13日の事業仕分けで科学技術関連事業予算の多くが廃止あるいは縮減の対象となった。このことについて、11月15日付けの拙ブログ記事「国家事業予算査定を「事業仕分け」で行う愚(リンク先を更新:2023年12月15日)」で、管理人は
結局、多くの自律的研究者が、国の支援を受けて自分が進めようとしている研究に対する国民の支持を得るために、各々が最善と思う方法で活動を進めるしかないのではないかと思う。ただし、このような活動を謙虚に実行できる第一線級の研究者が日本に果たしてどの位いるのかを考えると心許ない気もする。
と述べた。種々の学界組織やグループが表明した反対意見を見ると、残念ながら、どうも、この危惧は当たっていたようである。
表明された意見の多くは、我が国の科学技術研究開発従事者(あえて科学者とは言わない)が置かれている深刻な立場を理解しておらず、従来の牧歌的な自律的科学研究者の立場からの物言いのように見える。以下は、管理人が月刊海洋号外第40号(2005年5月発行)「海洋学の最前線と次世代へのメッセージ」で発表した「社会の中の海洋物理学研究(リンク先を更新:2023年12月15日)」で述べた内容の一部改訂・追加版。
1.はじめに
人工衛星リモートセンシング技術,精密電子利用技術と数値計算技術の飛躍的な発展に伴って,この30年間で海洋物理学は飛躍的に発展した.海洋物理学が今後も発展を続けるためには,海洋学を含む科学技術研究開発分野に次世代の人々を招き入れる必要がある.しかし,最近,国内外で子供たちの理科離れや社会の科学技術への関心の低下が何かと問題となっている.その対策として,教育カリキュラムの見直しや,科学者が専門知識を子供たちや社会に分かり易く説明し,その魅力を伝えるサイエンス・コミュニケーションの推進などの種々の試みが行われている.しかし,子供たちの理科離れや社会の科学技術への関心の低下の原因は,カリキュラムや情報不足ではなくて,科学技術あるいは科学技術者を取り巻く社会環境の近年の大きな変化に原因があるように私には思われる.
以下に,海洋の観測研究に取り組んできた者の一人として,折に触れて,海洋物理学を含めた科学のあり方について,考えたこと,感じたことなどを述べる.
2.科学とは何か
「科学」とはいったい何なのだろうか? 地球環境研究センタ-創立10周年記念講演会で初代センター長であった市川惇信[1]は,
科学とは,対象世界の無矛盾性,因果性,斉一性を前提として,観測という自然による審判に従いながら,普遍的な経験知を獲得する一つの過程である.すなわち、経験知、過程論、無矛盾という知全体の8分の1象限が科学の知である.
と述べている.最近の子供たちの理科離れは,矛盾だらけでご都合主義が蔓延している現代日本社会の実態が,科学が前提としている「無矛盾性,因果性,斉一性」について疑念を生じさせていることが原因かもしれない.
上に述べた科学の定義の表現はやや難しい.寺田寅彦[2]は,よりやさしく,
頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。偉大なる迂愚者の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である.
と科学について述べている.いまの世間には,科学研究の実際をこのように理解している人が少ないように思う.多くの人々は,「科学研究のような難しいことはあたまのいい科学者にまかせ,その成果を利用できれば良い.」と考えて,科学への関心を失っているように思われる.
「既成の概念や定説」に疑いを抱くという愚鈍さが科学の発展を支えてきた.大学時代の恩師は「真理の探究の前に師弟なし」という言葉を好んで発していた.この言葉は,「例え,教授・学生などのように身分・地位・経験が異なっても,真理を追究する研究者としての立場は同等である.指導者は自分の考えや方法を学生に押し付ける権利は無いし,学生は指導者に盲従してはならない.」ということである.独創的な研究を行うためには,このような気概が必要である.科学は既成の概念や定説という権威を打破することによって,新たな地平を開いてきた.不満を持ちながらも権威者である親や教師の言いなりにならざるをえない子供たちが権威に立ち向かうことを基本姿勢とする科学に親しみを感ずるのは至難の業であろう.
拙ブログ関連記事:
2008年05月06日 科学について知っていてほしい5つの事
3.科学の分類
現代社会において,海洋物理学研究を含めた科学研究を進める目的は何であろうか? 前述の市川惇信[1]は地球環境研究の進め方についての考察の中で,科学を以下の3つに分けて,論じている.
