増えるスピードよりも、捕獲するスピードと量が問題になっています。
ただ私が懸念するのは「石油から原子力」みたいな考えです。
原子力エネルギーは、石油に比べれば無限に近いです。
でも、それでいいのでしょうか?
石油は昔から燃える水として存在知られていましたが、エネルギー資源と使われ初めて、2百年の経っていません。
それ以前は、石油は「貴重な資源」とは考えられていませんでした。
石油や石炭がエネルギー資源として活躍する前は、木炭が使われていました。
木炭は不便なので、「持続的発展」を抑制してきましたが、私は石油の使用による「持続的発展」の効果の方を高く評価したいです。
木炭の大量使用は、森林の伐採、砂漠化に繋がりました。
だから木炭から(石炭と)石油へのエネルギー資源を変えることは、森林保全になっています。
人類の歴史を見れば、環境破壊(特に森林伐採と砂漠化)は農業や牧畜と結びついている場合が多いです。
>ただ私が懸念するのは「石油から原子力」みたいな考えです。
>
>原子力エネルギーは、石油に比べれば無限に近いです。
>でも、それでいいのでしょうか?
この問題意識に同意します。目先の繁栄・利便性に囚われずに、次世代のために、この問題の解決策を考えていくのが、真の持続的発展を目指すことだと思うのですが、耳にするのは、そうではないことばかりであるように思います。
一部の団体の「目先の繁栄・利便性に囚われる」のが問題だと思うのです。
目先は大事だと思うのです。
タイム・スパンを考える時、自分の寿命をより長いと無責任になるの傾向があるのではないでしょうか?
無責任という言い方が不適切なら、理想偏重と言ってもいいのですが・・・。
★
山形浩生さんの環境問題に関する考えは、「優先順位を考える」ということです。
参考 1
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0807/04/news138.html
参考 2
http://cruel.org/kankyou/
山形浩生さんの書評
チェコの大統領ヴァーツラフ・クラウスの『「環境主義」は本当に正しいか?』(日経BP社)
http://bisista.blogto.jp/archives/1314690.html
>山形浩生さんの環境問題に関する考えは、「優先順位を考える」ということです。
「優先順位を考える」のは科学ではなく政治だと思います。
山形浩生さんの諸発言についての情報をありがとうございました。ご紹介頂いた記事を拝見しました。山形浩生さんの主張はさておき、考え方・見方の異なる他者との間での合意形成のための議論を否定しているような印象を与えている山形浩生さんの発言に強い違和感を感じました。
山形浩生さんに限らず、合意形成のための議論を否定するような発言を繰り返す人が多いのは残念なことです。
もちろん、そうです。
でもhiroichiさんを含め科学者も政治的な発言をします。
また政治的な決定に科学者の助言を求められることも多いです。
>山形浩生さんに限らず、合意形成のための議論を否定するような発言を繰り返す人が多いのは残念なことです。
「合意形成のための議論」が喧嘩別れになることは多いです。
だから「優先順位を考える」ことが重要になるのです。
政策には締め切りがあるので、終りの無い議論には参加できないのです。
参考
『人でなしの経済理論(トレードオフの経済学)』(バジリコ)
ハロルド・ウィンター:著(山形浩生:翻訳)
どんどん話がずれているようですが、続けます。
>でもhiroichiさんを含め科学者も政治的な発言をします。
>また政治的な決定に科学者の助言を求められることも多いです。
政策を決定するのは市民(政治、議会・行政)であり、そのための判断材料を、その不確からしさとともに提供するのが、専門家(科学者)の役割だと私は考えています。現実には、自分の専門外のことにも平気で自信たっぷりに発言している「科学者」が少なからずいます。科学者の、一市民・個人ではなく、専門家の立場での発言については、「専門家としての、その専門分野に関わる発言」であるのか、「非専門家あるいは一市民としての個人の意見表明に科学者の権威をかぶせた発言」なのかを注意深く区別する必要があると思います。
>「合意形成のための議論」が喧嘩別れになることは多いです。だから「優先順位を考える」ことが重要になるのです。
議論する際に、合意を形成することの意義を、どちらか一方が認めていない場合には、喧嘩別れしかないことになります。より良い「優先順位を考える」ためにも、合意形成のための議論は必要と思います(これは、おおくぼさんの発言に対する私の誤解でしょうか?)。
そうですね。
ここで終わりたいと思います。
お付き合い、ありがとうございました。
>より良い「優先順位を考える」ためにも、合意形成のための議論は必要と思います(これは、おおくぼさんの発言に対する私の誤解でしょうか?)。
はい、必要です。