管理人は、今回の事業仕分けによって、今までの自民党時代には密室で行われていた予算編成作業の一部が広く公開されたことを高く評価する。しかし、元々、事業仕分けとはシンクネット「構想日本」が提唱している行政サービスの評価方法であり、その方法を国家事業予算編成の調整に採用されたことに違和感を感じる。また、このような事態を招いたのは、これまでの予算編成を自民党実力者たちと仕切ってきた財務省である。その財務省が「事業仕分け」を補佐・主導していることにより、単なるコストカットのためだけに終わることを危惧している。以下は、その詳細。
1.「本来の事業仕分け」とは?
多分5年以上前の海洋学会MLでの紹介記事で興味を持って以来、構想日本のメールニュースをチェックしていた管理人は、事業仕分けは「地方自治体の行政サービスの合理化」を目指したものであると理解していた。「行政サービスの合理化」という明確な目的の下での事業仕分けは有効な手段であると思う。また、自民党政権下で事業仕分けによっていくつかの省庁の事業内容の見直しを行ったのも画期的な行政改革行動であったと思う。
実際、事業仕分けを提唱してきた「構想日本」のウェブサイトでは、その冒頭に、
2002年に始めた行政の事業仕分け。最近は歳出削減の切り札のように言われることが多くありますが、当初は行政改革を目的としてスタートしました。と明確に記載されている。
行革が進まない原因は、「前例踏襲主義」の行政と「あれもこれも」の政治家の姿勢もさることながら、議論が主に役所からのヒヤリングに基づいて行われるため、もともと官僚(行政職員)が立案した事業の趣旨、目的などの説明を聞いている限り、具体的な反論をするのは困難だからです。
これに切り込んでいくには個々の事業ごとに、現場の声や実情に基づいて事業の必要性や本来あるべき姿を再考するしかない。それを具体化したのが事業仕分けです。
構想日本が定義する事業仕分けは以下の5点 。
国や自治体が行なっている事業を、
1.予算項目ごとに、
2.「そもそも」必要かどうか、必要ならばどこがやるか(官か民か、国か地方か)について、
3.外部の視点で、
4.公開の場において、
5.担当職員と議論して最終的に「不要」「民間」「国」「都道府県」「市町村」などに仕分けていく作業。
仕分け作業で出た結果はあくまで参考材料であり、拘束力はありません。最終的にその材料をどう料理するかは、首長、議会の責任だと考えるからです。ただし、議論の中で出てきた論点についての再考や、結果がその後の庁内議論を経てどのように対応されたかを、公表することを義務付けています。
2.行政刷新会議ワーキンググループによる事業仕分け
これについては、例えばブログ「タケルンバ卿日記」さんが11月13日付け記事「事業仕分けの論点」で良く整理して持論を展開されている。また、ブログ「Joe's Labo」さんの11月12日付け記事「前進がいいけど、漸進でもかまわない」やブログ「Baatarismの溜息通信」さんの11月14日付け記事「「事業仕分け」の裏側は?」とそれらのコメント欄で、財務省とのかかわりを主とした議論が活発に行われている。
2.1 可とする点
多くの人が、現在の我が国の政治・行政状況に対する改革の必要性を感じて、選挙で政権交代を実現させたこともあってか、今回の行政刷新会議ワーキンググループによる事業仕分け作業の報道やネット配信に対して、事業仕分けそのものに強く反対する人はいないようである。ブログ「タケルンバ卿日記」さんの以下の記述に管理人も強く同意する。
とにもかくにもこれだけの事業を短時間でも第三者視点で議論するというのは、これまでの日本政治に前例がないわけで、短いし拙速だし、問題はあるけども、議論をしないよりはマシなんじゃないですかね。少なからず事業のいくつかに問題点があるのは明らかになったし、国民的な関心も巻き起こしているし。
議論の時間が短いことによるデメリットはあるけど、個人的には「議論している」のメリットの方が上回ると感じておりますよ。ま、これは価値観の問題。「デメリットの方が大きい」と思う人がいることに関してはしょうがないよね。
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で、現在は長く続いた自民党政治の問題点を洗い出しているわけで。それもこれも政権交代があったから。政権が代わったから、それまでの施策を再点検することになった。
それだけでも政権交代の意義があったと思いますし、「良いか悪いか」で言えば「良い」だと思っているわけです。
2.2 否とする点
