4月14日朝に長崎県平戸市沖で沈没した巻き網漁船「第11大栄丸」が9月22日に引き上げられた。5月2日付け拙ブログ記事「三角波と高波は違う」の最後で、
「新聞を読んでも混乱するだけ。なぜ沈んだのか、本当のことを教えてほしい」という思いに応えるためには、報道は何が分かって、何が分かっていないのかを正確に伝える必要がある。また、研究者は事故再発防止のために、その原因究明に全力を尽くさねばならない。そのためには、水深80mの海底にある「第11大栄丸」を引き上げる必要があるが、「船体の引き揚げは国の装備では不可能であるとの情報を海上保安庁と防衛省から得ている(石破茂農相の24日、閣議後の記者会見)」とのことである。と述べた管理人にとっては歓迎すべき状況である。なお、上の引用中の( )内は、この記事へHMSさんからのコメントに応じて、その回答で追加している記述である。HMSさんからの情報で、第11大栄丸は「政治的判断」で引き上げられる可能性のあるものの、その実現には種々の制約があり、かなり難しいと感じていただけに、船体引き上げが実現したことに驚いた。以下に、これに関して、長崎新聞の一連の報道記録やいくつかのウェブサイトの記事を読んで思ったことを以下に述べる。
海底資源開発に膨大な経費を費やすくらいならば、(その一部を回してでも、)国として、今後も起こりうる沈没事故に備えて、沈没船の引き上げ体制の整備してもよさそうに思うのだが・・・。
1.署名活動
今回の船体引き上げ作業開始は、行方不明乗組員の家族と支援者らが長崎、佐世保両市で、船体引き揚げや不明者の救出実現に向けた署名収集活動を5月17日から始め、7月2日に水産庁に18万2千人分の署名を提出(最終的には約25万人の署名を収集)したことが大きな契機となったようである。
ネットを通じた署名活動も行われていた(巻き網漁船「第11大栄丸」の沈没事故に関する請願署名~漁民(乗組員)の基本的人権を守るための署名~)。この署名活動は、読売新聞九州版や長崎新聞では報道されていた。しかし、ネットで地方版を注意深く調べれば気付いたかもしれないが、全国版あるいは関東圏での紙面・ネット報道では、その存在に管理人は気付かなかった。上記ネット署名サイトの5月18日付け「企画者からのお知らせ」によると、「国への要請には10万人の署名が必要」とのことである。10万人分とは、考えれば、途方もない数の署名である。署名収集活動に参加された方々の努力に感服するとともに、管理人がその運動に参加できなかったことに忸怩たる思いがある。
2.政治的判断
2009年10月6日読売新聞(多分、九州版)の「大栄丸引き揚げ、海洋汚染防止法が突破口」と題する記事(ウェブ魚拓はここ)では、「現場を含む長崎4区が地元の北村誠吾・衆院議員(自民)は5月から、漁船保険組合を監督・指導する水産庁漁業保険課の担当者をたびたび訪ね、打開策を探った」結果、「海洋汚染防止法。43条で、遭難した船でも除去が困難でなければ海に捨ててはならない、と規定している」ことを適用することとして、「長崎県の久間章生・元防衛相を通して7月10日に石破農相(当時)に「漁船保険組合に(保険金を出すよう)言ってくれないか」と働きかけた」ことが、今回の「乗組員の遺体を家族に返すのが最大の目的という日本の海難史上初めての試み」の実現に大きな役割を果たしたと述べている。この報道内容が事実なのか、ここで判断することはできない(あまりにも自民党議員の政治主導の成果が強調されすぎている)。実際には、例えば、署名が10万人を超えそうな状況で、水産庁の現場担当者が知恵を絞って引き上げ作業開始の道筋を見つけ出し、「政治家の圧力」という外圧を使って海上保安庁、県、他と調整した結果
管理人は、そもそも、沈没した漁船の引き上げ作業の開始に10万人以上の請願署名や政治的判断(政治家の関係省庁への圧力)を必要とするような現在の法体制は「おかしい」と思う。残された家族の心情を思い、事故再発防止のために技術的、経費的に可能な場合には、速やかに引き上げ作業を支援・推進するのが国の役割だと思う。引き上げ作業の可否判断が政治主導である必要はない。
10月2日付け長崎新聞の「国や県の対応に「重大な不信感」 県議会改革21が見解」という記事(10月11日リンク追加)では、
県議会第2会派の改革21(橋本希俊会長)は1日、県庁で会見。引き揚げに至るまでの国、県の対応を「極めて消極的。対応に重大な不信感を持つ」との見解を示し、再発防止に向けた原因究明について農水省に近く申し入れることを明らかにした。と報じている。管理人は報じられている議員活動に「後ろ向き」あるいは「揚げ足取り」の印象を受けてあまり良い感じを持たない。こんなことをしても、うまくいっても、企業・自民党よりの県政の実態を明らかにして、県議会改革21の会派に利する結果を得る(これこそが政治活動なのだろうが、そうだとするとあまりにも寂しい現実である)だけであり、それよりも、県議会として、県の今後の行政における引き上げ支援・推進についての公正な枠組み作りのような将来の安心な県民生活のための環境を整備する活動をしてほしい(報道されている橋本会長の談話内容と渡辺・山田議員の発言とでは、その趣旨が乖離している)。
