今我々に必要なのは、人々に科学技術の素晴らしさを理解させる「理解増進」でも、科学技術の危険性を一方的に訴える「科学批判」でもなく、冷静に科学技術を評価しコメントすることのできる批評家あるいは評論家なのだということを改めて気づかされた思いがしました。という文章を読んで、評論家と自称している、あるいは呼ばれている人に不信を抱いている管理人は、ブログ「なぎのねどこ」さん、や他の方たちとは違う意味で違和感を感じた。
1.評論家の定義
上述の元記事へのK_TachibanaさんからのTB「ミュニケーターブームが科学批評を阻んできた!?」へのコメントでstochinaiさんは、
科学批評家あるいは科学評論家というジャンルが確立されれば、書評家や経済評論家という人が本や経済政策の需要と供給の間に立って両方に強い影響力を発揮するのと同じように、科学者、政治家、科学の恩恵あるいは被害を受ける側のすべてから独立して客観的な議論をすることができ、人々もその存在の必要を認めることで職業として成立しそうに思えています。と、述べている。これらの記述からstochinaiさんは、断言は回避しているが、評論家と呼ばれる職業は「すべてから独立して客観的な議論をすることができ、人々もその存在の必要を認める」職業と考えているようである。
どうでしょうか。
しかし、管理人は「すべてから独立して客観的な議論をすることができる」人が現実に居るとは思わない。「人」は自分の環境・立場・基盤に基づいた主義・主張を持っているからこそ「人」であり、自分の主張を「すべてから独立して客観的な議論」であると標榜している「評論家」の言説は、そのことで自分の個人的主張の権威付けを目論んで嘘・偽りの発言をしていると考える。実際、評論家のコメントを参考意見として聴くことはあっても、「すべてから独立して客観的である」と受け取っている読者・視聴者はほとんどいないと思う。
なお、上述の元記事へのブログ「ある理系社会人の思考」からのTB「評論と解説のあいだに」では、ブログ主である ktatchyさんはstochinaiさんの考えに賛成しつつも、
評論したり批評しようと思うと,知っているだけではなく,その事柄に対する「意見」を持っていなくてはいけません。「すごい」「よくない」「つまらない」は意見ではなく解説や感想です。意見を述べる,とは「こういうことができたなら,次はこういうことができるはずだ」とか,「こういうことができていない。それをするためにはこういうことがわかる必要がある」など,その事象から一歩進んだ知見を披露することに他ならないと思います。と、評論家であるためには、その事柄に対する解説・感想に止まらず、その事象から一歩進んだ知見を披露することの必要性を述べている。 管理人はこの ktatchyさんの評論の定義に同意する。ただし、ktatchyさんが挙げた「意見」の例は、研究論文へのコメントに近く不適当と思う。評論家に期待される「意見」とは、その事柄の倫理性、革新性、一般性、拡長・限界の可能性や他分野への波及効果、今後の展開における留意点のような記述であると思う。
冒頭で引用したstochinaiさんの文章が
今我々に必要なのは、人々に科学技術の素晴らしさを理解させる「理解増進」でも、科学技術の危険性を一方的に訴える「科学批判」でもなく、冷静に科学技術を評価しコメントすることなのだということを改めて気づかされた思いがしました。であれば、管理人は強い違和感を感じなかったと思う。ただし、今、stochinaiさんや管理人を含めた研究者に必要なのは、「冷静に科学技術を評価しコメントすること」よりは「科学についての知識を普及すること」だと管理人は思っている。また、stochinaiさんが科学技術コミュニケーターの役割を「難しい科学技術をわかりやすく人々に伝える」ことと考えていたのであったなら、それは明らかに片手落ちでしょう。だからこそ、松田朋春さんは「批評」も必要だと指摘されたのだと思います。ただし、ここで松田さんがいう「批評」とは芸術分野での用法であって、「科学評論」を映画などの評論活動と結び付けるのには無理があると思う(参照:「評論と解説のあいだに」への「ななし」さんのコメント)。
2.評論は科学の営みそのもの
上述の元記事へのブログ「ある理系社会人の思考」からのTB「評論と解説のあいだに」でktatchyさんは
