先生は、大正8年3月に京都でお生まれになり、昭和17年9月京都帝国大学理学部地球物理学科をご卒業後、帝国海軍において南方海域で軍務に服し、敗戦後、昭和21年8月に帰国。復員局、気象庁(札幌管区気象台?)を経て、昭和25年3月鹿児島水産専門学校教授、昭和26年2月鹿児島大学講師水産学部となられた後、昭和59年4月のご定年退官まで鹿児島大学水産学部における海洋の教育と研究を推進された。なお、気象庁に勤務されていたときに「寒冷地手当」の算出根拠を求めたとのことである。ご退官後、鹿児島大学教育学部の非常勤講師などをお勤めであったが、平成15年に居を鹿児島から大阪へ移され、最近は「NPO法人 葬送の自由をすすめる会」の関西支部世話人をされていた。以下に、先生を偲んで、先生の想い出を記す。
1.コントラクトブリッジ
昭和48年秋に鹿児島で開催された海洋学会を含めた幾多の海洋学会の大会の折にもお会いしていたと思うが、先生と身近に初めてお会いしたのは、文部省科学研究費補助金特定研究「海洋環境保全の基礎的研究」の研究集会が昭和52年秋に京都で開催された時だったと思う。風波の発達機構に関する学位論文の作成を進めながらも、将来のアカポス獲得に向けて、学位論文の対象以外にも積極的に関心を向けていた時期であった。先生のお話は鹿児島湾の鉛直循環の季節変動のお話だったはずだが、生真面目な話しぶりであったという印象以外に、記憶にはあまり残っていない。
昭和53年夏に鹿児島大学水産学部助手の公募があり、当時の指導教官のKH先生の勧めがあり、一晩熟慮した末に応募した。昭和54年春に採用通知があり、7月に赴任手続きなどのために、初めて先生をお尋ねした。
面識があるとはいえ、ほとんど初対面であり、先生と私との間で両者の視線が激しくぶつかり、火花が飛んだ感じがしたほどであった。そこで「うちの研究室は何かと騒がしいが、宜しく」とのことだったので、「何が騒がしいのか」とお尋ねしたところ、「研究室がコントラクトブリッジ同好会の事務局になっているので」とのお答だった。私もコントラクトブリッジを大学院の仲間たちとした経験のあることを伝えた。その途端に二人の間の緊張感が一気に消えたことを覚えている。その時、「今回の助手の公募に君以外に誰が応募したのかを知らない方が、その人たちとの今後の良好な交流のためには良いと思うので教えない」と言われ、先生の深いご配慮を感じた。
8月に赴任後、昭和59年に先生がご退官されるまで、何度となく、研究室でCM先生、捕手(秘書)のWRさん、学生を交えてコントラクトブリッジをした。先生のコントラクトブリッジは海軍仕込みであり、白鳳丸に乗船した際には、同じく海軍の関係者であった田玉船長や中井俊介さんと船長室でゲームを楽しんだこともあった。先生からは「君はゲームには強いが、マナーがなっていない」と指摘されたこともあった。確かに、私は大学院学生時代に友人たちと解説本のみを参孫にゲームを楽しんでいたのみで、マナーまでは身に付けてはいなかった。そのことを見透かされてしまった。
先生は、コントラクトブリッジが本当にお好きだった。先生の「鹿児島湾の鉛直循環の季節変動」に関する論文を読むと、種々の証拠から理詰めでことを明らかにしていくというコントラクトブリッジの手法が、そのまま生かされているように思う(コントラクトブリッジの方が単純ではある。「たかが52枚のカードくらい覚えろ」とよく学生に言われていた)。多分、学生にも理詰めでものごとを考えることを身に付けさせたくて、コントラクトブリッジを勧めていたのだと思う。
2.オープン・マインド
赴任した海洋環境物理学講座では高橋先生、CM助教授、私(助手)の3名の教官が学生の指導にあたった。この際、学生を3グループに分けて、3名の教官が分担して指導するのではなくて、週1回のゼミで3名が共同で指導した。先生は学生が一人の教官に付くと、その教官の良いところばかりではなくて、悪いところも教育されてしまうので、3名の教官の連帯無責任体制で指導すると言われた。ゼミでは教官同士が学生たちの前で議論することもあった。卒論・修論は学生全員の原稿を最初に助手である私が校閲し、その後、CM助教授の校閲を経て、高橋先生の最終校閲を受けていた。学生は、3人の教官の個性の違いに翻弄されながら、自分なりの考えを築いていたと思う。また、各学生の卒論・修論のテーマを高橋先生が指定することもなかった。学生が自らテーマを定めるまでじっと見守っていた。
このような学生に対する姿勢は、助手である私への態度でも同じであった。助手である私には観測計画や講座経理の実務を任せる以外には、それまで風洞水槽実験を主な手法として研究を進めてきた私に今後のテーマを示すことなく、また、先生の授業や研究の手伝いをさせることもなく、私の暗中模索を暖かく見守って頂いた。また、東京大学海洋研究所のTT先生から水産学部練習船を用いた係留流速計観測計画への協力要請を受けた時には、その受諾について事前に鹿児島大学の関係者(CM助教授と私のみならず工学部のMA先生、SMさん)に了解を求められた。まさに、オープン・マインドであった。
