管理人が故人に初めてお会いしたのは、彼が東京大学海洋研究所海洋物理部門の大学院学生であった30年以上も前であったと思う。故人は「溶存酸素量を指標とした南西諸島東側の流れの解明」を研究テーマとしており、当時、鹿児島大学で東中国海の黒潮についての観測研究を始めていた管理人と何かと親しく語り合った。故人が気象庁に職を得て、長崎海洋気象台に赴任された1984年以降は急激に交流が深まり、さらに2005年10月から2007年3月までは故人の出向先の同じ部屋で毎日を過ごしていた。以下は、故人との想い出の日々の詳細。
1.長風丸の代船建造
長崎には水産庁西海区水産研究所、気象庁長崎海洋気象台、長崎大学水産学部、海上自衛隊佐世保総監部と4つの海洋関係機関がある。管理人は1979年に鹿児島大学に職を得て以来、必ず年に1度は、西海区水産研究所と長崎海洋気象台を訪れ、大先輩や研究仲間との情報・意見交換をしていた。その地に故人が1984年4月に赴任されたのは望外の喜びであった。
故人は、観測航海や資料整理の傍ら、1982年に建造された、ほぼ同じ大きさの東京大学海洋研究所研究船淡青丸を参考に、同海洋気象台所属海洋調査船長風丸の代船の最新の観測装置他の仕様を検討・調整を担当され、忙しい中にも、楽しそうであった。新長風丸は1986年5月に竣工し、1886年暮れか1987年2月に管理人が長崎を訪れた時には、船内を隈なく案内して頂いた。
葬儀場の祭壇には、長風丸の観測航海の内容を紹介している福音館書店発行の月刊「かがくのとも」1991年10月号「きしょうかんそくせん(ぶん:坪井郁美、え:堀越千秋)」が飾られていた。この中で夜のデッキで星空を見ている男が故人である。この本は管理人も持っている。息子が幼稚園の時に定期購読していたのである。この本の中に故人のことが掲載されているのを発見して驚き、そのことを故人に話した時のちょっと照れた顔を懐かしく思い出す。
この長風丸は今月末に海洋観測の第一線を退く。この時に合わせたかのようなご逝去を思うと、偶然とはいえ、深い悲しみに襲われる。
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2.日本海洋学会西南支部の設立
九州・沖縄地区海域での海洋調査を担当する、気象庁、水産庁、海上保安庁、海上自衛隊、各県水産試験場の担当者が集まって西日本海洋調査技術連絡会議が毎年開催されている(昨年12月に第63回)。現場観測担当者の集まりであり、管理人にとっては年間行事の中で最も優先して参加した会合であった。毎回、午前中には、各機関から当年度の観測結果と次年度の観測計画が報告され、午後には調査研究報告が行われていた。少ない観測資料で捉えられた海洋、水産海洋、海上気象の種々の現象について、大先輩の方々とともに白熱した議論が戦わされた、実に楽しい会合であった。
この午後の調査研究をより充実させるために海洋学会支部を結成して、西日本海洋調査技術連絡会議の翌日に例会を開催しようという構想が1987年暮れの西日本海洋調査技術連絡会議の懇親会後の二次会の席で誰からとはなしに提案された。その時のメンバーは故人、長崎海洋気象台のEIさん、西海区水産研究所のMKさんと管理人であったと思う。いろいろな調整の後、1988年秋に長崎で海洋学会が開催された際に西南支部設立準備集会を開催し、翌年春には海洋学会幹事会で支部の趣旨や運営方針が承認された。1989年12月に第1回西南支部例会(海洋学会西南支部、水産海洋学会、海洋気象学会合同シンポジウム)が開催され、昨年には支部設立20周年を迎えた。
故人は、設立当初の西南支部と海洋気象学会との間の窓口となって、海洋気象学会から例会への援助資金の獲得に尽力された。この資金は、シンポジウムには東京地区からの話題提供者あるいは若手講演者の旅費の補助を行うことを通して、その後に開催された例会を一地方の小集会に留まらない会合としての維持・発展に大きく寄与している。
3.世界海洋循環実験計画
1990年には、約20カ国が参加して、太平洋、大西洋、インド洋の各大洋の東西あるいは南北両岸を結ぶ観測線で海底までの水温、塩分、化学トレーサーの分布の観測などがおこなう世界海洋循環実験計画(World Ocean Circulation Experiment, WOCE)が始まった。気象庁も我が国の関係各機関とともにWOCEに参加した。気象庁海洋気象部海洋課に異動された故人は気象庁におけるWOCE海洋観測計画(WOCE Hydrographic Programe, WHP)の推進に中心的な役割を果たされた。WHPが定めた実現不可能とも思えた基準を満たした観測を実行するため、時は上司と対立しながら凌風丸の代船建造を進めたようである。ただし、その苦労は故人の口から直接に聞くことはなかった。熱い情熱を内に秘めた、拘りの人であった。