よく「研究者は評論家になったら終わりだ」という言葉を耳にします。「自分で何も生み出さずに他人のしたことを評価する,それは研究ではない」という意図でしょう。しかし,研究者には「客観的に自分を見る視点」は必ず必要だと思います。よって,研究者になる訓練を受けている人は,批評や評論をしてもそれなりにかたちになっていることも多い,そう感じます。と述べている。この記述は読者にちょっと混乱を招いているように思う。ktatchyさんの評論の定義からは、「研究者は評論家になったら終わりだ」と述べる際の「評論家」は、「その事柄に対する解説・感想」しか述べない「偽りの評論家」であろう。優れた研究者が書いた総論では、「その事柄に対するそれまでの研究の進展状況と解説」のみならず、今後の方向性や残された問題などが明確に記載されている。
また、「研究者には「客観的に自分を見る視点」は必ず必要だと思います。」ということについては、より詳しい説明が必要であろう。学術研究論文の多くの序文では、それまでの定説や自他の研究成果を客観的、批判的に引用し、問題点を示して、当該論文の目的を明示することが求められる。学術論文の本体は、指摘した問題を解決するために行った新たな研究の成果である。また、議論の章では、新たな知見を他の成果と客観的に比較し、その妥当性の検討結果を記述する。これらの意味で、評論活動(批評し、「意見」を提示すること)は科学の営みにおける最初の行為である問題設定そのものである。
関連記事:
拙ブログ 「科学について知っていてほしい5つのこと」
3.「科学評論家」が不要な社会にするために
ブログ「ある理系社会人の思考」の記事「評論と解説のあいだに」への読者からのコメントに対する返答で、ktatchyさんは
研究に従事し,それを生業にしている科学者以上に科学を「評論」できる人はいないでしょう。しかし,実際に評論活動をしている科学者はそれほどいないし,人前に出てくるのは超一流の科学者ばかり。科学の敷居を下げるためには,解説が出来る方はもちろん,評価を出来る人間も必要かと思います。と述べている。管理人は「科学の敷居を下げる」ためには,科学評論家を育てるよりは、科学リテラシー、特に科学についての知識の普及が重要に思う。科学リテラシー普及のために「科学評論家を育てる」という言い方もできるとは思うが、「科学評論家」の言うことを鵜呑みにする人が増えてはいけないと考える。
元記事でstochinaiさんは、
批評家や評論家というものはなんでもありのはずなのに、科学評論家とか科学技術批評家といわれるあるいは自称する人が意外と少ないというのが現実なのでしょう。と述べている。しかし、何も科学技術コミュニケーター教育で科学評論家とか科学技術批評家を育てる必要はない(ktatchyさんが指摘しているようにかなり難しい)。科学評論家とか科学技術批評家の予備軍として研究者が大勢居る。要は、一般向けの評論活動を積極的に行う研究者の数を増やすための体制作りにある。
実際に一般向けに評論活動をしている科学者の数を増やすためには、各研究機関は所属研究員が評論家活動(科学コミュニケーション活動)に参加することを学術論文執筆や特許申請と同等に評価する、あるいは強く推奨することが第1に必要であると考える。
イスラエルでは大学教員は年に1回以上アウトリーチ(この一方向的な表現はあまり好きではないが)を行うのが義務付けられていると聞いたことがある。また、サイエンス誌2009年3月13日号のEditorial 'Scientist Citizens'(全文閲覧は有料)では、ストックホルム大学やスタンフォード大学の環境気候科学分野、米国ウッズホール海洋研究所では大学院生にメディアとの対話訓練を行っていることが紹介されている。このような活動を 国の政策の一環として科学技術基本計画の中に組み込むことも可能かもしれない(参照:科学技術基本計画/補完計画はじめました)。そうすれば、文系・理系の区別なく、大学院学生を含む研究者はすべからく各々の分野における科学評論活動参加者となり、特別な科学評論家は不要になると夢想している。
4.おわりに
ktatchyさんは別のコメントへ返答で、
科学全般を評論することはおそらく不可能に近いですよね。おっしゃるように,生半可な知識で褒めたり貶したりするのがオチだと思います。とも述べている。「生半可な知識で褒めたり貶したりする」科学評論家の排出を防ぐためには、専門外のことにも平気で権威を振りかざす「超一流学者先生」への科学リテラシー普及が必要と思う。
ブログ「404 Blog Not Found」の記事「大学運営がビジネスライクになった本当の理由」への2009年02月09日 01:30の「迷惑なコメント」さんの「学問が、好奇心ならぬ功名心によって腐っていくんだよ。」という言葉が気にかかっている。
