白川静と言えば、私は「志・恒・識」という言葉を思い出す。この言葉を初めて知ったのは、白川静が1999年に勲二等瑞宝章を受章した後の会見で述べているのをTVニュースでかいま見たときだったと思う。
その談話に強い感銘を受けて、翌年から、1年後期学生を対象とした海洋環境学の授業における<付録>「自然環境と科学技術」のレジメの最後で、自分の解釈を加えて、
5)研究者への道:「勉強」ではなくて「研究」に必要なこと:独創性と紹介した。授業時には、自分の解釈に確信を持てないものの、「天才はいざ知らず、優れた独創性を持たない私を含めた凡人は、志・恒・識が必要である。これから受ける学部の授業の目的は識を身に付けることにある。ただし、研究者を目指すのなら、識を身に付けるのみならず、志と恒も必要である。」と説明した。
独創性を育むためには...
「志」理解したい,解き明かしたいというココロザシ
「恒」ツネに,絶えず問題に取り組む
「識」過去の研究成果,知見をシる.
ネット検索で、その詳細が、『致知』2001年1月号に掲載されているのを、ブログ「超健康が夢 院長日記」の記事「学び続ける 白川静先生最終回 若い人に贈る言葉」で知った。このブログに引用されているインタビュー記事を以下に示す。
<引用開始>
―先生は、勲二等瑞宝章を受章後の会見で、若い人に贈る言葉をおっしゃつていましたが、大変いい言葉だと思って聞きました。あれは・・・・・。
白川 学問には、「志あるを要す、恒あるを要す、識あるを要す」と。これは中国の有名な曾国藩という人の家訓にある言葉でな。
―家訓ですか?
白川 僕は非常に的確に言うておると思うて記憶しておるんでね。
―どういう意味なのか改めてお尋ねします。
白川 「志あるを要す」は、例えば人が歩くとき、どちらの方に歩くかという方向を決めずに歩くことは不可能だ。まず、自分はどっちに行こうとしているのかを決めるのが肝心。
「恒あるを要す」は、何でも持続せないかんということ。いっぺんやったら事が済んだと思うたらあかんのです。同じ事を繰り返してやる。ぼくは書物を読むとき、重要なこと、いいなと思うことは書きながら読む。そして読み終わったときに書いた紙を見て復元してみるわけです。それを2~3回やると、ほんまのことを覚える。読んだことを自分の身につけるためには、繰り返さないといかん。そして要約して肝心要のことは頭の中に打ち込んでおく。
すると、後でその見出しの部分を打てば、ある程度ぱっと広がって内容が出てくる。これが大事なんです。
それから「識あるを要す」。価値判断ができなければね。愚にもつかんようなことを一所懸命覚えても何にもならん。知識は断片的では役に立たんのです。1つの面積、できれば立体的、構造的になるのがよろしい。
「識あるを要す」というのは単に分別するということではなくて、自分の持っている過去の体系の中に、それをどのように組み込むかということなんです。単なる部分では消えてしまうが、全体の中の部分であれば。忘れることがない。
曾国藩の言葉を、ぼく流に解釈すればこうなります。 ―以上『致知』2001年1月号より―
<引用終>
白川静の解釈が、私の理解よりもっとずっと深かったことを8年後に思い知った。
なお、「曾国藩の言葉」の出典とその読み下し文がブログ「Genza_Aboshiの今日のやり残し」の
エントリー「白川先生のお別れ会にて」
http://d.hatena.ne.jp/Genza_Aboshi/20061230
に示されている。この出典と比べると、「白川静流の解釈」は「曾国藩の意図」を超えていると思う。
3月9日に一部加筆修正
先生が私のブログにリンクを付けてくれたおかげで、白川先生の本当の思いを知ることができるとともに、言葉は生き物で変化していくことを思い知りました。ありがとうございました。
貴ブログの記事に言及しているにもかかわらず、TBできず、気になっていましたところに、コメントを頂きありがとうございました。
また、拙エントリーを貴ブログの以下のエントリーでご紹介頂き、御礼申し上げます。
佳き言葉は受け継がれ、解釈は変わりつつも生き続ける
http://d.hatena.ne.jp/Genza_Aboshi/20080309