2007年06月15日

黄海の流れ

このところ、毎日新聞の海洋学関連記事の監視報告ばかりしている。他紙にも同じような誤りはあるのだろうが、購読しているのが毎日新聞だけであるのみならず、毎日新聞は非常に多くの記事をWeb上に無料で公開していて引用しやすいということもある。

日常生活で海のことをあまり意識しない人々が、新聞記事で海が話題になったことを契機に海に目を向けた時にこそ、海のことをより正確に知ってもらいたいと思い、補足解説のエントリーを続けている。

そう思っていると、今日も東シナ海・黄海の流れについての研究をしていた者にとって衝撃的な記事が目に入った。

14日東京版夕刊のコラム「早い話が」で、「海には柵を作れない」と題して、北朝鮮から青森県に到着した脱出者(マスコミが多用している「脱北者」という用語について「5号館のつぶやき」さんがコメントしている。私にも同感するところがあるので、今後は私も「脱北者」という言葉を用いない)の脱出経路としての「海」について述べている。

この中で、東シナ海(「脱北者」とは違う意味でこの日本語表記にも注意してほしい。「東支那海」は日中交流の場では禁句です。配慮深い研究者は東中国海を使用しています)の流れについて以下のように引用している。
「魏志倭人伝」には、中国の植民地だった帯方郡(たいほうぐん)(今のソウル)から日本へ行くルートが書かれている。それによると、西海岸に沿って朝鮮半島を南へ東へとジグザグに進み、半島の南端までくると日本へ向かわずに左折していったん日本海に出る。そして対馬、壱岐(いき)と島伝いに進み、末盧(まつら)国(佐賀県唐津)に来た。

 複雑な航路をとったのは海流に逆行するからである。対馬海流は、一部が黄海に入り、韓国の西海岸を北上している。だが仁川と平壌の中間に突き出した長山串(ちょうざんかん)の沖合で90度左に折れて西に進み、中国・山東半島にぶつかり渤海(ぼっかい)を北上する。黄海に出た船は中国へ行くのは容易だが、南の日本に行くのは大変だ。(谷川健一著「甦る海上の道・日本と琉球」文春新書)

この黄海の流れの構造(流系)は私を含む多くの研究者の認識と大きく異なっている。

対馬海流(対馬暖流)は対馬海峡を西から東に通過する流れであって、黄海を北に進む流れは「黄海暖流」と呼ばれている。冬季に済州島の南から黄海の中央部を北へ向かう水温と塩分の舌状の分布から、この海流の存在が推定されていたが、係留流速計観測では確認されておらず、今のところ、冬季のみに存在する間欠的な流れではないかと推定されている。韓国西岸では潮汐流が卓越しているが、平均流は南へ向いている。黄海から渤海へ向かう流れはない。このような黄海における現実の流れと全くかけ離れた流れについて述べている
「甦る海上の道・日本と琉球」は大昔の本かと思って検索したら、今年の3月に発行された新刊本であった。その紹介文では
南九州の海賊・名和氏が南下、15世紀に琉球初の統一王朝・尚氏になった――。
この折口信夫の仮説を著者は、積年の研究の結果、さらに補強。
と述べている。紀伊国屋書店BookWebで紹介されている目次によると第2章の章題は「為朝の琉球入りと平家南走―源平落人の道」となっている。私たちの琉球海流系(琉球列島東の北上流)の研究成果が沖縄新報ほかで報道されたときに地元の年配の歴史研究者から「為朝伝説」との関わりについての質問が届き、否定的な返事を送ったことを思い出した。

自然科学の成果を取り入れて文化史を紐解くことは素晴らしいことと思うが、自然科学の成果についての誤った情報が採用された場合には、文化史について誤った結論を導くことになる。ともかく、この本を読んで、きちんとコメントしたい。
posted by hiroichi at 01:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 海のこと | 更新情報をチェックする
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