http://www.sasabe.com/SF/hsf.html
他のトピで、思いつきですが、発言した内容について専門家のご意見をお聞かせ下さい。
それは、人糞や、家畜糞尿の海洋投棄についてです。古くは、汚穢船で東京の糞尿を海洋投棄していましたが、考えてみると、糞尿は、重金属などの有害物を全く含まない、微生物にとって掛け替えのない栄養物になると考えます。近年山林の減少などによって河川からの栄養塩の供給が減少して、植物プランクトンを起点とする海洋生物の減少、が問題になっています。これは、昨今、下水道が普及して、本来、何らかの形で、河川を通って海洋に供給されていた栄養塩が、遮断されてしまったことの影響も大きいのではないでしょうか。
下水処理場では、膨大なエネルギーを使って有用な有機物を酸化分解しています。これは、栄養塩を分化して炭酸ガスを増やし、更にその分解エネルギーで更に炭酸ガスの放出を二重に加速しています。
輸送手段として、中東からの原油タンカーはどうでしょうか。毎日100万トンクラスのタンカーが、からになった船腹に海水を入れて中東へ帰って行きます。此の海水の代わりに東京の下水を満杯にして出航し、途中で、海水と入れ替えながら投棄してゆけば、遙か遠洋の陸地とは遙かに離れた地帯に肥料を撒くのと同じ事が出来ます。
運搬のエネルギーも要らない二重三重効用が期待できると思います。
専門家のお立場で意見を聞かせてください。
>いまの若い人の自然科学のリテラシーは低下しているのかもしれませんね。
私は、「自然科学のリテラシーの低下」というよりは「理科離れ」だと思っています。
リンク先のハードSF研究会のHPはかなり古い内容ですが、現在も活動中なのでしょうか?
かも 様
お尋ねの件については、私はいわゆる環境科学の専門家ではありませんが、私の考えを以下に述べます。
>本来、何らかの形で、河川を通って海洋に供給されていた栄養塩が、遮断されてしまったことの影響も大きいのではないでしょうか。
適切な栄養塩の供給は必要ですが、現在の多くの閉鎖的沿岸域の環境悪化は過剰な栄養塩の供給による富栄養化が原因です。
>下水処理場では、膨大なエネルギーを使って有用な有機物を酸化分解しています。これは、栄養塩を分化して炭酸ガスを増やし、更にその分解エネルギーで更に炭酸ガスの放出を二重に加速しています。
下水配管工事を含め膨大なエネルギーを使う現行の集中下水処理場方式の環境負荷は大きいと思いますが、空気中の炭酸ガスを固定した食物が源の糞尿の微生物分散処理で発生する炭酸ガスの正味の排出量はほぼゼロです。
>此の海水の代わりに東京の下水を満杯にして出航し、途中で、海水と入れ替えながら投棄してゆけば、遙か遠洋の陸地とは遙かに離れた地帯に肥料を撒くのと同じ事が出来ます。
私は、大反対です。ある海域が局所的にでも環境容量を超えると、その海域の富栄養化を招きます。投棄した汚水の広がり方や環境容量の評価は現在の海洋学の水準では難しいと思います。
はっきり述べると本案は検討する価値もないと、思います。微生物分散処理方式の普及を進めるべきと思います。
早速の丁重なるご回答有り難うございました。元より、荒れた論争をすることは本意ではありません。只、環境を巡る最近の問題と、海洋の生産に関する問題は緊密にリンクしているように見えますので敢えて、発言の機会を与えていただきました。
さて、私が関心があるのは、例えば磯焼けという現象です。諸説有る中で、海水温の上昇による海水中の有機物の減少によるというものが上げられています。
>適切な栄養塩の供給は必要ですが、現在の多くの閉鎖的沿岸域の環境悪化は過剰な栄養塩の供給による富栄養化が原因です。
確かに、仰るとおりです。現象として、富栄養化が起きているのは、人口密集地の閉鎖的海域であり、三陸海岸や、アラスカ沿岸等では、当然にして起きていません。
>下水配管工事を含め膨大なエネルギーを使う現行の集中下水処理場方式の環境負荷は大きいと思いますが、空気中の炭酸ガスを固定した食物が源の糞尿の微生物分散処理で発生する炭酸ガスの正味の排出量はほぼゼロです。
そうですが、少し違うと思います。