同会派は事故発生直後から県に対し行方不明者の救助優先や船体引き揚げによる捜索などを求めてきた。
渡辺敏勝議員は「一連の流れを見ると引き揚げないための情報発信がなされてきた。発信元を再調査したい」とし、山田博司議員も「県、国が言ってきたことに相違がある」として、これまでの発言について技術、費用両面で検証していく方針を示した。
橋本会長は大栄丸事故について「16年前の第7蛭子丸の沈没事故の反省がないままに起きたのではないか」とし「徹底した調査が必要。再発防止につなげてもらうよう国に求めたい」と話した。
3.事故原因調査
「第11大栄丸海難事故被災者を支援する会」の請願書では行方不明者の早期救出・遺体収容の実施とそのための法律整備を趣旨としている。管理人は、ご遺族の心情を察すると、この趣旨で良かったと思うが、事故の原因を徹底的に調査して事故の再発を防止するためという項目が付け加わっても良かったように思う。とはいえ、これまでの陸上を含めた事故の原因調査で、明確に事故原因を特定できた例が少なかったことを考えると、請願書に船体引き上げの必要性に事故原因調査を含めると、混乱を招いたかもしれない。
折しも、2005年JR福知山線脱線事故の調査情報漏洩問題が発生し、「報告書の信頼性に疑問の声が漏れている」と報じられている(2009年9月25日産経ニュース:先輩後輩の馴れ合い、見返りは鉄道模型やチョロQ 福知山線脱線情報漏洩)。
事故原因調査の目的は、「事故の再発防止のために、事故発生原因を明らかにする」ことである。しかし、実際には、事故再発防止策の策定よりも事故発生原因の特定に重点が置かれている場合が多いように思う。確かに、事故発生原因を特定できなければ、事故再発防止策を策定できないのだから、事故発生原因の特定を重視するというのは理屈が通っているように見える。しかし、現実には、事故発生原因を特定するのは極めて難しい場合が多い。「ちゃんと調べれば事故原因は分かるはずだ」と多くの人は思うかもしれないが、「いくらちゃんと調べても分からないものは分からない」場合が多い。なお、「原因をちゃんと調べる」作業は、事故発生の責任を追及するのが目的ではなくて、再発防止策の策定を目的としなくてはならないと考える。事故発生原因を個人の責任に帰することは、「完全な人はいない。どんな人でも誤りを犯すことがある」という認識に立てば、事故再発防止にはならないのは自明である。
では、このような場合に、多くの人の理解・納得を得るためには、調査報告書はどのようになっていたら良いのだろうか? 管理人は、後年の批判にも耐えられるような、現時点で最善と考えられる調査を行い、その全てを記録し、逐次、公開することだと考える。迅速に調査過程を公開することで、調査担当者以外の多くの人の知識・経験を参考にして、軌道修正することも可能となるであろう。記録・公開する項目としては以下の項目が考えられる。
1)考えられる事故原因の全候補
2)各事故原因候補の該当・非該当を決めるための調査(測定・観察・実験)項目の全て
3)各事故原因候補別の調査項目の選定経過(項目の全候補から最終選定項目まで絞った経緯)
4)各事故原因候補別の全調査項目の選定理由
5)各事故原因候補別の全調査結果
6)各事故原因候補別調査結果の解析・考察(原因の可能性が残る候補の取捨選択結果)
7)事故原因の可能性が残る候補についての精査過程(再調査、補充調査内容)
8)事故原因の可能性が残る候補についての再発防止策選考の過程と結果
このような調査・情報公開作業を迅速に行うためには膨大な数の人(経費)が必要である。しかし、事故原因を特定できなくても、最善の努力をもって、政治的判断を排して、事故防止策を策定したことについて、多くの人、特に被害者とその家族、の理解・納得を得るためには、上に述べた調査・情報公開作業は必要不可欠であると思う。
4.おわりに
事故原因調査、環境影響事前調査、あるいは温暖化予測も含めて、調査報告についての非専門家の信頼を得るためには、調査担当者(専門家)は、「何が分かって、何が分かっていないのか」と「必ずしも全てを完全には分かっていない状況で最善の選択をした証」を、非専門家が理解できる言葉で明確に伝える必要があると思う。過去に行われた環境影響事前調査の中には、「開発ありき」の政治的判断の下で行われたものもある。そこで専門家という権威が利用された結果、現在では多くの人が専門家に不信を抱いていると思う。非専門家が権威の衣をかぶった似非専門家に騙されないために、また専門家が権威の衣をかぶった似非専門家にならないためにこそ、人々(ある分野では専門家であっても他の分野では非専門家)は科学リテラシーを身に着ける必要があると管理人は考えている。
2009年10月11日追記:
偶然にも毎日新聞10月11日付け朝刊のコラム「時代の風:精神障害者と犯罪(ウェブ魚拓はここ)」で斎藤環さんがイギリスにおける精神障害者への対応システムの欠陥についての報告書について、本記事と関連のある話を展開している。ご一読をお勧めする。
非専門家が科学リテラシーを身につけることは、確かに重要だとは思いますが、専門家がおかしな振る舞いをするのは、科学リテラシーを身につける云々とは異なった次元の話ではないでしょうか?