1)自律科学、Science for Scientists
2)統治科学、Science for Policy Makers
3)公衆科学、Science for the People
自律科学は,その研究過程自体が、次のテーマを決めていくような科学であり,その評価は、同僚によってなされる.統治科学は政策決定を誤らないようにする科学であり,その評価はどれだけ統治に貢献できたかで測られる。これは、産業に絡むような科学の世界でいうなら、産業科学に相当する.公衆科学は公衆の行動規範・行動様式を変えるような成果を出す科学であり,その評価は、説得力の強さである.例えば,レイチェル・カーソンの「Silent Spring (沈黙の春)」、シーア・コルボーンの「Our Stolen Future (奪われし未来)」などがある[1].
現代社会に生きる私たちには上の分類は非常に分かりやすいと思う.以下で,これら3種の科学の各々について,より詳細に検討する.
3.1自律科学
自律科学は,時の政権や社会からの干渉を排した「学問の自由」の対象となる科学であって,人類が直面する種々の限界(生死の壁,時間の壁,空間の壁,物質の壁)へ挑戦したいという,あるいは普遍的な経験知を獲得したい,経験について整合的な全体像を形成したい,という各個人が人類の一員として根源的に持つ内的欲求を追及するというボトムアップの科学であると思う.自律科学には多くの基礎科学が含まれる.
「生死の壁」とは,人間は必ず老化し,病に伏し,死に至るという宿命にあるということである.近代以前には,これらの病,老化,死への対策を施す専門家として祈祷師がいた.「時間の壁」とは,人間は未来に起こる事象を予知することができないということである.このため,種々の占いが現在も人々の心を捉えている.「空間の壁」とは,人間は今居る場所を離れては存在し得ないということである.古来,この限界を越えることができる人として,魔術師がいた.「物質の壁」とは,何もないところからある物を作り出すことはできないということである.
現代の医学,薬学を含めた生命科学分野の研究者は古代の祈祷師の,自然現象の予測を目指している天文学、気象学、海洋学、火山・地震学を含めた宇宙地球科学分野の研究者は占星術師の,航空機や通信機器を開発している研究者は魔術師の,種々の化学合成品の開発を行っている化学者は錬金術師の末裔であるといえよう.
自律科学は,その社会性や倫理性を失うと,いわゆるMad Scienceに陥る.最近の生命科学の研究課題について強い倫理性が望まれる所以である.
最近の子供たちの理科離れや科学技術への関心の低下は,経済社会情勢や家庭環境の不安定化によって個々の内的欲求が抑制されて,上に述べた人類が根源的に共有する限界に対する挑戦心が薄れたことが原因かもしれない.
3.2統治科学
自律科学が各個人の持つ内的欲求を追及するというボトムアップの科学であるのに対し,統治科学は,国家の政策,企業の経営方針,あるいは社会的要請(出世,金銭などの個人的欲望も含む)によって引き起こされた外的欲求に応えるために行うトップダウンの科学である.国民の税金あるいは企業の経費を用いる研究は,その研究の発端が内的欲求に基づいていても,出資者である国民あるいは企業への成果の還元という責務を負っている点で,統治科学の側面を持っている.
統治科学の本来の目的は政策決定を誤らないようにする科学,企業の健全経営に資する科学,あるいは社会の健全な発展に寄与する科学である.しかし,その倫理性を失うと,いわゆる御用学者の類に陥る.また,功名心,名誉欲,金銭欲に駆られてデータ捏造に走った例もある.
御用学者とは,「政策決定を誤らないようにする」のではなくて,「誤った政策決定に権威と裏付けを与える」科学者のことをいう.海洋開発に関わる調査研究で言えば,開発推進を図る為政者あるいは開発反対派住民のために,都合の良い科学的根拠を権威者として提供する科学者である.統治科学は政策決定のための判断材料・根拠(予想されるメリット・デメリット,影響,効果など)を提供するのみで,政策を決定するのは行政・議会の役割であるはずである.それなのに,都合の良い「学者」のみで構成された審議会などの判断を根拠に,そのまま決定・主張する,すなわち「学者」の権威を利用する風潮が官民を問わず数多く見られる.このことが,為政者と住民の双方の不信を招くとともに,子供たちの理科離れや科学技術への関心の低下をも招いている.自らの偽りの権威を否定し,「どこまでは分かるが,分からないことは分からない」と明言する真摯な行動の積み重ねによって人々の信頼と尊敬を得ることが,子供たちを科学の世界へ引き込む道であろう.