自然界では、有機物は、先ず、バクテリアなどの微生物によって分解され、それが、更に様々な微生物の栄養源になり、いくつもの段階を経て、多くの生物を養って、最終的に、水と炭酸ガスとに分解されます。それが自然の連鎖です。それを、単にエネルギーを使って、微生物処理とはいえ、何ら自然界に還元することなく分解してしまう、現下の微生物処理は、単なる自然界からの収奪そのものであり、自然をやせ細らせるだけです。人間の糞便も、動物のそれも、自然界では必ず、それを栄養として、生存する生物を増やしているのです。それが失われています。人口密集地から排出される人間の糞便は即ち、アメリカの大地から収奪した穀物の有機物そのものだとすれば、それを、自然界に返さなければ、地上の有機物量は減少する一方です。
自然界に於いて、嫌気性分解は普通の常態です。湖沼のの低層は、嫌気性領域ですがそれでも魚は住んでいます。そして、その嫌気性分解生成物で、湖沼の栄養塩が供給され炭素循環が保たれています。自然が生産したものは、自然に帰す。それが原則ではありませんか。
投棄する汚水が、人間という自然の循環の中で生成されたものだとすれば、そのまま自然に返すことの方が余程意味のあることだと思うのですが。
目先のない水面の富栄養化を避けるために、地球の海を痩せさせてしまって良いのでしょうか。
>投棄する汚水が、人間という自然の循環の中で生成されたものだとすれば、そのまま自然に返すことの方が余程意味のあることだと思うのですが。
このような深いお考えに基づくものであることに思い至らず、先のご提案が、単純に、膨大なエネルギーを消費する下水処理を止めて、海上投棄することを提案していると受け取り、強い言葉で否定しましたことをお詫びします。
ただし、投棄する汚水は、「人間という自然の循環の中で生成されたもの」ではなくて、農畜産業生産と人口密集域への輸送という海域の栄養塩分布と関係しない人間活動で生成されたものです。このようにして生成された汚水を海へ投棄することは、海域にまで人間活動の影響を広げることになります。
繰り返しますが、「ある海域が局所的にでも環境容量を超えると、その海域の富栄養化を招きます。投棄した汚水の広がり方や環境容量の評価は現在の海洋学の水準では難しい」と思います。汚水の海洋投棄は人為的操作であり、これによる環境悪化を予防するのは極めて困難だと思います(その気になれば、濃度を薄くする、投棄海域を限定するなどの条件下では影響は少ないという、もっともらしい事前評価を捏造[語弊を招く表現ですが、初めから結論ありきの事前評価では、こう言わざるを得ません]できるでしょうが・・・)。
人間活動により生成した汚水処理が自然界に及ぼす影響を出来るだけ小さくして人間活動を持続的に発展させるのためには、海洋投棄ではなくて、ゼロエミッション技術(汚水の再利用、地産地消や有機・自然農法)の開発が必要と思います。
なお、海洋の生産量の減少への対策として、単純に栄養塩を付加すれば良いという訳ではありません。水産資源量の変動のシクミについては未解決な問題が山積しています。
私の発言に対してご理解を頂いたことを先ず御礼申し上げます。
申し上げるまでもなく、豊かな漁場は、大陸棚や、島嶼近傍の、温帯から寒帯に分布しています。それは、海洋生物にとって、陸地から供給される有機物や、ミネラル分などの十分な供給が有ってのことだと考えます。
温暖化による海水温の上昇は、特に有機物の消費を加速度的に進めて生物の生存に深刻な状況を引き起こすであろう事は容易に想像が出来ます。海洋汚染という視点からだけでなく、この、有機物収支の観点からの環境保全を是非大きな柱にしていただきたいと考えて居ります。
ところで、くどいようですが、現行の好気性微生物処理では、規定値以下の重金属や、不溶性の化学物質、環境ホルモンなどと言われる物質は、全く処理されることなく流域に放流されています。やがてそれは、川を下って海に至ります。
つまり、微生物によって処理できない物質はそのまま放流されているのなら、それを海域の何処で放流しようと同じ事であり、微生物で処理するのなら、それが人工環境下であろうと自然環境下であろうと同じ事ですね。
ま、特定の内湾や湖沼への放流水以外は、濃度規制になっている法体系にも問題はあるのですが、濃度規制であろうと総量規制であろうと処理されずに放流されてる現実は同じ事です。
つまり、海洋投棄が、十分に広い範囲に分散して行われれば、自然界に有機物を還元するには良い方法だと、私は考えているという点をご理解下さい。
特定の海域に高濃度に投棄して汚染を拡散するなど勿論愚の骨頂です。
日本から、中東までの海域に均等に分散廃棄したらどうでしょう。この距離における100万トンの総量は、どれだけの意味があるでしょうか。
以上、重複して書き込んだ部分についてはレス無用です。
