最近、いくつかのブログで「安全。でも安心できない・・・― 信頼をめぐる心理学(ちくま新書、中谷内一也著)」が話題になっている。
ブログ「独り言つ」の2008年10月16日付け記事「安全。でも安心できない・・・」
ブログ「きっと一生わからない」の2008年10月23日付け記事「安全。でも安心できない・・・」
ブログ「若だんなの新宿通信」の2008年10月24日付け記事「安心は信頼から生まれるんじゃないかな」
これらのブログに触発されて、「科学リテラシー普及の意味」とか「信頼のマネージメント」とかについて、いろいろ考えを巡らしていた。その最中、サイエンスの10月24日号のPolicy Forumに「Risk Communication on Climate: Mental Models and Mass Balance (Science (24 October 2008: Vol. 322. no. 5901, pp. 532 - 533, DOI: 10.1126/science.1162574)、気候についてのリスクコミュニケーション:精神構造と質量保存」と題する寄稿が掲載されているのが目にとまった。
これらの記事からリスクコミュニケーションについて、あれこれ考えたことを述べる。
1.リスクコミュニケーション
経済産業省のHPによると、リスクコミュニケーションとは
安全など事業活動にかかわるリスクは、少ないことが望ましいのですが、リスクをゼロにすることはできません。このため、上手にリスクとつきあっていくことが重要になります。特に、多種多様な化学物質を扱っている事業者は、そうした化学物質の環境リスクを踏まえて適正な管理を行うことが重要です。とのことである。
そのためには事業者が地域の行政や住民と情報を共有し、リスクに関するコミュニケーションを行うことが必要になってきます。これがリスクコミュニケーションです。
関連資料:
東京大学グローバルCOE、拠点探訪、世界を先導する原子力教育研究イニシアチブ
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』リスク・コミュニケーション
サイエンス10月24日号の寄稿は、二酸化炭素削減の促進を支持する立場から、気候変化の原因と危険性についての科学的合意と一般の人々の認識の相違の現状とその原因について論じている(質量保存測という物理の基本原理が理解されていないため、二酸化炭素排出量削減の緊急性が理解されていない)。そして、科学者集団が一般の理解を得るために以下の行動をとることを勧めている。
1)IPCCの「政策立案者のための要約」は人々の精神構造(Mental Model)を変えるのには技術的すぎており、IPCCはもっと平易な形でその発見を公表すべきである。上に述べたことから察するに、どうも、リスクコミュニケーションとは、リスクを伴う「事業推進者」が、「行政担当者や住民」の理解を得るために行う情報普及・教育活動のようである。しかし、いくら情報普及・教育活動を行っても、「地域の行政や住民の安心」を得るのは難しいのが現状である。中谷内さんは、このことを「安全。でも安心できない・・・― 信頼をめぐる心理学」で論じているようである(まだ、読んでないが、以下のブログの書評や目次から推定した)。
2)明確性が不十分である。「一般常識」と「科学」が対立したときには、人々はしばしば「科学」を排除する。真面目に気候変化の危険を回避しようと願っている人々でさえ、蓄積の概念を誤って理解し、二酸化炭素放出の増加を止めさえすれば気候は速やかに安定すると誤って信じており、待って観察する(wait-and-see)という対応に信を置いている。
3)気候学者は、心理学者、社会学者、他の社会科学者と手を結んで、人々と交流すべきである。
ブログ「404 Blog Not Found」の2008年10月09日付け記事「安心はあなたの仕事 - 書評 - 安全。でも、安心できない…」
ブログ「アンチ福岡伸一BLOG」の2008年10月11日付け記事「安全。でも安心できない・・・」
2.リスクコミュニケーションと科学リテラシー普及活動
