>標準的な日本人は専門家の意見を「鵜呑み」にして「思考停止」する人が圧倒的に多いのも事実です。と述べた。ここで「郭」という字を使ったことに自信がなく、改めてネットで調べて見た。その結果、やはり「郭」という字を使ったことは誤りで、正しくは、「徳不孤、必有鄰(読み下し文:徳は孤ならず、必ず隣あり)」であって、論語の里仁(りじん)篇の一節に記載されている言葉であることが分かった。また、多くの人がこの言葉について述べていることを知った。以下に、それらを読んで考えたことを述べる。
ちょっと意味は異なりますが、「徳、孤ならず、必ず、郭あり」という言葉があります。
批判的思考方法を身に付けた、専門家を無条件に信用しない非専門家を一人でも増やすためには、自分の思いに囚われず、柔軟に、焦らず、騒がず、諦めず、発言し続けることが大事だとを思っています。
一般的説明
この言葉の意味は、一般的には、以下のようである。
本当に徳のある人は孤立したり、孤独であるということは無い。純一高潔な人や謹厳実直な人はとかく近寄りがたく敬遠されがちなこともあるが、しかし、如何に峻厳、高潔で近寄りがたいと言っても真に徳さえあれば必ず人は理解しその徳をしたい教えを請う道人や支持するよき隣人たちが集まって来るものである。この初めの一節と全く同じ説明が2007年12月確定のYahoo!知恵袋<「孤不徳」と「徳不孤」>で、「ベストアンサーに選ばれた回答」としても示されている。オリジナルは埜村住職であろうと思われるが、住職の解説年月日(たぶん、2005年)が明記されていないため、断言できない。
中略
人はおうおうにして、自ら学び得たことや、技量が世間に省みられず、認められないことは耐え難いことである。ところが、それまで己の主義主張や心操を曲げて、世間に妥協し世間に迎合してしまいがちになることも少なくない。しかし、意志堅固に道を求め続け、学において究め続けていれば、身に光は備わりおのずから理解者は現れ、支持する人も出てくるものなのだ。
福岡県宗像市承福寺のHPでの埜村要道住職の解説より抜粋
孤不徳について
なお、「孤不徳」については、東京工業大学理学の細谷暁夫さんが、「理学部長就任にあたって」の「「孤不徳」と「徳不孤」」と題する挨拶で、
この2月に雪の箱根で研究会があった。2日目の夕方に懇親会があり、その会場の座敷の鴨居に、永井道夫先生の書が架かっていた。言うまでもなく、永井先生は本学の教授であったのを、時の三木首相に懇請されて文部大臣を務められた方である。その書は、分かりやすくしかも端然とした「孤不徳」の3文字であった。と述べている。「孤不徳」についての細谷さんの思いに管理人も異論はない。bobbyさんの悩みも「孤不徳」と考える人が多いことを嘆いているのと同じである。
お恥ずかしい話だが、私は書というものに全く無知で、思わず「孤は徳ならず」と左から読んでしまい「賛成できない」と傍らの人に言ってしまった。その人は小声で「右から読むのではないでしょうか?」とやんわりと指摘して下さった。はっとして、右から読むと「徳は孤ならず」と大変よい言葉になり、論語にあった「徳は孤ならず、必ず鄰(となり)あり」のはじめの3字であったと思い出した次第である。
徳はとかく煙たがられて一見「孤立」することもある。しかし、どこかには必ず理解してくれる人がいて、忍耐と寛容を持って誠意を尽くせばやがて多くの人にも支持して貰える、と「徳不孤」は言っている。
しかし、「横並び精神」「海外で群れる日本人」「談合体質」などの言葉を聞くと、最近の日本人には「孤不徳」を信奉しているものが多いのかも知れない、とも思う。
中略
思い出してみると、私の学生時代の先生あるいは父や祖父と比較すると、どう考えても「孤不徳」は最近の日本の特徴と思われるのである。歴史的にどの辺でおかしくなったかについては、わたし自身の考えがまだ熟していないのでここには述べない。
以下略
別の解説
さて、さらにネットで調べると、本松良太郎さんが運営する「総合心理相談(ES DISCOVERY)」のHP内の「百科事典のウェブページ」に、出典は記載されていないが、以下の記述を見付けた。
『論語』の里仁篇の「25.子曰、徳不孤、必有鄰。」の解説これらの記述を合わせて考えると、「徳不孤」の「徳」は、単なる「自ら学び得たことや技量」や「意志堅固に道を求め続け、学において究め続け」て得たことではなく、また「純一高潔な人や謹厳実直な人」でもない。そうではなくて、「本当に徳のある人」あるいは「社会において正しい道を実直に実践する君子」を示している。
