現代日本の科学の繁栄は専門家が築いたものです。専門家の信頼性に疑問を持つ人は、日本の科学技術の繁栄を、どう考えるのでしょう。何を理由に専門家が信頼出来ないのでしょうか?という別のエントリーのコメント欄での読者の質問へのstochinaiさんの回答であったが、ますます混乱した。それは、質問が「科学技術の専門家集団が非専門家からの信頼を失っている理由」を問うているのに、回答が「信頼性(権威)を失ったものは専門家以外にもたくさんあります。」と「信頼性=権威」いう認識の言葉で始まっていることにある。
結局、stochinaiさんは、「専門家集団が信頼を失っている理由」として、
いわゆる専門家が「御用学者」として、科学の名前を借りて国民をだます側にまわったという史実がたくさんあります。と述べている。この理由には同意する。しかし、
科学者・専門家を非難する人々は、科学や技術は信頼しても、それを作ったのがたくさんの科学者・技術者であるというところの理解は欠けているような気がします。という記述を読むとやはり一言、言いたくなる。事態はもっと深刻で、科学者・専門家を非難する人々の中には、科学や技術そのものに不信を抱いている人々も多いと思う。
「専門家集団という存在」に対する信頼性を回復するためには、危機感を持った人間が地道に不断に信頼回復の努力を続けるしか、当面の方策はないと感じています。
1.権威
wikipediaで「権威」を検索すると、
権威(けんい、Authority)とは、自発的に同意・服従を促すような能力や関係のこと。威嚇や武力によって強制的に同意・服従させる能力・関係である権力とは区別される。代名詞的に、特定の分野などに精通して専門的な知識を有する人などをこう称することもある。と説明されている。また、goo辞書(三省堂提供「大辞林 第二版」)では、
(1)他を支配し服従させる力。となっている。
「親の―を示す」「―が失墜する」
(2)ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること。また、そのような人。オーソリティー。
「その道の―」「―ある学説」
したがって、stochinaiさんの「信頼を失った権威」という題目で、「権威」が第2義的な「特定の分野などに精通して専門的な知識を有する人」、あるいは「ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められている人」という意味で用いられているのならば、「信頼を失った専門家」という意味であり、誤りではないと言える。また、「信頼性(権威)を失ったものは専門家以外にもたくさんあります」という表現を「信頼性を失った(ある方面でぬきんでてすぐれていると一般から認められなくなった)ものは専門家以外にもたくさんあります」と読み直すと、大きな誤りではないことになる。管理人の違和感は、管理人が「権威」の意味を「非専門家を支配し服従させる力」とその第1義に限定して考えていたことによる。
2.信頼
wikipediaで「信頼」を検索すると、
信頼(しんらい)とは、相手を信用し、頼りにすること。信用が、「悪いようにはしないだろう」程度の消極的な人間関係であるのに対し、「自分の味方になってくれる」との、積極的な意味合いがある。という説明がある。ともかく、「信頼」は対象となる相手へ信頼を抱く人の心の持ち様を表しているといえよう。
科学の全ての分野の最先端の知識を理解することが不可能となっている現代において、それ以上の詳細はその分野の専門家の言うことを信頼するしかないと立場に立たざるを得ないレベルがあるとは思う。しかし、その場合でも、懐疑論者さんが、記事「あなたが懐疑主義だと思っているものは懐疑主義ではない」で示している以下の「信じるための5つのガイドライン」を肝に銘じておく必要があろう。
1.調べる努力をせよ
2.信念ではなく根拠に基づいて信じよ
3.根拠の強さに応じて確信度を決めよ
4.信じるときは間違っていることを覚悟せよ
5.根拠が不十分ならば保留する勇気をもて
3.科学は権威を認めない
「信頼を失った権威」という表現が誤りではないにしても、管理人は「ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められている人」を「権威」と呼ぶことには、その人に第1義的な「他を支配し服従させる力」を持っていることを暗黙の中に認める意識が含まれているように感じてしまう。
科学の営みは、モデルの構築とその検証という試行錯誤のループをを繰り返して、対象についての理解
教育の場で言えば、教員は権威者として振舞って、学生を服従させるのではなくて、学生自らが問題を設定し、他人が納得する根拠を示す方法を身に付ける手助けをする姿勢が重視されるべきであると考える。
4.一般に信頼されない科学専門家
非専門家と専門家の間でも、専門家は権威者として、その知識・理解を非専門家に押し付けてはならない。専門家は自分の専門分野については責任をもって、どこまでが分かっていて、どこが分からないのかを非専門家に説明する責務がある。非専門家は、専門家のいうことを鵜呑みにすることなく、自分で疑問に思ったことを専門家にぶつけ、自らの理解を深める作業を進めることが推奨されるべきである。この意味で、専門家が無条件に信頼される正当な理由はない。
仮に非専門家の理解が得られない場合には、それは専門家の説明の仕方が悪いのであって、専門家の説明を理解できない非専門家
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追記:
表現の一部訂正しました。
stochinaiさんをsatochinaiさんと誤って表記していました。お詫びして、訂正します。
2008年8月25日01時40分
すみません、どちらが悪いのでしょうか?双方ということですか?
>どちらが悪いのでしょうか?双方ということですか?
タイプミスのご指摘をありがとうございました。以下のように訂正します。
訂正前:非専門家が悪いと
訂正後:非専門家は悪くないと
同意します。専門家が信頼を押し付けてくる場合、何らかの政治的意図がある場合が多いとおもいます。他に、専門知識の欠如を理由に、無条件の信頼を求めてくる専門家が、ミクシーの医療コミュなどに多いですね。残念な事です。
>専門家の説明を理解できない非専門家は悪くないと考えるべきだと思っている。
多少の異論があります。世の中には、自分の生活以外に興味を示さず、天変地異や病気を他人(専門家)任せにして「信じる」ふりをし、問題が起これば「信頼を裏切られた」と怒り出す人達がいかに多いことか。