管理人は、英国での科学リテラシー普及活動を紹介したSience Portalのイベント開催レポート、「BAサイエンス・フェスティバルの活動」で美馬さんが述べているそれまでの科学リテラシーの位置付けについて、違和感を感じていた。
パブリック・エンゲージメントとは、これまでパブリック・アンダースタンディング・オブ・サイエンス(公衆の科学理解)としてきた活動を一歩進め、積極的に「関与」してもらおうというものです。この文中での「公衆の科学理解」という表現には「上から目線」を感じた。このことは「パブリック・エンゲージメント」という言葉にも感じた。
関連記事:「21世紀の科学技術リテラシー」
ブログ「独り言つ」の記事「安全。でも安心できない・・・」では、
本書の真骨頂は、第5章「感情というシステム」であろう。と述べている。このリスク判断(リスクコミュニケーション)において、感情的なシステムを考慮すべきであるという指摘には同意する。それよりも、管理人は、「感情的になってはいけない。科学リテラシーを高めて、合理的な判断に従うべきだ。」という表現を読んで、「ああ、多くの人は、科学リテラシーの普及活動を、リスクコミュニケーションの一環として捉えているのだな」と、上に述べた英国の事情や、我が国における官製の「科学リテラシー」普及活動の多くに対して管理人が抱いていた違和感の源が指摘されたように思った。
我々のリスク判断には、理性的なシステムと感情的なシステムとの両方が対等に関わっている、したがって、「感情的になってはいけない。科学リテラシーを高めて、合理的な判断に従うべきだ。」という主張には難がある、というのがそこでの指摘である。
「リスクコミュニケーションの一環としての科学リテラシーを高めること」と「合理的な判断に従ってリスクを理解・容認すること」の間には大きな溝がある。
それは、ブログ「SciencePortal担当です」の記事「【その他】「21世紀の科学技術リテラシー」」でブログ主のMiWさんが述べているように、
科学技術の基礎的素養の問題ではなく、政治・経済が抱える背景をもって力で「上から誘導されているのではないか」と疑ってしまうということでしょうか。これは双方向のコミュニケーションが不足しているから起こること?ためであろう。この溝を乗り越えるためには、多分、互いの価値観の相違を認め合いながら行う真の「双方向」のコミュニケーションしかないのではないかと管理人も思っている。
3.安心と信頼
ブログ「404 Blog Not Found」のブログ主のDanさんは、記事「安心はあなたの仕事 - 書評 - 安全。でも、安心できない…」の冒頭で、
本書、「安全。でも、安心できない...」は、安全と安心の違いを説いた一冊。ちなみに安心と信頼の違いを説いたのが「安心社会から信頼社会へ」で、本書とあわせて読むのに最高の一冊である。と、「安心社会から信頼社会へ(中公新書、山岸俊男 著)」を紹介している。
Danさんの記事によると、「安心社会から信頼社会へ」で筆者(山岸俊男)は、「安心」と「信頼」を以下のように定義している。
安心さらに、「安心と信頼は似てて非なる概念ある」ことの具体的な例として、
社会的不確実性が欠如した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること
信頼
社会的不確実性が存在した状態で、相手が自分の期待通りの行動を取ると期待すること
融資する時に担保を求めるのは、信頼ベースの取引ではなく安心ベースの取引というわけだ。安心ベースの取引においては、社会的不確実性の最小化という取引リスクの受け手は行動する側、すなわち受諾者ということになる。と述べている。このような、山岸俊男のいう「安心と信頼の違い」を認識しているはずのDanさんだが、「安全。でも安心できない・・・― 信頼をめぐる心理学」で、筆者(中谷内一也)が安心と信頼を結び付けて議論していることについて、特に異論を述べず、重要な結論として、「安心はあなたの仕事なのである。提供者に出来るのは、安全まで、なのである。それを安心に転化するのは、本来利用者の仕事なのである。」ことを挙げ、最後に、著者(中谷内一也)の以下の文を示している。
これに対し、信頼においては、社会的不確実性の消し込みは行われない。経済活動においては出資がこれに当たる。信頼関係において、リスクを取るのは信頼する側、すなわち供託者ということになる。
