海洋科学技術・産業に関わる幅広い情報を取り入れた、良くできた小説だとは思う。また、第1巻の帯に
福井晴敏氏(作家)感嘆「忘れていた・・・・・・。海がこんなにも深く、暗く、宇宙よりも隔絶された未知の世界であることを」と記載されている通り、この本によって、海への関心が高まることを期待している。
しかしながら、この小説で述べられている科学的説明の中に不十分あるいは不適切な所があったので、以下に補足説明する。
関連記事:
「海面上昇と干満差」の2008年07月31日 01:30投稿のbobbyさんのコメント
「Carl Wunschさんのこと」の2008年08月02日 11:40の管理人んのコメント
1.海底から多量のガスが噴出する海域で船が沈没する理由
「深海のYrr(1)」のp406の初めで
「ガスが上がってきたとき、何か気づいたか?」と、あたかも、「船は表面張力で浮いており、ガス噴出域では表面張力が小さくなるために船が沈む」というな記述になっている。他方、同じp406の最後では
「船が沈むような感じだった」
「そのとおりだ。気体は水の表面張力を減少させる」
「船が沈没していたかもしれないと?」
「ここで起きた何倍もの規模のブローアウトだ。海水の密度が希薄になり、船はあっさり沈んでしまう」と海水密度が小さくなることが原因であると記述している。
船が海面上に浮いている状況は、船の全重量(下向き)と船が海水から受ける総浮力(上向き)とが釣り合っている状況である。総浮力(F)は、船の海面下の容積(V)に海水の密度(1立方メーターの海水の重さ:D、通常は約1.03 ton)とすると
F=V×D×g
で表される(gは重力加速度)。同じ重さの船が川面に浮かんでいるためには、川の水の密度は海水の密度より小さいので、船の川面下の容積は海面下より大きい必要がある。このため、川面上では海面上よりも船は沈む。船底に穴があいて船の全容積(V)が小さくなると、V×D×gが船の全重量より小さくなって船は沈む。
気泡を含んだ海水の密度(1立方メートルのこの海水の一部は気体)は気泡を含まない海水の密度(1立方メートルのこの海水の全てが液体)より小さくなる。したがって、p406の最後の記述を「ここで起きた何倍もの規模のブローアウトだ。海水の密度が小さくなって、浮力が足らなくなり、船はあっさり沈んでしまう」とすれば物理的に正しい。
「船が表面張力で浮いている」という記述は他の個所でも繰り返されている。これは明らかに誤りである。p406で、冒頭と最後で、各々「表面張力という物理的に誤った説明」と「密度減少という物理的に正しい説明」が混在していることについて、訳者(北川和代)はどのように考えたのだろうか? 原著の記述をそのまま訳したにしても、疑問が残る。翻訳するときに、関係者に相談して欲しかった。
2.メキシコ湾流
「深海のYrr(1)」のp452にメキシコ湾流についての以下の説明が記載されている。
彼の心配はメキシコ湾流だ。この温かい表層の海流は、南アフリカから南米大陸に沿って北上し、メキシコ湾に向かって流れる。カリブ海で暖められ、さらに北上する。この海流は塩分濃度がかなり高いものの、水温が高いために表層にとどまっている。このメキシコ湾流の説明について、拙ブログの記事のコメント欄でのbobbyさんとの会話を以下に再掲する。
これがヨーロッパを暖めるメキシコ湾流だ。・・・
---Posted by bobby at 2008年07月31日 01:30---
先のコメントで塩熱循環とメキシコ湾海流との関係と言ったのは、非常に広い意味でのメキシコ湾海流の事です。つまり、南アフリカあたりから始まり、南米大陸に沿って北上して北赤道海流と呼ばれ、次にメキシコ湾海流と名前を変えて北上を続け、ニューファンドランド島付近で冷たいラブラドル海流と混ざり合い、北大西洋海流と呼び名を変えながら更に北上し、東グリーンランド海流と名前を変えてグリーンランド海に達する大きな海流の事です。「深海のyrr(中)」の452ページにこの記述があり、wikiのメキシコ湾海流でも似た説明がされています。(下記リンクを参照ください)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3%E6%B9%BE%E6%B5%81
