そうだとすると、なんか修正すべきなのか。書きっぷりからは、そうでもなさそうなんだけど。と悩ませてしまう結果を招いてしまった。改めて、PISA2006における科学リテラシーの構成について以下に述べる。
注)第12回教科「理科」関連学会協議会 [CSERS] シンポジウム「市民として身につけるべき科学リテラシー」で国立教育政策研究所の小倉康さんによって配布された資料に基づく。
12月28日のエントリーで、「配布された資料では「科学リテラシーの3つの構成要素である「科学的な能力」、「科学の知識」、「科学についての知識」の各々のカテゴリーの詳細が示されている」と述べたが、これは厳密性に欠けた表現であった。資料では、「科学リテラシーは次の4つの要素で構成されている」と記載されていた。
1)科学とテクノロジーが関係する生活場面(状況・文脈)すなわち、12月28日の記述では、科学リテラシーの構成要素が、上で述べた4つの構成要素の中の3)科学的知識を構成する、「科学の知識」と「科学についての知識」の2項目と2)科学的能力とを合わせた3項目しかないような記述をしてしまった。
2)科学的能力
3)科学的知識(科学の知識と科学についての知識)
4)科学の諸問題への対応(態度)」
繰り返すが、科学リテラシーには、「科学的な能力」、「科学の知識」、「科学についての知識」のみではなく、
・環境、資源、災害・安全、健康、科学技術などに関する個人的・社会的・地球的な諸問題における科学との関わりを理解していること(状況・文脈)
・科学に興味を示し、科学的探究の必要性を支持し、資源と環境に対する責任を認識して行動する意欲を持つこと(態度)
も含まれているというのが、PISA2006における科学リテラシーの定義であった。
なお、ここで紹介した資料の詳細は
国立教育政策研究所監訳「PISA2006年調査 評価の枠組み OECD生徒の学習到達度調査」(ぎょうせい、2007)で紹介されているとのことである。PISAの定義を天下り的に受け入れる必要はないが、参考として原典に当たって調べる必要があると思っている。
先のエントリーで「科学についての知識」の理解を深める手助けとして、地球温暖化予測に即して、科学的探究の具体的な進め方の概略を述べてみたが、十分に説明できたかどうか自信はない。
知識偏重の教育改革、権威・権力・名声獲得を志向する大衆迎合・似非専門家の跋扈、繰り返される薬害行政、国民を混乱させる医療保険行政、ニセ科学の蔓延、実利追及の科学技術政策、理系離れ、混乱する地球環境問題への対応、センセーショナルな科学報道、等々の最近の危機的社会情勢を見ると、科学リテラシー、特に「科学についての知識」を社会に普及させる必要があることを痛感している。
「科学についての知識」の普及を目指すときに、人々から第1に
現代における科学
を端的に表す記述が求められると思う。しかし、「端的に表す記述」ほど誤解を生むものはない。結局、PISA2006で定義されている「科学についての知識」のような多項目の総体が「科学の定義」であるというのが無難な答えになってしまう。
このような「科学についての知識」を社会に普及させるためには、まず「科学者への科学リテラシーの普及」が必要ではないかと、このごろ考えている。そのためには、具体的に科学研究に従事している科学者が一般市民との双方向の会話を通して、科学者自身の科学への理解を高めるサイエンスカフェ活動が重要だと思う。その手始めとして、日本海洋学会教育問題研究部会の活動の一環として、春の日本海洋学会最終日の3月30日に品川駅周辺でサイエンスカフェ「気候変動と海」を開催することを目指し、会場探しを始めたが・・・
またPISAについて採り上げてくださり、さらに詳しい情報をありがとうございます。うちのブログへのトラックバックも受信いたしましたが、折悪しくサーバーの不具合で表示が更新されず、失礼しております(記事を投稿しても反映されない状況で、ブログの引っ越しも検討しています)。
