毎日新聞 読売新聞
勤務先の広報担当者から、「この漂流瓶の経路などについて、某テレビ局から問い合わせの電話があったので、対応して欲しい」との依頼があった。上で紹介した読売新聞の記事で旧知の加藤修さんが既に答えていたのを知らず、日本海区水産研究所、函館海洋気象台、あるいは九州大学応用力学研究所に問い合わせるように伝えた。社会貢献が重要視されている折から、私が答えて勤務先の宣伝に一役買うべきだったかもしれない。しかし、私よりも、日本海に詳しい人が対応するのが相応しいと考えた。記者が専門家のコメントを必要とした時に適切にアドバイスできるように、早急に海洋学会に報道機関からの相談窓口をつくる必要があると思う。
ともあれ、この海流調査瓶の発見に関連した話題として、以下に表層海流調査の歴史の概略を紹介する。
海流の研究は航海術から始まった
さて、海の流れは、海面を吹く風、その他の働きにより絶えず変動を繰り返している。海洋学では、あらゆる変動成分を含めた「海の流れ」を総称して「海水流動」と呼ぶ。
海に流れがあることは、昔から船乗りには経験的に知られていたことである。この流れは、一般には、舟が川を横切るときに経験する「川の流れ」に対比させて「潮の流れ」と日本では呼ばれていたと推測される。このことは、日本周辺の主な海流に、ともに「黒潮」、「親潮」と「潮」という字が含まれていることから推定させる。
この船の運航に影響する「潮の流れ」は、航海学では「偏流」と呼ばれている。対水船速(静止または動いている表層の水に対する船の相対的な速さ。船の推進力による速さ)と対地船速(海底・陸に対する船の相対的な速さ)の差(厳密にはベクトル差、対地船速ー対水船速)である。なお、昔の対水船速は、等間隔に結び目[ノット]をつけたロープを舷側から流して、一定時間に通過する結び目の数を数えることによって測られたことから、船の速さを表す単位としてノットが用いられるようになった。1ノットは1時間に1海里進む速さで秒速約55cmである。また、昔の対地船速は1日間での天体測量で測定された船の位置の1日間の変化から1日平均の対地船速が求められていた。
北風は北から吹く風、北流は北へ向かう流れである。風向は風が吹いていくる方向であり、流向は流れが向かう方向である。このように、風向が北の風と流向が北の流れとは向きが逆である。これは、流れによって船が流されていく方向を流向としているためである。1ノットが1時間に1海里(緯度1分の距離)進む速さで定義されている。これらの慣習は、海の流れの大きさと向きが航海術と密接に関係しているためである。
海洋学の一分野である海洋物理学は、主として、この種々の時間変動特性と空間分布特性を有する多数の成分から成り立っている「海の流れ(海水流動)」の分布とその変動のカラクリを理解し、予測することを目標として発達してきた。
海流の定義
「海流」とは、「海水流動」のなかで、一般には、世界各地の表層を水平方向に流れている流れで、特に、いつもほぼ同じ経路を通って、ほぼ同じ向きに流れている成分のことである。表層の一連の海流(表層大循環)は大規模な海面上の風の分布と地球回転の効果で引き起こされていると考えられている(風成大循環)。深層の一連の流れ(深層大循環)は海面における大規模な熱と淡水の交換量の相違と地球回転の効果で引き起こされていると考えられている(熱塩大循環)。なお、多くの人は「海流」と「潮流」は同義語と思っているかもしれない。しかし、海洋学では「潮流」は1日に2回繰り返す干潮と満潮に伴って生じている「潮汐流」を意味しており、海流と潮流は全く異なる概念である。「海水流動」には、「海流」、「潮汐流」のほかに、海面の風で引き起こされる「吹走流」、密度の違いによって生じる「密度流」、風波や潮汐流などの種々の要因で発生する「乱流」などがある。
我が国における最初の海流調査
我が国における最初の海流調査は、1893年に気象学者・海洋学者和田雄治博士の依頼によって郡司成忠大尉が親潮(以前は千島海流とも呼ばれていた)を調べるために400個の漂流瓶を択捉島から国後島で行った放流であるといわれている。漂流瓶による海流調査では、投入および回収されたときの位置と日時とから、その間の平均的な流速と流向しかわからない。海岸で拾得された漂流瓶については、その瓶がいつ、その海岸に漂着したのか不明なため、この方法では海水の流れの経路のおおよそはわかるが、得られる流速の精度は非常に低い。また、その経路もわからない。
