明治40年3月に当時の海軍水路部が刊行した「朝鮮水路誌」には、次のような記述があります(なお、原文のカナはカタカナです)。さらに、海軍水路部がいつ頃呼び名を変えたかを調べて、
日本海の黒潮(日本海流)
大隅海峡の西方に於いて本流より分離したる黒潮の一支は九州西岸沖を北方に流れ次て北東に転して対馬の南端に激衝し分枝して対馬海峡の東西両水道に入る。
此海流は日本北西岸、北洲西岸、津軽海峡及び宗谷海峡に於いては一年中常に之を見るも朝鮮東岸に於いては夏季にあらされは之を見す且つ頗る不規則なり。
少なくとも海軍では、今の対馬海流(これも昭和になってからの水路誌に、対馬暖流と書いているものと、対馬海流と書いているものの両方が存在します)を黒潮と呼んでいたようです。
明治40年刊行の朝鮮水路誌を引き継いだ日本水路誌第6巻(明治44年刊行)も朝鮮水路誌と同じ記述になっています。それが、日本水路誌第10巻(大正9年刊行。明治44年の第6巻を引き継いで朝鮮半島を記述)では、黒潮も対馬海流も見当たりません。その後、これが朝鮮沿岸水路誌として昭和8年に発行された時には、対馬海流と記述されています。という調査結果を教えていただいた。貴重な情報をありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。
また、日本水路誌第1巻(大正14年改訂版)には、対馬海流が登場していますので、大正後期には海軍は対馬海流と呼ぶようになっていたようです。
確かに、例えば、以前は「黒潮異常」と呼ばれていた黒潮の遠州灘沖での大蛇行現象が、近年では「黒潮流路の二重性」という概念で捉えられているのと同じく、海流の認識も研究の進展によって変化するのは当然である。とはいえ、対馬暖流(海流)の名称が昭和になってから使用されるようになったとは知らなかった。今となっては藪の中だろうが、誰がどのような観測結果や考察から呼称を変えたのか、その経緯に興味を覚える。
一般に研究者が通常の研究論文を発表する場合には、最新の成果、先行例、あるいは広く一般に受け入れられている認識を批判的に引用して、持論を展開する。また、一般向け書籍を著すときには、啓蒙家として、専門家の間で広く受け入れられている最新の専門知識や新たな仮説の存在を一般に広めることが務めと思う。この意味で、文春文庫という一般向け書籍において、「明治か大正までは正しくても、最新ではない」知識をあたかも自明なことのごとく披瀝することは、一般の人々に誤った知識を広めることになり、論外と思う。日本地名研究所長である谷川氏には、地名と同じく海流の名称にも繊細な注意を払い「大正時代までは・・・・と考えられていたが、現在では・・・」とでも述べてほしかった。
なお、対馬暖流が黒潮からの分岐流であるという説については異論があり、私も否定的である。しかし、対馬暖流の起源については、定説として確立されるまでには至っていないのが現状である。