3.3公衆科学
公衆の行動規範・行動様式を変えるような成果を出す公衆科学に貢献するのは,多くの科学者の夢であるかもしれない.ただし,自律科学あるいは統治科学の成果が結果として,公衆の行動規範・行動様式を変えたのであって,公衆の行動規範・行動様式を変えるために研究が行われるのではない.逆に,その倫理性を失うと,大衆に迎合する似非科学者に堕する結果となる.科学の本質である,「無矛盾性,因果性,斉一性」と「観測という自然による審判」を無視し,検証不能な個人的な経験知や夢想をもって科学的論考と称する似非科学者が数多く見られる.このような怪しげな似非科学者の蔓延は,子供たちの科学への不信感を増し,「理科離れ」を増強する効果しか招かない.
公衆の行動規範・行動様式を変えるという意味で,公衆科学と宗教は類似している.人間の生き方を示す仏典や聖書はある意味で「普遍的な経験知」を公衆に提示しているといえよう.しかし,科学と宗教が異なる.仏教では「悟り」を開くために種々の修行が行われる.「悟り」を開いた覚者は全てを理解しているが,その内容を「悟り」を開いていない人には伝えるのは難しい.結局,修行させるしかない.一方,その前提とする「無矛盾性,因果性,斉一性」の下に論理を展開し,「観測という自然による審判」の結果を明示することを通して万人に研究成果(普遍的な経験知)を伝えるのが科学である.研究成果を子供たちを含めた公衆に紹介することも科学研究の重要な活動の一環である.
4.おわりに
近年,政府の科学技術研究開発推進の方針によって,膨大な経費が重点的に科学技術研究開発に配分されている.このため,国の方針に従うトップダウンの統治科学が全盛を極め,ボトムアップの自律科学研究が瀕死の状況である.
公共土木建築建設事業が縮退する中、科学技術立国政策の下で拡大を続けてきた科学技術研究開発事業は今や我が国における一大利権産業となっている。基礎科学と言えども、巨大実験科学の検証対象を提示するという経済的役割を担っている面もある。科学と技術の違いを強調しても、意味はない。生命医療科学は製薬会社とつながっている。大学は知的財産の抱え込みを目指している。今、国民は、この利権産業化した科学技術研究開発事業に疑いの目を向けていると思う。このような状況において、ボトムアップの基礎科学の重要性を説いても意味はない。
そもそも、現在の我が国の各大学で進められているはずのボトムアップの基礎科学研究では、本当に、人類が直面する種々の限界(生死の壁,時間の壁,空間の壁,物質の壁)へ挑戦したいという,あるいは普遍的な経験知を獲得したい,経験について整合的な全体像を形成したい,という各個人が人類の一員として根源的に持つ内的欲求の追求となっているのだろうか? 「頭のいい人」が、手軽に地位と名誉と尊敬を得るために行っているのが科学研究だと思っている人が少なからず居る(ブログ「404 Blog Not Found」の記事「大学運営がビジネスライクになった本当の理由」への2009年02月09日 01:30の「迷惑なコメント」さんの「学問が、好奇心ならぬ功名心によって腐っていくんだよ。」という言葉が心に突き刺さっている)。国民の信頼を得るために個々の科学技術研究開発従事者がすべきことは多々ある。決して、「基礎研究は短期的な成果を期待するものではない」と大きな顔で言うことではない。
内的欲求の追求を否定するものではない(内的欲求への追求心がなければ研究者ではないと思う)が、現代社会における科学技術研究開発は、研究者個々人あるいは研究組織が、国民および人類への責務(nobless oblige)を強く意識しながら,多様な価値観の存在を容認し,眼前の事象に囚われない豊かな想像力と透徹した考察力,厳しい倫理観を持って設定する外的欲求に応えるために行われるべきであると考える。
拙ブログ関連記事:
2009年03月22日 「科学評論家」が不要な社会に
参考文献
[1]市川惇信(2001):ダーウイン・ディレンマを超えるために.地球環境研究センターニュース,Vol.11,No.12(通巻第124号).http://homepage3.nifty.com/a-ichik/lecture/DarwinDilemma.pdf
[2]寺田寅彦(1933):科学者とあたま.「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編に所収、岩波文庫、岩波書店(初出:昭和8年10月、鉄塔).http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2359_13797.html
<付記>
これから科学研究の道を進もうと思っている学生諸君の中には,これまでに多くの研究成果が蓄積されており,自分が新たに参入できる研究課題はないと思う人がいるかもしれない.モデルと検証実験とによって急速な進化を遂げ,究極のモデルが提案されたと思われていた1970年代に風波の発達機構に関する研究を進めていた私も修士論文作成中にこのような思いに囚われた.そのとき,恩師の一人から,自律科学の定義そのもの,すなわち「いまの研究を進めていけば,必ず次のテーマが見つかる」との助言を受けて,大いに励まされ,博士課程進学への決意を新たにした覚えがある.