この海流はメキシコ湾からニューファンドランド島に達するまでに、ヨーロッパへ十億メガワットの熱量(原子力発電所25万基分の発電量に相当)を運び、ヨーロッパを暖めているようです。(これも深海のyrrの452ページより)この大海流が最終的に冷たく塩分濃度の高い重たい海水となって、グリーンランド海の各所で、塩熱循環により表層から深海へ、煙突状に沈み込んで深層海流にかわるというように(小説では)なっています。グリーンランド海での沈み込みは、現在はまだ仮説なのかもしれません。この辺の知識は、謝辞の項目を見ると恐らく、ハンブルク=ハールブルク工科大学のギーゼルヘア・グスト氏のインタビューをもとにしていると思われます。小説ではこの仮説を更に大胆に進めて、この海流が止まる事で地球が氷河期へ突入する引き金が引かれると予測していますが、流石にその辺の理論はまだ無いのか、小説の中にも十分な説明はありません。
で、莫大な熱量をメキシコ湾からヨーロッパの北部まで運ぶ海流が、大量の氷が解ける事により塩熱循環の阻害によって止まるか弱まるかした場合、ヨーロッパの気候へ与える影響はかなりのものになるのかな、と思った次第です。
---Posted by hiroichi at 2008年07月31日 02:44---
bobby 様
>つまり、南アフリカあたりから始まり、・・・更に北上し、東グリーンランド海流と名前を変えてグリーンランド海に達する大きな海流の事です。
これらの一連の流れを北大西洋亜熱帯循環と呼びます。北大西洋亜熱帯循環を「非常に広い意味」でも、「メキシコ湾流」とは呼びません。
細かいことを言うようですが、個々の言葉の正確な定義と正しい用法に慣れ親しむことによって、具体的な理解が得ることがより容易になります。新しい言葉に出会ったら、焦らず、慌てず、その言葉をマスターしてください。
>wikiのメキシコ湾海流でも似た説明がされています。
Wikiの記述でも、その冒頭に「メキシコ湾流とは、北大西洋の亜熱帯循環の西端に形成される狭く強い海流で、黒潮と並ぶ世界最大の海流である。」と明記されています。これが湾流の説明の肝です。
なお、Wikiの湾流の成因についての記述は誤りです。引用元が明記されていない日本語版Wikiを参照する場合、特に「書きかけ項目」の記載がある場合には、ご注意ください。
---引用終わり---
上に述べてあるように「深海のYrr(1)」のメキシコ湾流の定義は誤りである。これが原著での誤りなのか、誤訳なのかはわからない。メキシコ湾流が南大西洋を流れていないのは、欧米人の常識であるように思うが・・・ なお、冒頭に示した文中の「塩分濃度」については、拙ブログの以下の記事をご覧ください。
関連記事:塩分と塩分濃度
2.エディ
「深海のYrr(1)」のp452の中頃に以下の記述がある。
ニューファンドランド島付近で冷たいラブラドル海流とぶつかって混ざり合う。そのとき、エディと呼ばれる温かい水の渦が生まれ、さらに北上する。地上気圧配置で至る所に高気圧や低気圧があり、その周りを大気が渦巻いている。これと同じく、海洋の至る所にも時計回り、あるいは反時計回りの渦(中規模渦)がある。中規模渦の直径は200km程度である。この中規模渦は英語ではMeso-scale eddyと書き、eddyはエディと発音する。この意味で、「エディと呼ばれる温かい水の渦」という訳は誤訳である。
強いて訳せば「ニューファンドランド島付近で冷たいラブラドル海流とぶつかって、周りよりも温かい水の渦をいくつも作りながら、さらに北上する。」となるであろう。なお、日本東方でも南からの黒潮と北からの親潮の間の混合水域では渦が頻繁に発生している。
3.沈降流
「深海のYrr(1)」のp453の初めに以下の記述がある。
海流の終点ですべてが滝のように落ちるのではなく、いわゆる煙突状の流れとなって深海底まで続いている。その場所は常に変わるため、煙突状の流れを見つけるのは困難だ。このグリーンランド近海での沈降流の説明について、拙ブログの記事のコメント欄での佐藤秀さんからのコメントへの管理人の回答を以下に再掲する。
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メキシコ湾流とそれに続く海流の秘密は、そこでの水の沈み込みにあった。海流は北へながれるのではなく、北極にある強力なポンプによって大西洋の底に吸い込まれるのだ。・・・・
---Posted by hiroichi at 2008年08月02日 11:40---
現在では、深層循環で世界の海の深層を廻る深層水はグリーンランド沖の狭い海域で局所的に沈降しているという考えに否定的な研究者が大勢と思います。
---引用終わり---
さらに補足すれば、北極海の比較的広い範囲で形成された海水が斜面から大西洋の底層に流れ込むと考えられている。また、沈降流が深層大循環を引き起こしているのではなくて、海上風による表層海水循環も関係していると考えられている。