一言でいえば、科学者としての倫理の欠如。そして、倫理ゆえ、問題はやっかいですね。権威も名誉も金も手にしている大人に、「誠実に行動しなさい」といった幼稚園児に対して言うような言葉が果たして通じるのか、ということですから。
事故報告書については、ご指摘の通りだと思いますが、事故調査の第三者機関をどのように成立させるのか、というのが、根源的な問題であると考えます。
独立性を保ちながら、権威づけ、それに相応しい調査を行う、ということが必要ですが、専門家を専門家として扱わず、全体のパーツとして扱い、ジェネラリストが、その問題の上位位置にて判断するような傾向が、この国にはありますので、なかなか厳しい面を感じています。
実際、どのような方向がいいのか、よくわからないのですが、食品安全委員会の在り方は興味深くみていました。北米などとは異なり、リスク評価とリスク管理を分ける、というやり方をしていたのですが、BSE問題で、そこに立法府(国会)が絡まってきて、混乱しました。詳しくは以下を。
http://biotech.nikkeibp.co.jp/fsn/kiji.jsp?kiji=3190
調査報告書のくだりについては「研究調査報告書」であれば、まだ納得できる部分もありますが、「事故調査報告書」では御説には全く同意できません。
なぜなら海難審判の裁決内容(事故調査報告書も)は、極めて重要な証拠の一つとして、その後に行われる刑事裁判や民事裁判にも反映されるのが通例です。
海難審判は海難の“原因究明”を目的としています。一方、地検の起訴は、刑事事件に係る“責任追及”を目的としています。つまり目的は異なるのに使う証拠・資料は同一です(問題にされないのは往々にして結果が同一であることが多いから)。
刑事事件として立件する以上、事故発生原因を個人の責任に帰することはその職務に当たっていた人間の責任になります(そうでなければ「航海当直」の意味がない)。ですから海難審判で無罪であっても刑事事件で起訴されるのはそのためです。
また損害賠償などの民事裁判においても当該事故調査報告書は物証が大抵海底に沈んでいることの多い海難事故ではそれを元に保険金支払いの根拠にすることもあります(刑事事件で認定された過失割合に応じて過失相殺が行われるので)。
この点が環境影響事前調査(EIA)や、温暖化予測とは決定的に異なる要素です。調査報告書の目的が異なるものを同列に扱っていただいては困ります。
少なくとも法廷で「分からないものは分からない」で通すと検事と弁護士の力量対決(起訴した検事は不起訴処分なんかになったら後がないし、弁護士は検察側のロジックを壊して被告人の利益を守らなくてはならないので「真実の追究」ではなく「勝敗の決着をつける」)になりますがそれでもよろしいと?
