2009年10月21日

京都市上京区の阿弥陀寺

日頃、愛読している「生きるすべ IKIRU-SUBE 柳田充弘ブログ」の10月19日付けの記事で、日本画家上田幸子さんが阿弥陀寺(同市上京区寺町通今出川上ル)で制作を進めてきた天井画が完成し、19、20日に一般公開されたのを知った(10月15日付け京都新聞他で報道されていた。ウェブ魚拓はここ)。寺町通今出川上ルの阿弥陀寺といえば、管理人が大学院学生時代の1978年4月から鹿児島大学へ赴任する1979年7月まで下宿していたお寺である。以下は、阿弥陀寺の名に触発されて思い出した30年以上前の京都での下宿生活など。


1.下鴨膳部町
1968年3月に新潟から亡父と二人で大学入試合格発表に京都に行った。不合格の場合でも、京都の予備校に通うつもりだったので、私は予備校入学のために参考書を、亡父は予備校の入学金を持参していた。幸い、合格していることが分かり、手を取り合って喜んだ(後日、高校に伝えられた入試成績は、合格最低点+3点であった。担任からは、「執念で合格したね」と言われた)。

早速、大学の下宿斡旋所に行き、紹介されたのが、北大路と下鴨本通りの交差点(電停洛北高校前)をちょっと南に下がった下鴨膳部町の下宿であった。大学まで徒歩で下鴨神社の境内と糺の森を通って20分程度であることや、玄関を入って、横の庭を経た離れの2階の6畳一間であること、道路と庭に面して窓が2面あることなどから、すっかり気に入り、契約した。炊事場なし、風呂場なし、トイレ・洗面所・洗濯機は戸外にあったが、気にならなかった。大家さんは、母屋に住むご老人(後で知ったが兄と妹であった)。家賃は当時としては、ちょっと高めの6500円だった(当時の下宿代の相場は1畳1000円だった。授業料は年間12000円)。

結局、この下宿に、学位論文の目途も立った1978年3月までの10年間居て、大学紛争時を含む教養部、学部、大学院時代を過ごした。当初は門限があったが、離れということもあってか、半年足らずで、深夜も出入り自由になった。この下宿を舞台とした学生時代の思い出は尽きないが、種々の友人たちと夜を徹して酒を飲みながら語り合ったことが懐かしい。

下宿を変わることになったのは、当時、下鴨膳部町の広い地域を所有していた大地主が事業に失敗して、土地を手放すことになり、借地人に転居が求められ、大家さんがそれを受け入れたたためであった。後年、再訪してみると、下宿のあった家の敷地跡は学生マンションになっていたが、その周囲の家々に変わりはなかった。

2.阿弥陀寺
どこの不動産屋であったか忘れたが、ともかく町の不動産屋を通して阿弥陀寺に下宿することになった。友人の一人の下宿がかって付近の家の蔵であったので、その影響で寺町通今出川近辺を選んだのかもしれない。阿弥陀寺に織田信長のお墓をあるのは知らなかった。お寺の門を通って、庫裏の建物の戸口から奥に入った離れで、2方が濡れ縁の6畳一間であった。やはり、炊事場なし、風呂場なし、トイレ・洗面所・洗濯機は戸外にあった。ご住職とはお話しする機会がなかったが、奥様とは、時折、お話しする機会があった。1975年に文化勲章を授賞された広中平祐さんが渡米前に同じ部屋に下宿されていたのをお聞きしたことがある。

下鴨膳部町から阿弥陀寺に転居するときには、研究室の仲間に「焼き肉食い放題」という報酬で手伝ってもらい、引っ越し終了後、元田中の小さな焼き肉屋で、盛り上がったのを思い出す。この店のホルモンCは絶品だったと今でも思う。

学位取得に目途が立っていても就職の目途は立っておらず、将来の不安を抱えながらも、研究に邁進しながら毎日をそれなりに楽しみながら過ごしていた。結局、16ヵ月で阿弥陀寺を離れた後は、葉書一つのご挨拶もせずに、30年以上が経ってしまった。機会があれば、再訪したいと思っている。
posted by hiroichi at 03:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 想い出 | 更新情報をチェックする
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