上に述べたように、管理人も、「今回の行政刷新会議ワーキンググループによる事業仕分け」を、総体として可とするというか、高く評価する。しかし、どうしても言わざるを得ないことがある。それは、今回の行政刷新会議ワーキンググループによる事業仕分けは、政権交代直後のマニフェスト実現最優先の予算を確保するために行っているとしか思えないことである(上述のブログ「Joe's Labo」とブログ「Baatarismの溜息通信」の記事参照)。「無駄を無くす」と称してはいるものの、当初の事業仕分けの目的である行政改革とは全く異なるものである。
自民党政権の圧力下で、財務省が、今回のような「見かけの無駄を無くする」とか「投資効果」とかのみを判断基準とする方法で過去の国家予算を編成し続けてきたために、今の我が国の安心できない状況があると思う。「これまでの予算編成を自民党実力者たちと仕切ってきた」財務省主計局が選定してきた事業についての見直しを行うだけでは、財務省の持っている予算に関わる権限の地方への移譲や天下り先解消というような根本的な行政改革はできず、その結果、将来に対する不安に苛まれている国民の新政権への期待に応えられない結果となる。
毎日新聞11月14日付け朝刊の記事「ドキュメント・鳩山予算:「未来館」維持、毛利さんも登場 広がる仕分け不満」(ウェブ魚拓はここ)に以下の記述があった。
総務相は9日の刷新会議でも、財務省OBの天下り先の独立行政法人を仕分けの対象にするよう求めた。財務省は「うちに対するいやがらせ」(幹部)と受け止める。この発言をした財務省幹部の官僚としての資質を疑わざるを得ない。相手の発言を「いやがらせ」というスタンスでしか受け取れない人間が、他の人に「いやがらせ」以外の言葉を発するとは思えない(人は自分の考え方から他人を言動の裏を判断しがちである)。また、同じ記事に、
藤井裕久財務相は同日夕のテレビ収録で、「今まで(財務省が)できなかったことができているのでありがたい。全面的に予算に反映させたい」と述べ、“成果”に満足げだ。という記述がある。重大な失言である。少なくとも、「鳩山首相の構想実現に向けて大きく貢献できた」とでも言わないと、収まらない状況であることを理解していないようである。
2.3 今後への期待
ワーキンググループの民主党議員たちは、新政権を担う政治家の一員としての信念と矜持を保持し、財務省の権限をも削減する方向に活動してほしい。
しかし、以下のような日経ニュースの報道(ウェブ魚拓はここ)がある。
首相、「事業仕分け」今年限りを示唆日経ニュースがこの記事がどういう意図で流したのか不明だが、財務省改革という視点が見事に消されている。政治主導を掲げる鳩山首相ならば「財務省の協力を得る現行方式は今年限りの措置だ」と示唆すると思うのだが・・・
鳩山由紀夫首相は12日、行政刷新会議の「事業仕分け」について「来年は我々(政治家)がすべての責任を持ってやらないといけないので、事業仕分けというのはおかしな話だ」と述べた。そのうえで「今年は旧政権の中で温められていたことが大半という状況だからこういうことが起きてくる」と語り、民間有識者の協力を得る現行方式は今年限りの措置だと示唆した。(00:37)
3.科学技術関連事業予算の廃止、縮減について
13日の事業仕分けで科学技術関連事業予算の多くが廃止あるいは縮減の対象となった。このことについて、サイエンスコミュニケーションの榎木英介さんが民主党に送ったメッセージも公開されている(緊急メッセージ、未来の科学ために)。このメッセージの即効性は疑問だが、今後のためには、非常に重要な活動であるとは思う。
結局、多くの自律的研究者が、国の支援を受けて自分が進めようとしている研究に対する国民の支持を得るために、各々が最善と思う方法で活動を進めるしかないのではないかと思う。ただし、このような活動を謙虚に実行できる第一線級の研究者が日本に果たしてどの位いるのかを考えると心許ない気もする。
4.おわりに
管理人が、今回の事業仕分け劇場について最も高く評価するのは、出演者が全て公開されて、記録されているということである。「仕分け人」のみならず、この事業仕分けを裏で取り仕切ったつもりの財務省主計局員も、「仕分け人」の追求を受けた各担当者も、その各々が、いつ、何を、どう発言した、のかがネットに残ったことである。このことにより、もはや、出演者が責任逃れをする場はなくなったのである。日本の行政組織が「無謬主義、減点主義」から「リスク管理、加点主義」へと大きく変わることに期待したい。