今後の活動の一助としていただければ幸いです。
有り難うございました。
>申し上げるまでもなく、豊かな漁場は、大陸棚や、島嶼近傍の、温帯から寒帯に分布しています。それは、海洋生物にとって、陸地から供給される有機物や、ミネラル分などの十分な供給が有ってのことだと考えます。
沿岸漁場の形成については陸からの栄養塩の供給がある程度の役割を果たしていますが、沖合漁場については栄養塩の下層からの供給であろうと考えられています。東シナ海の基礎生産を支える栄養塩の多くは中国大陸起源ではなくて、黒潮下層水であろうという考えが提示されています。また、海洋生産に関わる表層の物質循環では、これまでその存在量が十分に把握されていなかったピコ(超微小)プランクトンや微生物の役割の見直しが進められています。まだまだ、分からないことが多いのです。
>濃度規制であろうと総量規制であろうと処理されずに放流されてる現実は同じ事です。
これはご提案の外洋投棄にもあてはまります。私の考えは、沿岸・外洋を問わず海洋へ汚染水を投棄すべきではなく、ゼロエミッションを目指すべきということです。
毎週末、読ませてもらってます。
海域の富栄養化、珊瑚の記事と地続きと思いながらも
難しい内容なので、時間をかけて理解を深めようと思いました。
丁度、昨日のラジオ。FM TOKYOの番組で、
海洋ジャーナリスト、内田正洋さんという方が
森林の落葉広葉樹の減少が腐葉土減少に伴い、
海への鉄分の供給が滞ることから磯焼けという
現象について話されていました。
今年、海釣りを試みているので、
興味深く聴いていたものの、時間の都合からか。
予備知識も無く、理解不能だったので調べてみました。
http://www.ysn21.jp/~suisan-h/moba/moba2008.pdf
ラジオでは、短期的に海藻類の復元が可能と
おっしゃっていました。実績もあるようです。
よくもわるくも急激な変化は、
人間社会には自覚し難い副作用が
あるかどうか神のみぞ知る。なのでしょう。
なんか、ピントはずれなコメントでごめんなさい。
これからも、海のことをこちらで勉強させていただきます。
お忙しいでしょうけど、ご自愛くださいませ。
藻場の復元についての山口県立水産高校の活動報告の情報をありがとうございました。
>よくもわるくも急激な変化は、人間社会には自覚し難い副作用があるかどうか神のみぞ知る。なのでしょう。
良かれと思って行った行為が、後になって悪しき行為であったことが判明する例が人類の歴史には多々ありますね(というか、失敗の連続だったようにも思います)。
このような事態をできるだけ避けるために私たちにできることは、「神のみぞ知る」と諦めるのではなく、多様な価値観からのアプローチを容認し、その中から、時間がかかっても、その時点でのベストと思われる方策についての合意を形成していくことではないかと思います。正解はそれこそ「神のみぞ知る」でしょうが、合意形成にベストを尽くすことで、より正解に近付けることを期待しています。
今後とも宜しくお願いします。
科学についてはど素人でございますが
『里海』という言葉に惹かれてこちらのBLOGを
読み始めました。
一般人として知りたいのは科学の評論ではなく
科学者が研究の末知り得た事実です。
評論は自己の主張を方向付けるための肉付けがなされる危険性があります。
一般人はそれを見抜く眼を持たなければなりません。
そのためには管理人さんのおっしゃるように科学についての知識の普及が重要だと一般人の私も思います。
事実は小説より奇なりと
ゆっくりと社会の隅っこで生きてきました凡人ですが齢六十近くになり科学書を読むことがおもしろくなっております。
知識を得ることで暮らしや行動は変わります。
拙いコメントでございますが・・。
コメントをありがとうございました。
>一般人として知りたいのは科学の評論ではなく
科学者が研究の末知り得た事実です。
「研究の末知り得た事実」と聞くと、私は、確定した最終結論のような印象を受けます。「事実」というよりは「どこまで分かったのか、まだ分かっていないと分かったのは何か」を専門外の人には知ってほしいと私は思っています。
>知識を得ることで暮らしや行動は変わります。
そうですね。これまでの自分とは異なる物の見方・考え方を知ることで、自分が「変わる」ことができると思えることが、生きることの楽しさではないかと私は思っています。
これからも宜しくお願いします。
拙いコメントにお返事ありがとうございます。