@gp氏
>事故調査の第三者機関
海難審判所の理事官・審判官の要件は以下の通り定義されています。これが第三者機関の要件を満たせないと仰られるのであれば代案をお示しいただきたい。
http://www.mlit.go.jp/jmat/bosyuu/bosyuu211008.htm
コメントをありがとうございました。
>一言でいえば、科学者としての倫理の欠如。
私も「専門家がおかしな振る舞いをする」のは「科学者としての倫理」の欠如に起因するとは思います。しかし、gpさんがご指摘のように、ここで「幼稚園児に対して言う」ように「倫理」を振りかざしても通じないと思い、より具体的に「科学の営みについての知識」を含む「科学リテラシー」いう言葉を用いました。権威を振りかざす不誠実な「科学者」は、たとえある分野について高度な専門知識を持っていても「科学の営みについて知識」に欠けた似非科学者と私は思っています。
>独立性を保ちながら、権威づけ、それに相応しい調査を行う
公正な調査を行っているという信頼を得るためには調査活動の透明性を確保するのが第1と思います。権威は信頼を得て、初めて周りから認められるものと思っています。
>専門家を専門家として扱わず、全体のパーツとして扱い、ジェネラリストが、その問題の上位位置にて判断するような傾向
専門家は全体のパーツであるとの認識は必要だと思います。高度な専門知識を有する専門家といえども、その専門分野以外については非専門家であるにもかかわらず、その素人判断を権威者の判断として政治的に利用するような風潮、あるいは当の専門家が自分の専門外のことにも平気で権威者として発言するのが問題と思います。社会的、経済的、科学的問題が複雑に関係している現代社会において、ジェネラリストと自称する人がいたなら、その認識を私は疑います。
異なる価値観を有する人々が、その違いを認め合い、証拠に基づく議論を通して共通理解を深めて、その時点で最善と思われる選択を行うという科学的営みが広まることを願っています。この科学的営みには時間を要しますが、その議論経過を全て公表することが、結果への信頼を得て、その権威が認められることにつながると思います。
これまでの各種審議会などは、これと全く逆の行き方をしていたように思います。
コメントをありがとうございました。拙ブログ記事「三角波と高波は違う」に関連してHMSさんから頂いた情報により、新聞に報道されていた今回の第11大栄丸の船体引き揚げ実施に至る各関係機関間の分担・調整を容易に理解することができました。改めて御礼申し上げます。
>調査報告書の目的が異なるものを同列に扱っていただいては困ります。
海難の“原因究明”を目的としている海難審判の資料が、刑事事件に係る“責任追及”を目的としている地検の起訴の証拠に使われるのが問題ではないかと思います。事故原因調査報告書が刑事・民事訴訟に証拠採用される状況が続けば、何時まで経っても効果的な事故再発防止策の策定には至らず、多くの人命が失われ続けることになる思います。事故の犠牲者のご遺族のことを思うと難しいのですが、責任追及よりも再発防止に重点を置いた法律の整備を願っています。
>少なくとも法廷で「分からないものは分からない」で通すと検事と弁護士の力量対決(起訴した検事は不起訴処分なんかになったら後がないし、弁護士は検察側のロジックを壊して被告人の利益を守らなくてはならないので「真実の追究」ではなく「勝敗の決着をつける」)になりますがそれでもよろしいと?
「科学的に決着のついていないことでも、法廷では決着をつけなければならない」という法曹界の発想は、法曹界が標榜する法廷での「真実の追求」行為ではないと私は思います。「分からないものは分からない」で通せないと考えるのは、「現状では分からないもある」という「真実」から目を逸らしているとしか、私には思えません。
何がどこまで分かっているのか、どこからが分からないのか、ということについての共通認識に基づいて、分かっている範囲で最善と考えられる選択をし、新たな事実が分かった時点で速やかに再考するという科学的な営みが法廷でも普及することを望みます。
お役に立てたようで何よりです。
>責任追及よりも再発防止に重点を置いた法律の整備を願っています。
刑事訴訟法を含む、司法制度の根幹に関わる問題ですので、一般市民に対する科学リテラシーの普及より難しいといわざるを得ません。原因究明、再発予防のための議論が過失の有無の判断という責任追及の議論と共存しており、安全のための議論はその副産物に添えられているに過ぎません。この両者を同時に行おうとしていることが問題を生じています。どうしてもというなら刑事事件から切り離すしかないでしょう。
刑事司法の在り方の差についてですが、米国の場合は再発防止のために事故の真相究明が第一とされ、関係者には司法免責を付与して、事故に関する供述を最大限引き出すことに全力を挙げます。日本の場合には、海難(航空や鉄道も含む)事故においても、一般の事件と同様に業務上過失致死被告事件として立件して、真実の発見も刑事司法が担うことになります。よって事件の構成要件が個人の行為につき成立するものであり、それを具体的に明らかにすることが刑事処罰の必要条件だとする伝統的な刑事司法の在り方に基づいています。