とはいえ、例えば、1976年3月に種子島の西之表市安城小学校の6年生が卒業記念に放流した漂流瓶104本のうちの1本が17年後に、アメリカ西海岸のオレゴン州に漂着し拾得されたこと、あるいは、1989年秋に南種子町西野小学校の全児童117名が種子島南端の門倉埼から放流した漂流瓶の1個が10年後にマレーシアの海岸で拾得されたことは、「世界の海はつながっている」いう事実を如実に示している。
偏流の測定
海流調査の方法としては、漂流瓶による観測のほかに、対水船速と対地船速の差から流れを求める偏流観測がある。偏流には海流以外の変動成分が含まれる。北大西洋を往復する船舶の膨大な航海日誌の記録から求められた偏流資料を整理(平均)することによって、北大西洋の海流が捉えられたのが、欧米における最初の海流に関する科学的調査と言われている。
偏流の観測では、船で曳航した電極線に生じる電磁誘導起電力を測定するGEKを用いた観測が1950年代から1980年代まで長く続いた。現在では、対地船速はGPSによって高い精度で測定されるようになるとともに、対水船速も船底に設置された音響ドップラーソナーなどによって高精度で測定され、偏流の測定精度と測定間隔は飛躍的に向上した。また、水深が1000mよりも浅い海域では、船底から発した音響信号の海底からの反射を用いて、対地船速と船底・海底間の流速の鉛直分布を時々刻々と測定することが可能となっている。
漂流ブイ追跡=漂流瓶の現代版
大規模な表層流速観測として、1980年代には人工衛星を用いた表層漂流ブイ(ARGOSブイ)の追跡観測が盛んに行われるようになった。これは、海面上にわずかに浮くアンテナ部と海面下5mから50m深を中心として長さ15mの穴空き靴下型の抵抗体を有するブイの位置を、一日数回の割合で、その頭上を通過する人工衛星を介して地上で測定することによってブイの移動経路を追跡するものである。1990年代には黒潮流域に数百個の表層漂流ブイが日本、米国、韓国、台湾の研究者によって、日本南岸や東シナ海で放流された。これらの多数ブイの軌跡の統計的な処理により表層の流れの分布のおおよそがわかるようになった。特に、それまでのGEK観測資料では捉える事の出来なかった九州西方の北上流(対馬暖流の源流)が確認されたのは大きな成果であると私は考えている(このことについては、ブイの投入点に問題があり、疑問を呈する人もいる)。また、複雑な渦の存在も確認された。しかし、漂流ブイの数が限られていることや、漂流ブイの分布に偏りがあるため、流れの分布の時間変動の詳細を捉えることはできなかった。
点から面へ、10日間隔
1992年10月からは人工衛星により海面高度を測定することが可能となった。地球自転の効果を考慮すると、黒潮は流れは強くなくて、数日の間変化せず、粘性も働かないと近似したときには、黒潮の沖側は岸側より約1m高いことが導かれる。この近似(地衡流平衡近似)を導入することによって、逆に、海面高度の分布から表層の流れの分布を推定することができる。現在では、10日毎に、ほぼ全海面での表層流れが推定できるようになっている。ただし、海の流れは地衡流平衡近似が適用できない成分(時々刻々と変わる風による吹走流や潮汐流、他)がある。このため、表層漂流物体、クラゲ、魚卵などの漂流経路を推定するのには種々の工夫が必要となっている。
<おわりに>
今日のエントリーは長くなってしまいました。表層の「海流調査」の歴史を紹介しましたが、海面下の「海流調査」の歴史については、後日に紹介したい。ともあれ、先人の努力と、「観測技術」の発展によって「海流調査」研究が進展したという歴史の一端をお伝えできれば幸いです。
今回の記事は、基本的なところから順を追った内容だと想うのですが。
知らない事、知る機会が少ない事が丁寧に書かれていてなかなか読みごたえがあります。
勉強になりました。
コメントをありがとうございました。
説明に舌足らずなところがあり、読者に誤解を与えてしまっている箇所もあるのではないかと危惧しています。
分かりにくい点がありましたら、ご遠慮なく、ご指摘ください。