最終結論というものは存在しないものと言っていいくらい、宇宙の事柄、地球の事柄は深いものですね。
そうですね、分かったこと、分かってないことを整理しながら進む、研究というものは留まることの無いお仕事ですね。
経過報告というものが情報ということになるのですね。
宇宙も地球も生物も刻々と変化してもいますから、
たいへんなお仕事ですね。
頑張ってください。
>研究というものは留まることの無いお仕事ですね。
非常に細かいようですが、「留まることの無いお仕事」という木綿糸さんのお言葉に、「一個人が延々と行う行為」という印象を受け(私の誤解でしたらお詫びします)、違和感を感じました。
極一部の分野を除いて、一人の研究者が解明できることには限界があります。科学研究とは、一個人の行為ではなくて、先達・先輩の研究成果を補完する自分の研究の成果を論文あるいは観測資料として公表して、同時代の世界中の仲間の批判を受ける、あるいは未来の研究者へ残すという、その研究対象についての理解を深めるための時間と空間の壁を超えた共同作業であり、研究者の「仕事(一個人の行為)」は、この共同作業に貢献することだと私は思っています。
>経過報告というものが情報ということになるのですね。
はい、そうです。補足すれば、科学情報(学術論文)は研究対象について理解を深めるために行った試みについての報告という言い方ができると思います。科学の営みの歴史は、試行錯誤の歴史です。
>宇宙も地球も生物も刻々と変化してもいますから、たいへんなお仕事ですね。
人類の歴史を超えて刻々と変化する「地球や生物」の変化の仕組みを理解するために、多くの研究者は大昔からの変化(変化の歴史)を化石や堆積物で調べています。また、数十年規模の気候変動や海洋変動については、最新の手法を用いて観測資料の蓄積を続けている、あるいは新たな観測手法の開発を続けています。苦労も多々ありますが、問題を解決したときの大きな喜びを経験すると止められません。
こちらのコメント欄での議論を読ませていただきました。
汚水の海洋投棄の議論は、興味深かったです。
詰めの甘い部分や間違いがあると思いますが、参考になりましたら嬉しいです。
地球温暖化についての新たな記事のアップのお知らせをありがとうございました。また、コメントさせて頂きます。
なお、「大西洋オーバーターン」あるいは「海のコンベアベルト」と気候変動との関係については、4月に開催した「海のサイエンスカフェ」に寄せられたbobbyさんの質問(http://bobby.hkisl.net/mutteraway/?p=739)への回答を準備中で、後日、「海のサイエンスカフェ」のHP(http://coast14.iic.hokudai.ac.jp/osj/science_cafe/index.html)にアップする予定です。
それは、ヤンガー・ドライアス・イベントを海洋の熱循環で説明できるか?ということです。
海洋の熱循環が、急に止まれば、急な温度変化があると思います。
けれど海洋の熱循環が止まれば、緯度の高い場所はより寒くなり、赤道付近はより熱くなるような気がします。
だから地球の場所によっては、温暖化と寒冷化の極端な二極化になる気がするのです。
またヤンガー・ドライアス・イベントは、大気中の二酸化炭素が原因ではないと思います。
専門家で、そんな主張をしている人はたぶんいないと思いますが、私のブログにリンクした子供向けの説明では、明言はないものの、文脈上、そのように解釈できてしまうのですが・・・・。
http://www.jamstec.go.jp/j/kids/tazunete/008/index.html
引用
「二酸化炭素などの温室効果ガスがふえ、地球が温暖化すると、このオーバーターンが弱まると予測されています。
大西洋オーバーターンで海水がしずみこむので、補給のため南からあたたかい海水が流れこんでいます。大西洋沿岸のヨーロッパの冬が比較的あたたかいのは、この海水の流れがあるからです。大西洋オーバーターンがなくなると、海水の流れもなくなるので、寒くなることが考えられます。1万2000年前、実際にこうした現象が起こりました。」
「大西洋オーバーターン」あるいは「海のコンベアベルト」と気候変動との関係についてのご質問をありがとうございました。
ご質問への回答は、4月に開催した「海のサイエンスカフェ」に寄せられたbobbyさんの質問への回答を「海のサイエンスカフェ」のHPにアップしたことをお知らせする記事を投稿する際(6月初めを予定)にお答えします。
しばらく、お待ちください。