>「科学的に決着のついていないことでも、法廷では決着をつけなければならない」
これも要するに、事故調査をどういうものと考えるのか?というところで、米国と日本では全く異なるし、何度も申し上げるように日本では将来の事故の防止よりも起きた事故の刑事責任の追及が事故調査の目的になってしまっています。事故原因の解明に協力すると、自分の刑事責任が重くなるというのでは、関係者は事故調に協力しなくて当然である、と言えます。こうなると、関係者が事故当時にノーコメントで押し通すのも無理はないでしょう。
JAL907便事件など事故報告書に基づいて警察が捜査に着手したケースすらあります。 日本も批准・署名している国際民間航空条約第13付属書は次のように規定しています。「記録の開示が現在や将来の調査に与える悪影響よりも重要であると司法当局が認定した場合でなければ、関係者の口述や各種の記録は事故の調査以外の目的に使用してはならない。」つまり、刑事責任の証拠とすることを禁じています。しかし、地検・警察は刑事訴訟法を盾に黙秘権すら認めていません。
>共通認識に基づいて、分かっている範囲で最善と考えられる選択をし、新たな事実が分かった時点で速やかに再考するという科学的な営み
社会科学での議論が平行線を辿る理由の一つに「共通認識を共有できない」というものがあります。検察は立件した以上、確実に有罪に持ち込まなくてはなりません。弁護士は「事実」よりも捜査手法に問題が無かったか(令状なき家宅捜索など、違法な手段で得た証拠は採用されないので)という「手段」を争点にすることが多いですから、先日の冤罪事件のようなケースは確実に発生し続けるでしょう。
現状についての詳しいご説明をありがとうございました。
いろいろな考え方があると思いますが、私は、このような不合理ともいえる現状に対して沈黙を続けることは、容認していることになると思います。少なくとも、機会あるごとに異議を申し立てなければ、何も変わらず、何時かは自分や家族、親しい友人たちに火の粉がかかる事態となってしまう、と思っています。
>社会科学での議論が平行線を辿る理由の一つに「共通認識を共有できない」というものがあります。
ちょっと論点がずれますが、現在までの我が国の社会科学研究者の多くは「共通認識を共有しようとしていない」という印象を私は持っています。そして、いわゆる「理系離れ」がこのような風潮の社会全体への蔓延を加速させていると感じています。それを阻止するためには「科学リテラシー」の普及が必要だと考えています。
>共通認識を共有しようとしていない
それは法曹界(なかんずく一般社会)では「科学者倫理」ではなく、「法(組織統治)の論理」が優先されるからです。科学では、物理的な現象、自明な命題を根拠としていますが、法や制度は、任意な命題、恣意的な命題を根拠としています。倫理が個の論理、私の論理であるのに対し、法は、集団の論理、公の論理だからです。
ことほど左様に科学の論理体系と法の論理体系は異質な体系であるがゆえに、科学と法は同一視することはできません。なぜなら一般社会の多くは法治国家ですので、判決が不服だから法律を変えてもよいというのでは人治国家になってしまいます。
倫理が必要ないとは思いませんが、少なくとも倫理は他人に強要する代物ではないということです。他人に強要できない性質の物であれば、法や政策に反映してはならないとも言えます。
一例を挙げると「食育」というのは厚労省が昔から推進している「バランスよく食べなさい」で説明できますし、それがおそらく正しいでしょう。ところが余分な「魚食文化」や「日本人は魚をもっと食べるべき」という倫理の成分を含む主張は、それ自体が分かり易い(=答え)ために後付されたものでしょう。ですがそれは「法制化すべき」ものでしょうか?
どう考えても実態にそぐわない法であってもそれが法である(改正ないし廃止されない)限りは法の論理に従って遵守されるべきです。
>どう考えても実態にそぐわない法であってもそれが法である(改正ないし廃止されない)限りは法の論理に従って遵守されるべきです。
全く同意します。
私が述べたかったのは、考え方の異なる多数の人の考えの共通項を形成するために「共通認識を形成することを志向した議論」を盛んに行い、大多数の人がどう考えても実態にそぐわないと考える法は改正ないし廃止するようにしましょう、ということです。
第三者機関のような形態に見えても、それが国の省庁のぶら下がる形態では、国自体が関与した事故の時にはうまく機能しないと思います。米国のNSTBは、そこをうまくやっていると思いますが、国のシステムが違いますから、それを導入しろともいいませんし、それを真似た日本の組織が今ひとつであるのもよく知られています。
ご指摘の刑事優先の国情はわかっております。これは、調査組織の問題というより、社会制度の問題ですね。新型インフルエンザのワクチンについて、免責について右往左往しているわけで、実際に人が死んでいる事故を司法取引するのを、多くの人が受け入れるのか、という話ですね。
ゆっくり啓発して理解を求める、ということしかないようにも思いますが。