学生諸君には,せめて学生時代には,経済社会情勢,研究環境,先輩の研究成果に惑わされず,己の内的探求心に応える研究課題を見出し,自律科学研究の醍醐味を味わってほしい.そして、卒業後には、上に述べた視点から設定した外的欲求を追及してほしい。
たとえば、数学ができる・できない、というのは、100mを12秒で走れるか否か、と同じ話だと思っています。才能ある人間であれば、訓練することで、12秒で走ることができるようになるでしょう。しかし、誰でもが12秒で走れるようになるわけではない。そして10秒を切ることができるのは、限られた人間だけです。
少しの訓練で、12秒を切れた人は、努力しても15秒でしか走れない人のことがわかってないない、と感じます。努力しても12秒なんて到達できないな、と自覚した人は、100m走にエントリーなどしません。12秒をクリアした人が、競技への参加者が少ないと嘆いても、現在の予選のレベルが12秒なら、そこに到達しないと自覚している人は、参加するわけがないでしょう。
100m走の競技に興味をもってもらうことと、12秒の予選レベルをクリアした競技者を増やすことは別のハズですが、それがゴッチャになった論理をよく見かけます。そして、できる人からはわからないでしょうが、予選レベルは高い、と感じる人が多いということです。
ご参考まで
>子ども達の理科離れを社会に原因を求めていらっしゃるように読みました。
説明不足でした。
「子供の理系離れ」や「社会人の科学技術への関心の低下」の原因を、科学技術への信頼・期待を阻害する社会の変化や科学技術研究開発従事者の行動に求めています。
>予選レベルは高い、と感じる人が多いということです。
gpさんのご意見は、「理科が得意ではないと感じている子供が理科離れしている」ということでしょうか? であるならば、gpさんのお考えに反対します。多くの子供に「理科が得意ではない」と感じさせる源は、個々の子供の生まれながらの資質ではなくて、不適切な教育・環境だと思ってます。
理科離れの中核は大学以上レベルでの話かと思っています。小学校・中学校の理科は想定していません。社会的に戦力となるのは、大学以上のレベルですので。となると、根源的な問題として、能力の有無があるということです。それを指摘したまでです。
うまく教えれば、理科好き&得意になってくれるかも・・・というのは、現場を知らないナイーブな意見に見えます。研究者が、理科Love でそう思いたくなるのは理解致しますが、現場はそんなに甘くありません。他にもすべき科目は多いわけですから。それに、好きになってもらう・・・というのは、ある意味、上手なプレゼンが必要、ということですが、ノーベル賞受賞者が揃いも揃ってパターナリズムのプレゼンするようじゃ、科学を好きになる人などいないでしょう。
教育と環境に問題があるのは、理解していますし、ドラスティックに中学・高校の教科配分や入試体制を変えれば、状況は多少変わるであろうとは思っています。ただ、根本的には無理ですよ。それは、「最近の若者は」という言葉と同様に、「科学を理解し、やる人が少ない」というのは、昔から言われてきていることですし。
ご説明をありがとうございました。誤解していました。
>理科離れの中核は大学以上レベルでの話かと思っています。
「小学生高学年から急速に理科への興味を失っている」と聞いていたのですが、gpさんの現場でのご経験では、そうではないということなのでしょうか?
>ノーベル賞受賞者が揃いも揃ってパターナリズムのプレゼンするようじゃ、科学を好きになる人などいないでしょう。
強く同意します。このことが本記事の主旨でさえあります。
>「科学を理解し、やる人が少ない」というのは、
ここでgpさんが理解の対象としている「科学」とは「科学の知識」でしょうか? それとも「科学についての知識」でしょうか? 私は「科学の知識」を否定はしませんが、それよりも「科学について知識」が普及することを願っています。
> 「科学について知識」が普及することを願っています。
同意致します。一見、異なった見解のようで、同じお考えのようです。コメント欄でのコミュニケーションの難しさを感じます。
>一見、異なった見解のようで、同じお考えのようです。
gpさんと私とが同じ考えのようであるとのお言葉をお聞きして、嬉しく存じます。
>コメント欄でのコミュニケーションの難しさを感じます。
言葉のみを通しての議論では、時間がかかるのは仕方がないと思います。相手の言わんとすることをなんとか理解しようとする作業と、自分のあいまいな思いを相手になんとか伝えようとする作業を繰り返す中で、自分の考えがより深まることに、私は喜びを感じています。
今後とも宜しくお願い申し上げます。