仕分け人が審議中に「交付金は複雑すぎて訳が判らん」などと言い放った件についてですが、これには、
「あまりにも細かく区分別けされ過ぎていて、かつそれが複雑に絡み合っている」場合。
「そもそも仕分け人が仕分け人としてのスキルが全くない」場合。
という二つの見方があります。前者だと、そもそも現政権は野党時代に何をしていたのか?今まで何を見てきたのかという話になるし、後者は何で能力の足らない人間を仕分け人に選んだのか?第三者能力の無い人間を呼んでどうするのか?という話になります。
何しろ「これだけの事業評価を1時間でどうして判断できるのか?」と思うほど重たい内容ばかりを審査しているのに、実はほとんど減額できていません(目標は15兆円)。
失笑モノなのが「それ(総務省の行政監視機能)は国策として政治主導でやってください」と役人に正論で反論されたら皆黙ってしまったという事は、そもそも仕分け自体が民主党の政治的演出であるという、いかに低い志で運営されているかという事が容易に判明した点です。
>これにも異を唱えます。
頂いたコメントは本記事で言及している内容について引用していません。本記事のどこに反対なのでしょうか?
「仕分け自体が民主党の政治的演出である」から評価しない、というHMSさんのお考えをお知らせいただいたということでしょうか?
小生が疑問と申しますか疑念を抱いたのは、
2.行政刷新会議ワーキンググループによる事業仕分け
で、タケルンバ卿氏および管理人氏共に「やらないよりはマシ」と考えておられる点です。小生は「能力のない人間にやらせるのは状況を悪化させるだけ」と考えております。
前述しましたように「仕分け人」に仕分ける能力がなければ、仕分ける意味はなく、本当に仕分けたいのなら大元の補助金を貰っている各法人および特別会計に切り込むのが筋でしょう。そうしなければ「利権の温床」は保全されたままなのですから。
それを「個別の事業だけ取り上げて目立つものだけ1時間で説明させて終わり、しかもそれには何の法的拘束力もありません」ではとてもじゃありませんが「事業仕分け」ではなく「国民にウケる政治的パフォーマンス」に過ぎません。それを有益と考えるのは「価値観の相違」以前の問題です。
ところでこの仕分け人なる連中の中で「科学リテラシー」を身につけた人間は何人居られるのでしょうか?科学技術にあれだけ切り込んだのですから当然具備しているんでしょうね?と問責したいところではありますが。
ご丁寧なご返答をありがとうございました。
>小生は「能力のない人間にやらせるのは状況を悪化させるだけ」と考えております。
能力のある人間がやって状況を悪化させたことも多々あります。ともかく、失敗を恐れて何もしないよりは、誤りが判明したら速やかに修正するという意味で試行錯誤を繰り返す方がベターと私は考えています(能力がある人間にやらせると速やかな修正が効かないというのが無謬性を建前とする官僚制の弊害だと思います)。
とんでもない。行政評価・監視機能の強化について言えば、各省庁が自身の所掌事務の遂行状況を自己評価するというのならばともかく、外部または分野横断的な視点による評価機能を行政府の中に求めることは予算配分や法律の不備にまで踏み込まなくてはならないので、民主主義の基本中の基本たる三権分立に違背します。
そもそも行政評価・監視機能は天下取りを目指す野党、あるいは、自らに有利な政策を望む利益集団の政策立案機能の中に属するべきものであって(だからこそ政府外への情報公開とセットで論じられる)、執行機関の行政府が行うのはそもそもお門違いですし、仮にその機能を税金で賄うにしても、せめて議会の付属機関か独立した第三者機関によって実現されるべきものです。
上記を全く理解していない(だから総務省の役人に正論で反論されて誰も言い返せなかった)仕分け人には小生は「能力は無い」と切って捨てているのです。
どうかそこをご理解いただきたく思います。
追加説明とTBをありがとうございました。
>どうかそこをご理解いただきたく思います。
と言われましても、やはり私にはHMSさんのコメントの主旨が分かりません。TBされたエントリーでも拙ブログへのリンクが張られているだけで、直接的な言及(例えば、どこどこの文章の記述が間違っている、など)がありません。
HMSさんが「仕分け」にご反対であるということは分かるのですが、何をどのようにして議論を深めていきたいと思っておられるのか理解できません。「現状改革を志向するな」ということでしょうか? そんなことはないと思うのですが? 直接的な表現でご教示いただければ幸いです。
>「現状改革を志向するな」ということでしょうか?