私が鹿児島へ赴任したのは先生が60歳のときであった。それ以前の先生を知っている方々からは、「昔の先生は、性格的に厳しい人で、周囲の無理解に切れて、教授会や乗船中に大暴れしたこともある」と聞かされた。しかし、私がお会いした頃の先生は、ずいぶんと穏やかになられていた。おそらく若き日の先生と同じように周囲に不満を募らせていた私に「ここ(水産学部)は正論が通らないところだから」と真面目に諭されたこともあった。また、ご退官後に叙勲されたときには、先生が関係者を招いて一席設けられ、その席で、どことなくはにかみながら「私には叙勲を断る力がないので、叙勲を受けることにした」と述べられた。
3.五省
平成15年に先生が鹿児島から大阪へ転居されるのをSMさん、KHさん、CM先生とお手伝いした。先生が翌年1月に鹿児島へお越しの際に、転居のお手伝いのお礼として食事に招かれた。その際に,以下に示す「五省」が書かれたパネルを先生から戴いた.先生は、五省の初めの4つはできたが、5番目がダメだったと、これも真面目に、どことなくはにかみながら言われた。
五省(ごせい,五つの反省)
1.至誠に悖(もと)るなかりしか。
1.言行に恥ずるなかりしか。
1.気力に欠くるなかりしか。
1.努力に憾(うら)みなかりしか。
1.不精に亘(わた)るなかりしか。
注)海軍兵学校 Home Page によると,この「五省」とは,「昭和7年(1932)4月24日軍人勅諭下賜50年記念日に、当時の海軍兵学校教頭兼監事長・三川軍一大佐(兵38期、後中将、能美島出身)が起案し、校長・松下 元少将(兵31期、後中将、福岡県出身)が裁可し、初めて訓育に活用された。爾来、海軍兵学校生徒は、夜の自習止め5分前のラッパ「G一声」が静寂な生徒館に流れると、当番の1号生徒が「軍人勅諭」5箇条に続いて、「五省」を各項目一つ一つゆっくり拝誦し、他の生徒はこれに合わせて黙誦し、その日一日の自らの行動や言動を反省自戒し、自ら人格の陶冶に努めた。自戒自律の根元を為すものであった。」とのことである。
私は、今でも、このパネルを勤務先の壁に掛けて、日々の戒めとしている。
4.平和
高橋先生は,平成15年12月12日に京大会館で開催された,尾池和夫教授京都大学総長就任祝賀会(地球物理同窓会・地球物理学教室・共催)で,尾池和夫教授に,祝辞とともに、上に紹介した「五省」を書いた小額を手渡された.高橋先生は,昭和17年9月に学徒出陣され,戦場で多くの友人を失われた経験から,尾池和夫教授への祝辞で「学生を戦場に送らないという基本方針を大学は持つべきです.戦争を防ぐためにも,人間の命を大事にすることを教育しなければなりません.」と述べられた(祝賀会の記録による).また、戦場で多くの友人を失われた先生の経験が、「NPO法人 葬送の自由をすすめる会」の関西支部世話人としての活動にもつながっていたようである(参照:墓は遺体の自然解体装置 火葬なら本来無用のもの――戦場に暮らして考えたこと)。
5.海洋学教育研究
高橋先生は鹿児島大学の研究代表者として、昭和30年の日・米・加北太平洋国際海洋調査(NORPAC)、昭和31年の赤道太平洋海洋調査(EQAPAC)、昭和33年の国際地球観測年赤道海流一斉調査(IGY)で「かごしま丸」と「敬天丸」を用いた海洋観測を行った。ただし、敬天丸のIGY航海では測定点に着く途中でビキニ環礁で水爆実験があり観測は中止された。昭和38年度には「かごしま丸」が国際インド洋調査(IIOE)に参加している。さらに、昭和40年から43年には「かごしま丸」および「敬天丸」による国際黒潮共同調査(CSK)の鹿児島大学の研究代表者を務められていた。今の私があるのは、一重に、上に述べたような練習船を研究に活用する道を切り開かれた高橋先生のご尽力の賜物である。
高橋先生は私の出身研究室の大先輩でもあった。先生は海洋学教育研究の黎明期の事情を「野満隆治先生と海洋学」という一文で紹介されている。何かの折に、先生は「皆、野満・日高論争のことも忘れれているようなので、記録として残しておいた」とおっしゃっていた。今、読み返して、初めて、自分の所属していた講座の別名が第2講座であった理由や、この講座が我が国最初の海洋学教育研究の拠点として大正13年に誕生したことを知った。本寄稿は、野満先生の業績について、
帝国海軍は「海国日本」を盛んに宣伝しようとしていたが、しかし・時の日本の国民は、海岸に立って見える範囲だけが海であって、その向こう側には全く何もない、というのが一般国民感情であった様に思うう。そういう社会情勢の中での海洋学の開拓であった。という文章で終わっている。「海岸に立って見える範囲だけが海であって、その向こう側には全く何もない、というのが一般国民感情であった様に思う」という状況は、今も大差がないように思う。
5.おわりに
先生と最期にお会いしたのは、5年ほど前の日本海洋学会春季大会の際に新橋で開かれた鹿児島大学水産学部海洋研究室同窓会のときではないかと思う。いつも、多くの卒業生に慕われ、楽しくお酒を楽しまれ、2次会には行かずにさっと姿を消した先生のお姿を思い出す。
ご冥福をお祈り申し上げます。合掌