先のエントリ以後、落ち着いて考える時間が取れずにそのままになっているのですが、主に「状況・文脈」「態度」というあたりが、わかるようで具体的なイメージが浮かばずにいるためです。もちろん、「科学の知識」と「科学についての知識」も(理解できているつもりではありますが)一般向けに過不足なく簡潔に説明するのは、難しいのですけれども。
〈「端的に表す記述」ほど誤解を生むものはない〉というご指摘にも共感を覚えるのですが、「見出しの拾い読みでも、そこそこの理解を得られる」といった記事を目指したいとも思います。難しいですが。
まずは今回ご紹介いただいたぎょうせいの本をひもといてみようかと思います。それで、まがりなりにも咀嚼ができたら、改めて稿を起こすつもりです。
早々にレスをありがとうございました。
TB機能が不良なのは寂しいですね。
>主に「状況・文脈」「態度」というあたりが、わかるようで具体的なイメージが浮かばずにいるためです。
資料では、<科学的リテラシーは、根源的な問い「科学とテクノロジーが関係する諸々の状況において、市民は何を知っていて、何に価値を感じて、何をすることが重要であるか?」に対して、科学的リテラシーを構成する諸要素とそれらの関係を図1のように構造的に捉えている。図2から図6に、各要素の特徴を示す。>と記述されています。
この文の中の、<科学とテクノロジーが関係する諸々の状況(を認識していること)>に対応したのが「状況・文脈」、<何に価値を感じて>に対応したのが「態度」ということのようです。この2つの要素について、私もじっくり考えたいと思っています。
>〈「端的に表す記述」ほど誤解を生むものはない〉というご指摘にも共感を覚えるのですが、「見出しの拾い読みでも、そこそこの理解を得られる」といった記事を目指したいとも思います。難しいですが。
「端的に表す記述」を考えたのですが、自分の「思い」を適切に表わす短い言葉を思いつかず、断念しました。亀@渋研Xさんが述べた「共有(私の理解では「個人の経験の普遍化」に通じていると思います)」もキーワードの一つではあるのですが、それだけでは言い尽くせない思いが私にはあります。
科学についての言葉で私の気に入っているものに、
「群盲、象をなぜる」、
「真理の前に師弟なし」、
「科学はプロセス」
というのがあることはあるのですが、これを説明しだすと長くなりますので、別の機会にアップします。
「科学の定義」は人それぞれで異なっていても良いと思います。それよりも、「科学哲学」者の科学論(玄人の科学論)ではなくて、素人の科学論を皆で議論することが重要なことと思います。学生時代に友人たちとよく酒を飲みながら徹夜でやった議論を思い出してしまいますが・・・
あまりお時間をとるのもなんなので、短く。
わたしは自然科学畑で育っていないので、まさに「素人の科学論を皆で議論」というのをネットのおかげでできているところです。そして、ぼくも学生時代を思いだしていました(ああ、もう20年以上も前のことなんだなあ……)。学生時代と違うのは、こうしてときどきご専門の方にお話をうかがうことができることです。こういう点ではよい時代になったと思います。
ところで、ぼくはこの手の話をするといつも思いだすのが、マックス・ヴェーバーが『職業としての学問』で書いていた(と記憶している)「学問の自由」です。スーダラ学生だったので、いつも曖昧にしか思いだせないのですが、確か自分の先生からの自由(権威からの自由?)という一項がありました。
「うわあ、学問ていうのはラジカルでアナーキーなんだなあ、こうでなくちゃなあ」なんて勝手な読み方で、「時の権力からの自由」なんていう話よりもよほど感心したことを思いだすのです。
当時の理解は浅薄だったと思いますが、こういう謙虚さと厳しさが科学には(自然科学に限らず)あって、そこに到達し得るということが人間の可能性なんだと、今も思います。
あまり短くないですね。すいません(大汗)。
また機会を見てお邪魔いたします。今後とも宜しくお願いいたします。