1.日本海洋学会の創立に至る経緯
今日のエントリーは以下の関連記事の続報です。3)の最後に、「日本海洋学会の創立に至る経緯の詳細は「日本海洋学会20年の歩み」で述べられているようだが、手元にない。」と述べた。これに対し、先日、読者のお一人から、「日本海洋学会20年の歩み」の中の関連個所「日本海洋学会創立当時の思い出(宇田道隆)」を送って頂いた。ありがとうございました。
この内容は、昭和7年4月の第1回海洋談話会から昭和16年1月の日本海洋学会発足までの長い道のりが記述されている。その詳細は、以下のリンク先をご覧ください。
この資料の著者である宇田先生は、管理人が36年前の学会でデビューした時の学会長であった。会場の最前列に陣取って熱心に質問されていたことや大判の紙を使った口頭研究発表を懐かしく思い出す。この資料を読むと、今と変わらず、昔も、人々が色々な思惑で動き、物事がすんなり運ばなかったことが分かる。海洋基本法の成立を契機に、社会と海洋研究とのつながりが深まり、海洋に関わる種々の学会の在り方が問われる中、日本海洋学会創立に至る経緯が人々の記憶のから失われてしまうのは惜しいと考え、ブログで紹介させていただきました。
関連記事:
1)2007年6月15日の記事「黄海の流れ」
2)2007年6月21日の記事「黄海の流れ(2)」
3)2007年7月1日の記事「大正14年の日本海洋学会」
2.日本海洋学界
拙ブログでは、上の関連記事3)で、
「谷川健一著 甦る海上の道・日本と琉球(文春新書)」で紹介されている「与那国町史第1巻」での「その当時、草創期であった日本海洋学会では」という記述は、「その当時、草創期であった海洋学会では」とすべきである。ただし、この誤りを犯したのが「与那国町史第1巻」の著者である正木譲氏なのか紹介者の谷川健一氏なのかは、「与那国町史第1巻」での記述を確認できないので、不明である。と述べた。これに関連して、最近、ネット検索をして、正木譲(俳号:正木礁湖、元南大東島地方気象台長)氏の随筆集「南風(パイカジ)日記選集」を見つけた。その中の「与那国島の岸辺を洗う黒潮」で、
その当時、草創期の日本海洋学界では、まだ日本列島付近を洗う黒潮の全貌をはっきり把握していなかったが、西表島北東沖を出発したおびただしい量の軽石群が、まさに絶好の海流瓶となって、黒潮の壮大な流れの模様をズバリ示してくれたのである。と述べている。
「与那国町史第1巻」の著者である正木譲氏の随筆の一部であり、南風日記選集と与那国町史の記述が共通しているとすると、「与那国町史第1巻」での記述は、「日本海洋学会」ではなくて、「日本海洋学界」であったと推定される。「日本海洋学界」という語句に違和感がある(「日本の海洋学界」か?)ものの、この表現ならば、私が拘っていた日本海洋学会の創立年と矛盾はないことになる。
文春新書の記述は誤植の可能性が高い。「一字違えば大違い」の一例であった。
なお、正木氏は、「与那国島の岸辺を洗う黒潮」の最後に、
いま、私たちは民族学などの人文学科と海洋学などの自然科学の各分野のあらゆる知識を結集して、日本文化の根源をさぐり、立証しておかなければならないだろう。と述べている。全く同感である。谷川健一氏も同じ道を目指していたのだが、まだ海洋学の最新の知識の活用については不十分であったと思う(関連記事2参照)。
ラブログのシステムでは管理人だけへのコメント(非公開コメント)を送信する機能は設定できません。
ご面倒でも、拙ブログのトップページにリンクしてある「公開ウェブサイト」で公開している管理人のメールアドレスをご利用ください(スパム対策のため、全角表示にしてあります。半角に変換してください)。