筆を置くにあたっていささか夢想的なことをいわせていただくと、社会が異なった立場の人びとで構成されているという前提を取払い、すべての人が「自分の中にある相手の立場」が理解できれば、社会のリスクマネジメントをもっと健全なものにできるのに、と思う。...消費者・市民が自分の中にある労働者としての立場を感じることができれば、逆に、企業や行政側の人が一消費者、一市民としての自分の気持ちを引き出すことができれば、どこまでの安全を実現すべきなのかについて合意が得られやすくなると思う。どうにも、Danさんの言わんとする文脈を読めない。
「安心はあなたの仕事なのである。」という結論は、山岸俊男の著書での記述の延長であり、中谷内一也は安心と信頼を不可分と見なし、信頼関係の構築における「自分の中」での双方向のコミュニケーションへの期待を表明しているように思う。
管理人は、確かに、安心は「相手の話を聞いて、自分で自分の置かれた状況に安心する」のであり、信頼は「相手の話を聞いて、自分で相手を信頼する」という違いがあるにしても、双方とも「思考停止」という意味では、安心と信頼は度合が多少異なるが同じであるという印象を持っている(安心の方が信頼よりよりも思考停止の度合が強い状況であるが)。
4.信頼
ブログ「きっと一生わからない」のブログ主のりこさんはその記事「安全。でも安心できない・・・」の中で、
どうしたら、安心してもらえるか、を分析し提案する部分で、と述べている。この記述に応じて、ブログ「若だんなの新宿通信」さんも、その記事「安心は信頼から生まれるんじゃないかな」で、
リスク管理者の専門性や能力が評価される時もあれば、
リスク管理者と自分の価値観が近いことが決め手になることもある。
という話があった。
たとえば、食品メーカーのリスク管理者が、小さな子供を持つ母親だったりしたら、「同じ母親として、彼女の言うことは信じられる」みたいな話になるわけだ。
信頼を勝ち取らなければならない、メーカーや行政のリスク管理担当者が、そういう側面を表面に出すという作戦は、ありだろうな。
研究者を信じてもらう所からしか、科学への無用な不振(ママ)は拭えないのではないかと思う。と述べている。
このような担当者個人を信頼することから、その話の内容を信頼するという姿勢は危険であると管理人は思う。人は時、状況によって変わる。あることで信頼に足る行動をとっても、別な機会には、信頼を裏切る行動を取る。その全てが個性である。以前、読んだ「無責任の構造-モラル・ハザードへの知的戦略-(PHP新書、岡本浩一著)」で組織の決定における属人主義(例えば、過去に優れた実績を上げた人の判断を重視しつづける)の害を説いていたのを思い出す。
また、共有する価値観があることをもって信頼するという姿勢も問題がある。人それぞれが異なる価値観を持っていて当然である。価値観の多様性を受け入れ、価値観を共有しない人との間でこそ信頼関係を築かなければならないと管理人は考える。
5.科学リテラシーの普及
「安全。でも安心できない」という状況は、科学的に安全を示し、地域行政や住民の理解を得ようとする事業推進者の姿勢が招いていると思う。地域行政や住民が安全に関わる科学的議論を理解するために科学知識としての「科学リテラシー」の普及させても、住民の安心を得ることはできない。それは、「上から誘導されているのではないか」という疑念を抱かせるからである。このような状況を打破するためには、時間がかかっても、安全性の科学の限界と不確実性を包み隠さずに示すこと、安全性の判断は当事者である住民(住民を代表する議員)に任せること、が重要であると考える。事故が発生したしたときに、その原因を「想定外」という言葉で説明するリスクマネージャーは、職務放棄したのと同等である。
価値観の多様性を受け入れ、価値観を共有しない人との間でこそ信頼関係を築く方法として最も有効な方法が科学の営みでは取り入れられている。科学の営みには限界と不確実性を内在しているということを含めた科学についての知識を主な要素とする科学リテラシーの双方向のコミュニケーションによる普及こそが、「安全。だから安心」という状況を生みだすと思っている。