社会において正しい道を実直に実践する君子は、周囲から受け容れられず孤立しているかのように見えることもあるが、実際には必ずそういった道徳的な人生に感化される仲間を生み出すものであり、道徳の実践者は孤独ではないのである。孤高の君子は正しき道を踏み行っていれば、必ず良き理解者や支援者を得ることができるという孔子の処世訓である。
『論語』の顔淵篇の「5.司馬牛憂曰、人皆有兄弟、我独亡、子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天、君子敬而無失、与人恭而有礼、四海之内、皆為兄弟也、君子何患乎無兄弟也、 」の解説
司馬牛の兄の司馬タイは、宋の景公に反乱を企てたり孔子を襲撃したりするなど道徳的に好ましくない人物であり、宋から追放されて衛に亡命した時に司馬牛と司馬タイの兄弟の縁は絶縁状態になっていたとも言われる。血縁関係にある大切な兄弟を失った司馬牛が悲嘆に暮れていたところ、同じ儒教教団の門下である子夏が来て『徳は孤ならず』の同志愛の精神を説き、兄弟がいないくらいのことを憂う必要はないと励ましたのである。『君子敬みて(つつしみて)失なく、人と与わり(まじわり)恭しくして礼あらば、四海の内皆兄弟たらん』の部分は、人徳によって膨大な数の民衆の支持を結集して安定的に国家を統治するという、儒教の徳治政治の理想につながる部分でもある。
まとめ
「自分の主張や学び得た正しいことはいつか必ず周囲に受け入れられる」という信念を論語の「徳不孤、必有鄰」を根拠として持つためには、「「自分の主張や学び得たこと」が「本当に正しい」のかを謙虚に見つめる必要がある。「周囲に受け入れられる」ために、凡人は「忍耐と寛容を持って誠意を尽く」すことしかないように思う。
追加
上で述べた一般的な解釈と全く異なる解釈が遇宮流山人さんの「古典の名言・名句集―哲義繙無碌(てつぎはんぶろぐ)☆Tetugi-han-blog☆」の記事「論語を読む:徳☆愛国心、品格のベースとなる要素の一つ」で述べられている。
◇まとめると、「徳というものは、身内のなかに学べるものであって、それを絶った孤高のものではなく、人とのつながりというものがあって、はじめて学べるものなのですよ」というように、孔子がおっしゃられたのでしょう。聖書でいえば、「人はパンのみに生きるにあらず」に通じるのでしょう。また、ぶしどうマネジメントの指針集『論語』(主要参考図書:『論語新釈』宇野哲人著 講談社学術文庫)では、
(意味)徳の高い者は、孤立することはなく、必ず親しみをもって人が集まるものだ。これらの解釈は、まさに「孤不徳」に通じている。百科事典『ウィキペディアによると、宇野哲人(1875-1974)は「漢文学者で、東京大学名誉教授。東方文化学院院長、実践女子大学学長などを歴任」と紹介されている。参考図書を確認していないが、ここら辺から、日本人に「孤不徳」を信奉しているものが多くなったのかも知れない。なお、宇野哲人については、白川静が平成12年8月19日、中國藝文研究會臨時大會で行った講演「京都の支那学と私」の記録で京都学派と対比して言及している。
→ 孤立している人は、徳が低いと言える。
「自分だけが正しい、他はみなバカだ」と思っていると、人は集まらない。
人が集まらないということは、情報も入ってこず大きな仕事もできないことになる。謙虚になろう。
言わんとしていることをよく理解してくださり、ありがとうございます。友遠方より来るでしょうか。
結局、学部長在任中に有徳の士を少なからず見いだすことができ、その方達の助けで難局を乗り切ることができました。論語は実用書でもあるとしみじみ思います。
『論語新釈』宇野哲人著の存在をはじめて知り、唖然としました。
すごい曲解ですね!現代の日本の世相が反映されています。
コメントをありがとうございました。
検索で辿り着いたサイトのみを拝見し、学部長職を退かれていたことを確認せず、失礼いたしました。
何かと暮らしにくい世の中にあって、ブログ・ネットの世界を通して、私と同じ志を持つ細谷先生のような方々が少なからずいらっしゃることを知り、力付けられています。
今後も、自分の思いに囚われず、柔軟に、焦らず、騒がず、諦めず、発信し続けようとを思っています。