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1.何のための科学リテラシーか
ブログ「地獄のハイウェイ」のブログ主であるkatsuya_440さんは、まず、以下の3種の議論の中での科学リテラシーの必要性についてまとめている(番号は管理人が追加)。
1)ニセ科学批判とか疑似科学批判とかそういう話では、1)については、「そうかな」という気もする。しかし、管理人はニセ科学を見破るためには、「科学リテラシー」全般ではなくて、「科学についての知識」、中でも「科学の定義」のみが必要だと思う。もっと極言すれば、ニセ科学に惑わされないためには「批判的思考方法」さえあれば良いと思っている。
「科学ではないのに科学であるように見せかけているニセモノ」を見破るために、
市民に科学リテラシーというものが必要だとされている。
2)科学コミュニケーションとかサイエンス・カフェとかそういう業界では、
先端的な科学の話題についての理解してもらったり共感してもらうために、
大衆に科学リテラシーの普及が期待されている。
3)科学技術立国論とか新産業創生とかそういった方面では、
経済的繁栄のための優秀な人材を輩出するために、
国民の科学リテラシーの向上が重要だとされている。
3)については、正しくその通りだと思う。
2)については、私を含め科学コミュニケーションに携わっている人々の間で認識に大きな開きがあるので微妙だが、ちょっと誤解される表現になっているように思う。確かに、拙ブログの記事「「安全。だから安心」となるために」で述べたように、「リスクコミュニケーションの一環としての科学リテラシーを高めること」すなわち「リスクについて理解してもらうために、科学リテラシーの普及を進めている」ことがあるが、これが全てではない。また、研究者が社会(非専門家)に、その科学研究成果を還元したり、その研究活動への社会の理解と共感・支持を得ることを目的とするアウトリーチ活動でも、その前提として聴衆に科学リテラシーを有することを求めたりはしない。
管理人は、科学リテラシーを普及するために、(先端的な)科学の話題について双方向の会話するなどの科学コミュニケーション活動やサイエンス・カフェ活動があると思っている。それでは、なぜ「科学リテラシーを普及する」必要があるのか? これが、本記事のテーマである。
2.人間の尊厳のために
次に、katsuya_440さんは、「科学リテラシーを普及する」必要性に関連して、以下のように、重要な提案をされている。
科学リテラシーについての上に挙げた様な考え方を否定するつもりは全くないが、この提案、特に、最後の、「科学リテラシーとは人間の尊厳のためにこそ必要なものだ」という考えに強く同意する。人間の尊厳とは、その価値観が異なろうとも、立場が異なろうとも、お互いにその存在を認め合うことによって守られる。そのためには、科学リテラシーが必要なのだと思う。「人間の尊厳を実践する良き市民には科学リテラシーが備わっている」のである(拙ブログの「サイエンスリテラシー」参照)。
それに尽きるものでもないと自分は考えている。
逆説的に聞こえるかも知れないが、
何よりも「科学から自由である」ためにこそ、
科学リテラシーは身に付けられるべきだと思う。
訳も分からぬままに盲従させられないためにも、
科学の名の下に行われる暴虐から身を守るためにも、
崇めるでもなく恐れるでもなく正面から向き合うことで
科学が何をしてきたのか、そして何ができ何ができないかについて知ることが重要ではないか。
科学リテラシーとは人間の尊厳のためにこそ必要なものだと思う。
拙ブログの記事「「安全。だから安心」となるために」の最後で管理人は、
価値観の多様性を受け入れ、価値観を共有しない人との間でこそ信頼関係を築く方法として最も有効な方法が科学の営みでは取り入れられている。科学の営みには限界と不確実性を内在しているということを含めた科学についての知識を主な要素とする科学リテラシーの双方向のコミュニケーションによる普及こそが、「安全。だから安心」という状況を生みだすと思っている。と述べた。多少の飛躍があるが、管理人は、ここで述べた「「安全。だから安心」という状況」と「人間の尊厳が守られている社会」との間には相通じるところがあると考えている。
なお、ブログ「PSJ渋谷研究所X」のブログ主である亀@渋研Xさんは、上の引用箇所の2番目の文章が分かりにくいとして、以下のように書き改めることを提案されている。この場を借りて、御礼申し上げます。
(筆者は)科学リテラシーの普及が「安全。だから安心」という状況を生みだすと思っている。
ここでいう科学リテラシーは、「科学についての知識」を主な要素と考えている。いわゆる理科の知識だけを指しているのではない。数字の意味を読み解けるとか、化学物質がわかるとかいうこと「だけ」ではないのだ。
たとえば「科学の営みは、限界と不確実性を内在している」(その点については、ここに至るまでに述べた)といった重要な認識も「科学についての知識」には含まれる。そういう意味での科学リテラシーだ。
そして、その普及は、科学プロパーからの一方的な啓蒙ではなく、科学プロパーと(科学の門外漢である)一般市民との双方向のコミュニケーションによってしか、なし得ないだろう。
そういう形での「科学リテラシーの普及」があってこそ、「安全。だから安心」という状況を生みだせるのではないか。
3.おわりに
このところ毎日、世界的な不況にともなう企業の経営悪化と、その目先の対応としての「派遣切り」や「正社員の削減」などのニュースが続いている。おそらく、ブログ「カトラー:katolerのマーケティング言論」の記事「経済学者、中谷巌の転向~新自由主義は死んだのか?~」で述べているように、
暗いトンネルは今はじまったばかりで、これから世界は夜明けまでの最も暗い夜を耐え忍ばなければならない。政府も誰も助けてくれない暗闇をくぐり抜けていくために何よりも必要なのは「希望」を生み出す装置であるのであろう。
では、この「希望」を生み出す装置として、具体的に何を考えたら良いのだろうか? それは国民の人間としての尊厳を尊重するシステムであると思う。この意味で、長期的な視点からは、科学リテラシーこそが「希望」を生み出す装置だと管理人は考える。なお、カトラーさんは先の記事で、中谷巌を批判して、
中谷の「転向」論の決定的な欠陥は、「安全・安心」という、砂漠の蜃気楼のようなゴールを示し、それが、あたかも「日本回帰」することで手に入れられるかのような錯覚をふりまいている点にある。そして、こうした中谷の議論は、二重に人々をミスリードするものだろう。と述べている。中谷巌の言う「安全・安心」がどのようなものかは元本を読んでいないので何とも言えないが、科学リテラシーが普及せず、人間の尊厳が守られていなかった日本に「回帰」することで手に入れられる「安全・安心」は、拙ブログの記事「「安全。だから安心」となるために」で議論していた「安全・安心」とは同音異義なのかもしれない。
第一に、この世界は、次の時代に向けて脱皮するための新たな産みの苦しみの時代に入っていて、特権的な「安全・安心」な場所などは、日本はもちろんのこと、もはやこの世界中のどこにも存在しえないのであり、安全・安心という蜃気楼は、そうした厳しい現実を隠蔽することにしかならないということだ。...