なお、「深海のYrr(1)」のp453の後半で、「煙突状の流れ」を見つけ出せない研究者が、「そもそも地球の巨大ポンプがその仕事をやめ、煙突が消滅してしまったように思えてならなかった」ことを予感していることが述べられている。この推論はあまりに乱暴な論理展開だと思う。「煙突」の実在が確認された後ならば、その消滅を予感しても不自然ではないが、まだ、その実在を確認していない状況でその消滅を予感するはずがない。沈降した後の海底での流れの量を観測している研究者がその量の減少に気づくという展開ならば自然であるが・・・
「地球温暖化が進行した場合には深層大循環が停止する」という説については、十分に信頼できる結果は得られてはいない。10月24日付けのサイエンスの記事では温暖化が進んでも北大西洋の塩分は低くならない(むしろ高くなる)という数値モデル計算結果を示した論文(Stott, P. A., R. T. Sutton, and D. M. Smith (2008), Detection and attribution of Atlantic salinity changes, Geophys. Res. Lett., 35, L21702, doi:10.1029/2008GL035874.)が紹介されている。
4.おわりに
「深海のYrr(3)」のp498-500には深層大循環の文学的な説明がある。しかし、その内容の詳細は必ずしも現在の研究者が共有している認識とは一致していない。また、現在、構想中の装置が実用化済みであるような記述もある。
この本では、科学技術情報や科学者の行動をかなり現実的に記述しており、真実味にあふれている。しかし、これは小説であり、海洋科学の教科書でも入門書でもない。この本に記載されている科学技術情報に興味を覚えた読者は、この本に書かれていることを鵜呑みにせず、教科書、参考書、啓蒙書、インターネットなどで確認して欲しい。
最後に、「海がこんなにも深く、暗く、宇宙よりも隔絶された未知の世界であること」は間違いはないことは保証します。
メキシコ湾流についての解釈なのですが、実はあの後で別の本を読んだ折にも、小説中で船乗りがメキシコ湾流という言葉を、北極近くの海にまでかなり広げて使っているのを発見しました。その本の名前は、ダン・シモンズの「ザ・テラー」(早川書房)です。サー・ジョン・フランクリンの最後の北極探検を描いた小説です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3
メキシコ湾流という言葉が欧米の船乗りの間で、現在の科学的な定義とは別に、北極海近くの海流までを暗に含めた言葉として(昔から)慣習的に使用されている可能性もあるかもしれないと考えている次第です。欧米の船乗り言葉に詳しい方の評論を頂ければ確認できるかと思うのですが…
>欧米の船乗り言葉に詳しい方の評論を頂ければ確認できるかと思うのですが…
まず、原著を読んで確かめるのが先のように思います。「深海のYrr」の中にも、明らかに海洋学の最近の知識の乏しいことが原因の誤訳があります。
ただし、以下の記事のように、海流の名前は、その流れについての調査・研究が進むにつれて変わることがあるのも事実です。この意味で、海を舞台とする小説における海流(その他の事実や背景も含めて)の説明では、誤った知識を広めないためにも、できるだけ現在の定説となっている情報を正確に取り入れてほしいと思っています。
参考(2007年06月22日付けの記事):黄海の流れ(3)改め 日本海の黒潮
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/5791473.html
アゴラで地球温暖化の議論がまた始まり、リンクを貼りつけた記事のコメント欄でバトルしています。温暖化の件で、海洋学関係の疑問が生じました。このコメント欄で、いくつか質問しても宜しいでしょうか?
宜しくお願いします。
ご紹介頂いた記事とそのコメント欄を拝見しました。
地球温暖化に関わるご質問でしたら、「地球温暖化」をキーワードとした検索で拙ブログに来られる他の読者の目にも止まることを願って、本記事ではなくて、地球温暖化に言及している以下の記事のコメント欄でお知らせくださいますようお願いします。
「地球温暖化のメカニズムの嘘」について
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/5517677.html
なお、私はMiyamaさんと実際にお会いする機会が多いという意味で親しい関係にありますことを予めご了承ください。ただし、共同研究をするほど近くはないので、Bobbyさんのご質問にはMiyamaさんと別な視点からお答えできるかもしれないと思っています。