平成21年2月2日月快晴 午後2時過ぎに能登半島の羽咋市滝漁港の岩場に椰子の実が一個漂着しているのを見つけました。磯を散歩中です。岩場の波打ち際です。表面に白い小さなマキガイが付着している。能登外浦へ流れくるヤシの実は、どこから流れ着いたものだろうか。
島崎藤村の「椰子の実」の歌:「名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ 故郷の岸を離れて 汝(な)はそも波に幾月...われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ....」
民俗学者柳田國男が明治31年の夏愛知県の伊良湖滞在中拾った椰子の実の話を友人の島崎藤村に語った。藤村はそれを聞きその抒情詩を書いた、という。
石垣島沖でヤシの実投流が、島崎藤村の詩の再現を期待して愛知県渥美町(現田原市)観光協会が毎年行っていると聞きます。
石垣島からの漂流のひとつである可能性があるのだろうか。黒潮だけでなくて日本海流にのるものもあるのだろうか?そういう疑問がわきましたのでメールしました。漂着の椰子の実の映像 http://photozou.jp/photo/show/191628/17504302
ご覧ください。
>石垣島からの漂流のひとつである可能性があるのだろうか。
ご質問をありがとうございました。
拙ブログの記事「大正14年の日本海洋学会(続報)」
http://blogs.dion.ne.jp/hiroichiblg/archives/7257639.html
で紹介している
「南風(パイカジ)日記選集」
http://www.okinawa-jma.go.jp/ishigaki/old/paikaji/paikaji1.html
に以下の記述があります。
「この(西表島の北東沖での)海底大爆発によって海面に噴出した軽石は、10月も末のことだから荒北風(アラニシ)の風波で、八重山群島の各島々の海岸にも打ち寄せられ、白い砂浜を灰褐色に変えてしまったという。しかし、その軽石の大部分は、黒潮の本流にのって漂いはじめ、荒北風にさえぎられて一進一退しながらも北東方に流れていったのである。この軽石の群れは、九州・四国の海岸に流れつき、翌年の10月には北海道の礼文島に達し、その分流は、さらに津軽海峡を抜け、親潮の流れにはばまれて下北半島沿いに南下したという。」
この軽石と同じように、拾得されたヤシの実も風と黒潮(から別れた対馬暖流)によって能登の海岸にに運ばれた可能性は大いにあると思います。
>黒潮だけでなくて日本海流にのるものもあるのだろうか?
「日本海流」は「黒潮」の別名で、現在ではあまり使われていません。
黒潮は台湾の東から東シナ海に入り、大陸棚斜面に沿って北東向きに流れた後、屋久島と奄美大島の間のトカラ海峡から再び太平洋に出た後、四国南方を通過する流路を流れます。
南西諸島の北側(東シナ海)ではなくて南側を幅広く流れる流れに「日本海流」と書いてある地図帳がありますが、これは誤りです。
なお、南西諸島の南東側を北東に向かう流れ(琉球海流系)もありますが、表層での流速は東シナ海の黒潮に比べて非常に弱い流れです。また、南西諸島の南東側には渦が頻繁にあり、その流れは複雑です。このため、この流れによって四国沖に運ばれるのには、東シナ海の黒潮によって運ばれるのよりも長い時間がかかります。
上の説明で不明な点がありましたら、お知らせください。
ご丁寧なお返事拝読しました。
例の椰子の実は対馬暖流にのった可能性があるというお話をお聞きして、納得しました。
羽咋市の隣が志賀町です。志賀町の呼び名は「しが」ではなく「しか」です。これは九州志賀の島からの漂着民が能登にきて故郷の名を残したからであろうといわれています。
「能登金剛」という磯場があります。そこの奇岩は、朝鮮半島の金剛山あたりから漂着した人たちが地形が故郷の様子と似ていたから「金剛」と叫んだが実は異郷だった、そういう経緯があると聞きます。
羽咋市にある気多神社原生林の植生も海流の影響があると聞いています。その原生林から500メートルほどしか離れていない磯場に漂着の椰子の実同様に他の植物の実が流れ着き、拾われて、その種子が能登で再生するというケースもあったであろうと思います。海流が育んだ文化や自然、それが能登だという思いがつよくなりました。
貴重なご助言いただき、ありがとうございました。