管理人氏には大変失礼ながら、どこをどのように読まれたらそのような解釈になるのでしょうか?小生の論旨はただ1点、「能力の欠如した人間はモノを語るべからず」に尽きます。
財務(主計)のお絵描き&「とにかく事業終了」「今後も類似事業には予算を投入する気はない」という前頭葉激しく欠落系の仕分け人の所為が議論などというのは笑止千万です。
事業継続判定条件を定量的もしくは立証可能な形で提示してこないのは万が一にもクリアされたら否応無く予算を承認しなければならなくなるからに過ぎないからでしょうに(=火あぶり前提で裁判が進む魔女狩りと同じ)。大蔵が財務と金融に分離したのは住専処理の失敗に基づく「政治主導」だと記憶しておりますが。
よって財務&仕分け人には「事業仕分けの能力無し」と断定せざるを得ません。現業で動いている人間としては相応の考え・責任もなしに、馬鹿なことばかりされては困るし、後々の議論に対しても支障を及ぼす物でしかありません。
度重なるご返答をありがとうございました。
>「能力の欠如した人間はモノを語るべからず」に尽きます。
誰が「能力の欠如した人間」と判断するのでしょうか。批判・批評・助言する人間を批判・批評・助言される側の人間が無能呼ばわりしていたら、いつまでたっても現状改革のための対話は進まないと思います。
冗談じゃありません。今回の事業仕分けによって確かに端金は回収できましたが、それ以上の展望はなく、後はそれによる弊害が待っているだけ、というのですから、財務省担当者が喜ぶだけの結果です。しかも、弾よけを事業仕分け人が代行してくれると言うから願ってもない話ですね。
それほど言われるのであれば、今後の立て直し、もしくは成長戦略はどこに示されているんですか?