管理人は、ISさん他と1993年から1995年にWOCEの一環として足摺岬沖黒潮横断協同観測を集中的に実施するとともに、1991年から1994年までWHP計画委員会委員としてWHPの国際的実施・調整活動にも参画していた。我が国の事情をWHP委員会で報告したり、WHP委員会の内実を国内に伝える際に、故人の存在が大きな支えになっていた。
4.沖縄周辺海域の海水流動
管理人は2001年4月から地球観測フロンティア研究システム兼務となり、長崎海洋気象台長風丸、長崎大学鶴洋丸、鹿児島大学かごしま丸を利用して沖縄周辺海域における海水流動構造の観測、特に南西諸島南東海域の北上流の存在を検証するための係留流速計・PIES・CTD観測を行った。この頃、故人は長崎海洋気象台海洋課長であった。観測現場には参加されなかったが、実行責任者として、奇しくも、故人の博士論文と関わる観測を共同して行う機会を得たのであった。この共同研究により、沖縄南方には非常に変動は大きいものの、平均的には北東向きの流れがあることが初めて観測で確認された。
5.大循環力学グループ
管理人が2005年10月から海洋研究開発機構常勤となって横須賀本部勤務となったとき、故人は、既に、気象研究所を経て、海洋研究開発機構に出向されていた。故人と管理人は、各々、地球環境観測研究センター海洋大循環観測研究プログラムの大循環力学グループと黒潮輸送・海面フラックスグループのグループリーダーとして、故人が気象庁に戻った2007年3月まで1年半の間、1部屋を共有し、一方が観測航海などで不在の時を除いて、毎日、顔を合わすことになった。故人は2003年8月から2004年1月の「みらい」による南緯20-30度帯を周回するWOCE再観測航海(BEAGLE2003)で得られたデータの解析に取り組む傍ら、観測航海の準備と実施の他のグループの運営を担当し、多忙な日々を過ごされていた。水温と塩分の観測資料から流れの分布を推定するインバース法に詳しく、管理人のグループの研究員の相談にも快く応じて頂いていた。管理人は、海面係留ブイ設置のための交渉や係留系回収のトラブルへの対応、他で何かと慌ただしい中、故人との科学的議論やとりとめのない日常会話が大きな励ましとなっていた。
6.おわりに
こうして故人との想い出の日々の紹介をしてきて、故人と管理人との間には深いつながりのあったことを改めて思いしった。故人は我が国における数少ない海洋観測のエキスパートの一人であり、気象庁のみならず我が国のこれからの海洋観測体制になくてはならない人であった。このような故人を失ったことは、極めて残念なことである。残された我々は、故人への想いを胸に、海洋観測研究を続けるしかない。ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
なお、文中には管理人の名前が記載されていましたが、管理人のHNである「hiroichi」に変更させていただきました。
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突然のメールで申し訳ありません。私金子郁雄の家内の金子XXです。
生前主人はhiroichi様には、大変お世話になりました。またお忙しい中通夜と葬儀の二度にわたって御参列いただきまして本当に申し訳ありませんでした。
主人からはhiroichi様の事は時々聞いておりました。
JAMSTECから気象庁に戻る直前だったと記憶しているのですが、XXXのお宅にお招きいただいて、ご夫婦で大変な歓待をしていただいた事も話しておりました。
この度はこのように温かいお心のこもった追悼文を書いてくださいましてありがとうございました。
実は主人の中学高校時代の恩師がhiroichi様のHP見てhiroichi様の追悼文を主人の母に送ってくれました。母は大変感激いたしまして、ぜひお礼を申し上げてくださいと、言付かりました。
また先日は過分の育英募金をありがとうございました。本当にhiroichi様はじめ皆さまには感謝しております。
hiroichi様の益々のご健勝とご活躍をお祈りしています。
金子XX
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奥様
ご丁寧なお言葉をありがとうございました。
先日、発起人の方から「育英募金ご協力へのお礼とご報告」とともに送られてきましたご遺稿「私の「健康信頼性改善レポート」」で自分の人間ドックのデータを示しながら、健康管理の議論をされているのを拝見し、故人の生前の研究に直向きに取り組まれていたお姿を偲んでおりました。また、奥様の御礼のお言葉を拝見し、故人とご家族の皆様の間の強い心の絆に、熱い思いがこみ上げてまいりました。
ご遺族の皆様が、これからの人生を、故人との思い出を胸に抱いて、力強く歩まれますことを、心より願っております。