事業仕分け人の結果責任は、政治家同様厳しく問うべきであって、民間人だからといっても、そのような決定に手を貸した重大な瑕疵にはそれなりに代償を支払うべきです。
対話しようにも対話できるだけの能力すら、彼らは持ちあわせていないではありませんか。
貴ブログでの言及をお知らせいただきありがとうございました。ともかく、行動することでしょうね。
今後とも、宜しくお願いします。
もし本当に自分達の研究が必要だと思うなら、政治家に伝わる言葉で話すべきだと思うのです。
日本はガラパゴス化していると言われます。
これはいい意味と悪い意味と両方で使われますが、原因は専門領域がブラックホール状態だからだと思うのです。
>もし本当に自分達の研究が必要だと思うなら、政治家に伝わる言葉で話すべきだと思うのです。
今までの大型研究の多くは関係する一部の官僚と政治家にのみ伝わる言葉で予算を獲得してきたと思います。今、求められているのは、その決定過程をオープンにして、より多くの国民の理解を得ることだと思います。国民の理解を得るための方策には、いろいろあるとは思いますが、その基本は「時間をかけ、言葉を尽くす」にあると思っています。
政治家を騙すというか、丸め込む手口ばかりが開発されてきたという気がします。
今は、ネットで簡単に発言できるので、個人の責任で一般向けにドンドン主張していくべきでしょう。
そうすれば啓蒙と研究の一石二鳥になります。
間違った説を主張することが問題なのではなく、「どうして間違った説を主張するようになったか?」が重要だと思うのです。
特に理科系教育を真面目に受けた人達が、教科書通りに忠実に考えたゆえに、間違った結論に辿りつくということがあります。
例えば、「温室効果は熱力学の法則に反する」という主張です。
これは教科書の記述で、電磁波についての説明不足が原因だと思うのです。
あと受験重視で、実験や野外学習の授業を軽視しているのも原因だと思います。
>今は、ネットで簡単に発言できるので、個人の責任で一般向けにドンドン主張していくべきでしょう。
大型の研究費を公正かつ合理的に配分するシステムがいろいろ試みられていますが、まだ、十分とはいえないのが現状だと思います。4月19日の公開シンポジウム「日本に科学技術政策はあるのか」でも、この点(適格者がいないこと)が議論されていました。
>特に理科系教育を真面目に受けた人達が、教科書通りに忠実に考えたゆえに、間違った結論に辿りつくということがあります。
暗記優先の理科教育の弊害だと思います。探求型科学教育(詳細は、以下の記事、資料をご覧ください。)の推進・普及が必要なのだと思います。
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/6501653.html
http://rikashien.jst.go.jp/news/20081017.pdf
お気付きかもしれませんが、上のコメントで示したURLに誤りがありました。以下のように、訂正します。
訂正前:
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/6501653.html
訂正後:
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/7835985.html
拙ブログ記事「サイエンスアゴラ2007」ではなくて、「サイエンスアゴラ2008」でした。
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20100505
参考までに。
ご紹介いただいたブログ記事を拝見しました。
内田麻理香さんの新著『科学との正しい付き合い方』については賛否両論が飛び交っていますね。その中で、小島さんの記事の対極かも知れませんが、以下の2つの記事が私にとって示唆に富んでいるように思っています。
瀬名秀明の時空の旅:
http://senahideaki.cocolog-nifty.com/book/2010/05/post-d4f8.html
Chromeplated Rat:
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2010-05-03-2
小島さんの記事中の以下の記述については、「このように反応する人もいること」を肝に銘じておきたいと思います。
科学者とかそれっぽい立場を自称する人の多くは「説教」が大好きで、自分の専門をかさにきて、市民を叱りまくる。ちょっとした間違いや誤用でも容赦しない。でも、これは何か間違った「特権意識的失語症」であるように思えて仕方ない。ことばやものごとの理解は多様だし、いろんな段階がある。みんな科学に憧れを抱いているから、自分なりの理解を何か言ってみたい。それを細かいことで間違いを指摘され叱られ続けたら、そんな人の話に耳を傾けたくなくなるし、心の中ではそんな奴いなくなればいい、と思うだろうし、税金でそいつらを食わしていくことに腹がたってくるだろう。
科学が発展しても謎は多いです。
また専門家には既知でも、普通の人には未知のことも多いです。
まず、不思議さを感じることから始まると思うのです。
そして、感じた不思議さを自分で解読したいという欲望が科学の原動力だと思います。
教育の現場は、研究の現場とは違い、「サムシング・ニューイズム」である必要はありません。
だから科学が日進月歩で変わっているという実感が湧きにくいと思うのです。
>感じた不思議さを自分で解読したいという欲望が科学の原動力だと思います。
強く同意します。
>だから科学が日進月歩で変わっているという実感が湧きにくいと思うのです。
おおくぼさんのお言葉をいいかえれば、これは、教育現場では、固定した科学知識を覚えさせることが重視されている結果だと思います。
そうではなくて、持論の繰り返しですが、「科学的な思考方法」を生徒が身に付ける手助けをする探求型科学教育に重点を置く必要があると思っています。